【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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病院からの帰り道、武道も志織も、お互い何も話さなかった。
ただ肩を並べて、無言のまま喧騒を極める街中を歩いていく。
「……あ」
沈黙が流れる中、それを破ったのは武道だった。
突然声を発した武道に、志織はどうしたのかと視線を向ける。
武道は鞄の中から、可愛らしい袋に入った何かを取り出し、志織に差し出した。
「ん?」
「遅くなったけど、喧嘩賭博の時のお返しです。ハンカチ汚しちゃったから」
「あれはあげたんだよ。気にしなくて良いのに」
「貰いっぱなしってわけにはいかないっす!本当はもっと早く渡したかったんですけど、志織さんに会う時はいつも突然だったから渡しそびれてて……。遅くなっちゃいましたけど、これヒナと一緒に選んだんで、良かったら受け取って下さい!」
「うーん……。そういう事ならありがたく貰うね。ありがとう」
「はい!」
志織がプレゼントを受け取ると、武道はほっとしたような笑みを浮かべてみせる。
先程までの重々しい空気は、いつの間にかなくなっていた。
それから別れ道が来るまで、二人はとりとめのない会話を交わした。
武道と別れた後に志織が向かったのは、しばらく帰っていなかった自宅だった。
バッグの奥にしまい込んでいた鍵を取り出して、鍵穴に挿し込み、解錠する。
扉を開けて靴を脱ぎ中に入ると、居間には志織の母親がいた。
「あ、帰って来たんだ」
「うん。お母さん、まだ仕事行ってなかったんだね」
「何、行ってなかったら悪い?」
志織の母は真っ赤なリップを唇に塗りながら、志織をキッと睨み付けた。
「そんな事言ってないけど…。いつもこの時間はもう仕事に行ってるから」
「今日は開店準備行かなくてよくなったの。新しい人が入ったからさ」
「そうなんだ」
志織は母の言葉にそう返しながら、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してコップに注いだ。
私にも頂戴と言う母に、志織はもう一つコップを取り出し、お茶を注いで母に渡した。
その時母の甘ったるい香水の匂いが鼻腔を擽って、志織は思わず少し顔をしかめる。
「あ、ねえ明日からしばらく帰って来ないでくれる?明日からね、彼が来るの」
「…また彼氏出来たんだ」
「そうそう~。あんたがいたら邪魔だからどっか行っててよ。どうせあんたもいっつも男の家いるんだし大丈夫でしょ?」
「…うん、聞いてみる」
「ていうかさあ、あんたまだあの子と付き合ってんだねー。あの空手の道場やってるとこの孫」
「そうだけど、何」
「うわやばー。小さい頃結婚するーってよく言ってたの、すぐに飽きるのに何言ってんだかと思ってたわー。あんたよく飽きないねー。あ、でも大人になったら流石に飽きるか」
母は志織を馬鹿にするように、ケラケラ笑いながらそう言った。
無神経な母の言葉に、志織は握っていた拳につい力が入る。
「そんな言い方しないで。私はお母さんとは違うから」
「ちょっと〜!そんな怒んないでよ!ただ思った事言っただけでしょ?本当冗談通じないんだから」
「冗談って…」
「あ、そうだ!これからは外泊とかそういうのも連絡して来ないでいいから。私彼氏出来て忙しいし、あんたに構ってる暇ないんだよね」
「……そう、分かった」
志織が返事をすると、母はよろしくねと微笑んで家を出ていった。
「はぁ……」
一人になった家の中に、息を吐き出す音が小さく響いた。
母が部屋からいなくなった事で緊張は少し解けたが、母の容赦のない言葉たちが心に突き刺さり、鈍い痛みを残している。
微かに震える脚に力を入れて立ち上がると、覚束ない足取りで歩みを進めながら、志織は自室へ向かった。
綺麗に片付けられた部屋の奥に置かれたベッドに、志織は倒れるように寝転んだ。
自分の家であるはずなのに、自分の部屋であるはずなのに、なんだかとても居心地が悪かった。
自分のベッドに寝転んでも、少しも気持ちが落ち着かない。
万次郎の部屋にあるシングルベッドに、二人で体を寄せ合って眠る方が、何倍も落ち着ける。
万次郎は今、どうしているだろうか。
連絡をしてみても、いいだろうか。
けれど今万次郎の温もり触れてしまったら、きっと堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなってしまう。
そうなってしまう事が何となく怖くて、志織は携帯に伸ばしかけた手を引っ込めた。
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