【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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龍宮寺が万次郎に連絡をして状況を伝えると、万次郎の焦ったような声が受話器から聞こえた。
『なんで志織がそんなとこにいんだよ…っ!家にいるはずだろ?』
「俺も詳しい事は分かんねぇ。でも何かあったみてぇでずっと泣いてんだ。俺とぶつかった時に転んで怪我もしちまった。悪ィマイキー」
『怪我?!大丈夫なのかよ!』
「膝擦り剥いてる。あと手も少し擦り剥いてるかもしれねぇ」
『…そっからケンチン家近いだろ?志織連れてって怪我の手当てしてやって。今から俺、迎えに行くから』
「分かった」
『それと、ちょっと志織に変わって』
龍宮寺はおうと返事をすると、耳に当てていた携帯を離して、そのまま志織の耳へ当てた。
「マイキーだ」
「ま、万次郎……?」
『志織?怪我大丈夫?』
万次郎の優しい声が受話器から聞こえて来て、志織の鼓膜を揺らす。
万次郎の声を聞いた途端、安心感も喪失感も全てが渦を巻くように志織の中を駆け巡って、大粒の涙が零れ落ちた。
「まんじろ……ごめ……ごめん……なさい……ごめんなさ……」
『ん、俺は大丈夫だから謝んないで?志織は怪我大丈夫?』
「う"ん、だ…大丈夫……前も…見ないで…走ってたら……、ケンチンに、ぶつかっちゃって…」
『そっか。そしたら今から迎えに行くから、ケンチン家で待てる?』
「万次郎来て…くれ、るの……?」
『うん、当たり前じゃん。すぐ行くからいい子で待ってて』
「ん、……っ分かった……。ありがと万次郎……」
『うん。じゃあケンチンに変わって』
「分かった……け、ケンチン……万次郎が、変わってって……」
「もしもし、マイキー?」
『じゃあケンチン、志織の事頼む。分かってると思うけど手ェ出すなよ』
「出さねーよ」
通話を終えると、龍宮寺は携帯をポケットにしまい、志織を支えて立ち上がらせる。
そして、すぐ近くにある自宅へ志織を連れて帰宅した。
膝や腕から血を流しながらポロポロと涙を溢す志織を見るなり、店で働く女性たちは心配した様子で志織に駆け寄ってくる。
以前万次郎と二人で龍宮寺の部屋を訪れた際、顔見知りになった女性たちだ。
「悪ィけど手当てしてやってくんねぇか?今マイキーこっち向かってっから」
龍宮寺がそう言うと、手が空いていた一人の女性が、救急箱を持って龍宮寺の部屋へ来てくれた。
「大丈夫?痛む?」
「す、少しだけ……」
「ちょっと我慢してね」
「はい…」
消毒液をかけながら、こびりついた血液を丁寧に拭き取り、絆創膏を貼ってくれた。
それをぼんやりと見つめながら、志織の脳裏に浮かんだのは、母の事だった。
幼い頃、志織が怪我をする度に、母は優しく声を掛けながら手当てをしてくれた。
母に手当てをして貰うとジンジンと痛んでいた傷口の痛みが和らいだような気がして、それが不思議で仕方なかったけれど、今思えばそれは母が与えてくれていた愛情のおかげだったのかもしれない。
でもこれから先、その愛情をこの身に受ける事はないのだろうか。
そう思うと辛くて悲しくて、志織の濡れた頬を、流れ出た涙が更に濡らしていく。
「ごめん、痛かった?」
「違うんです……っごめん、なさい……ご…め、ん……な……さい……っ」
言葉を紡ごうとしても、呼吸が乱れて話せなかった。
ハッハッと息を吸う音だけが妙に耳に付いて、うまく呼吸が出来ずに焦る気持ちが志織の心を埋め尽くしていく。
志織は苦しそうに顔を歪めながら、胸の辺りを抑えた。
「ま……んじ……ろ……まん……じろ……ま……」
「おい、志織!」
「志織ちゃん!」
二人の慌てたような声が、室内に響く。
手当てをしていた女性は背中を擦りながら、必死に志織へ声をかけた。
龍宮寺も何か言っているのが涙でぼやけた視界に映ったが、恐怖でいっぱいになった志織には届かない。
怖い、苦しい、死にたくない──。
そんな思考に支配され、まるで底のない暗闇に落ちているかのようだった。
手足がビリビリと痺れ始めて、力が入らなくなって、自分の身体なのにどうする事も出来ない恐怖が志織を容赦なく飲み込んでいく。
「志織……!」
瞬間、志織の身体を優しく包んだのは、慣れ親しんだ温もりだった。
大好きな匂いがふわりと香って、恐怖に塗れていた心を少しずつ溶かしていく。
「志織、待たせてごめん」
「まんっ……じろぉ……?」
「うん、そうだよ。志織、俺と一緒に呼吸して」
「……っ…うん、……」
志織が頷くと、万次郎は志織の背中を擦りながら大きく呼吸をしてみせた。
志織もそれに合わせて、ゆっくりと拙い呼吸を繰り返す。
何度も続けるうちに志織の呼吸も戻り、傍で見守っていた龍宮寺たちも胸を撫で下ろした。
「志織、もう苦しくない?」
「ん、大丈夫。ありがとう万次郎」
「うん」
万次郎は志織の頬を両手で包み込み、親指で志織の肌を涙を拭った。
先程と比べて顔色も良くなっていて、万次郎はホッと息をつく。
「二人も、迷惑かけてごめんなさい」
「気にしないで。収まって良かった」
「ああ」
「志織、今日はもう帰って休もう。後ろ乗れる?」
「うん、大丈夫だと思う」
「分かった。二人ともありがとな。助かった」
「おう、気を付けて帰れよ」
「ちゃんと傍にいてやんなよ」
「分かってるって」
龍宮寺たちに見送られ、志織は万次郎の後ろに乗って店を後にした。
生温い風が、二人の頬を緩やかに滑っていく。
「万次郎」
「んー?」
「ごめんね、迷惑かけて」
「俺、別に迷惑なんて思ってねーけど?」
「でも……」
「気にしすぎ。大丈夫だよ」
万次郎はそう言って、自分の腹辺りで組まれた志織の手を優しく撫でた。
「今日はもう何も考えないでいいよ。何があったかは明日聞くし、もし言いたくなければ言わなくてもいいから」
「……ん、ありがとう」
万次郎の優しさが、志織の心にじんわりと染み渡っていく。
もっと近付きたくて、志織は万次郎の背中にそっと頬を寄せた。
それに応えるように万次郎がもう一度志織の手をそっと撫でると、二人の口元が少しだけ綻んだようだった。
それから二人は特に話をする事もなく、無言のまま佐野家までの帰路につく。
けれど二人は時折、指先を交わらせながら、確かに心を通わせていた。
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