【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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長い時間を経てやっと母と和解をした夜、陽だまりのような暖かい気持ちを胸に抱いたまま、志織は眠りに付いた。
父の不倫が発覚してから触れる事のなかった母の温もりは、十数年ぶりに志織を包み込み、凍り付いた志織の心を優しく溶かしていった。
万次郎と離れ、母の刃物のような言葉を浴びる日々に眠れない夜が続いていたが、この日はようやく深い眠りに付く事が出来た。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光に目を覚ました志織は、枕元に置いていた携帯を手に取る。
時刻を確認すると、7時を過ぎたところだった。
今日は休日だからもう少しゆっくりしていても良いのだが、すっかり目が覚めていた志織は身体を起こしてベッドから出た。
リビングへ行くとカーテンを開け、そのままキッチンへ向かい、朝食の支度を始める。
母はまだ起きていないようなので、今のうちに準備をして、出来上がったら母を起こしに行って一緒に朝食を食べよう。
志織は、そう思っていた。
けれど、朝食の支度を終えて母の寝室へ行くと、そこに母の姿はなかった。
こんなに朝早くからどこへ行ったのだろうと思いながら、志織は携帯を手に取り、母へメールを打つ。
そしてメールを送信し終えた志織は、用意した食事の皿にラップをかけ、それを冷蔵庫へしまうと、ソファへと腰かけた。
きっとすぐに戻ってくるだろうから、テレビでも見て待っていようと志織は思ったのだ。
けれど、いくら待っても母は家に帰って来ず、連絡すら何もなかった。
志織は不安な気持ちを抑えながら、母へもう一度メールを送り、用意していた朝食に一人手を着ける。
少し食べ物が喉を通りにくいような気がしたが、じわじわと心に満ちる不安と一緒に、気付かないふりをして無理やり飲み込んだ。
それから昼を過ぎ、日が傾きかけても、母はこの家には帰って来なかった。
志織が送ったメールへの返信も一通もなく、電話をかけてみても、電源が入っていないとアナウンスが流れるだけだった。
何かあったのではないかと心配になった志織は、外へ出て近所のコンビニやスーパーを探して回った。
それ以外に母が行きそうな場所は見当も付かず、志織は結局母を見つけられないまま、家へ戻ってきた。
心の中を埋め尽くす不安な気持ちに押し潰されそうになりながら、携帯を開いて母の番号を呼び出す。
けれどやはり電話は繋がらず、電源が入っていないという無機質なアナウンスが、志織の鼓膜を虚しく揺らしただけだった。
「お母さん……どこ行っちゃったの……っ」
志織の口から漏れた悲痛な声は、シンと静まり返った空気にただ溶けていった。
それから更に数時間が経ち、夜も深くなった頃、玄関から物音が聞こえてきた。
電気も点けず真っ暗な部屋の片隅で呆然と携帯を握り締めていた志織は、弾かれたように顔を上げ、足がもつれそうになりながらも玄関へ向かった。
「お母さん……!」
「ああ、あんたまだ起きてたの」
「こんな時間までどこに行ってたの?心配したんだよ?電話もメールも全然繋がらないし……」
「ごめんて、そんな責めるような言い方しないでよ。それより聞いて!私ね、彼氏が出来たの!」
「……え?」
「昨日の夜にね、彼から連絡があったの。会いたいって。それで行ってみたら告白されちゃった」
まるで少女のように、無邪気に話す目の前の女を見つめる志織の身体は、微かに震えていた。
今ここにいる女は、昨日優しい温もりで志織を包み込んでくれた母と、本当に同一人物なのだろうか。
もはや昨日の母の面影は、一切なかった。
「え……な、なんで?お母さん、一人でも大丈夫になれるように頑張るって言ってたのに……」
「ああ、それ?なんか、やっぱり私には無理かなあって思って。まさかあんた本気にしてたの?」
「ほ、本気にするよ……!嬉しかったのに……優しかった時のお母さんが戻ってきてくれたって思ったのに……!」
志織が声を震わせながらそう言うと、母は嘲笑うかのような笑い声を上げた。
「本当あんたって単純だよね。笑える~!」
「お、お母さん……」
「あ、あんたももうあの子の家戻っていいよ。ていうか私、まだ彼にあんたの事話してないから、しばらく帰ってこないでくれると助かるんだけど」
「……っ」
心臓を、握り潰されたような感覚だった。
喉の奥が詰まって、呼吸もまともに出来ない。
じわじわと涙が溢れて、志織の頬を濡らしていく。
酷く惨めで居たたまれなくて、どうしようもなくなった志織は、そのまま家を飛び出した。
母が泣きながら抱き締めてくれた事も、立ち直る為の努力をすると言ってくれた事も、志織は嬉しかった。
けれど、それを信じていたのは自分だけだったなんて、信じたくなかった。
それでも母の言葉は志織の頭の中をぐるぐると回り、志織の心を蝕んでいった。
消えたい、消えたい、もう消えてしまいたい。
そんな思考で埋め尽くされた志織は、涙を流しながらただ闇雲に夜の街を走った。
喉の奥がひりつくように熱くて、呼吸が大きく乱れて苦しかった。
けれどここで止まったら、心がもっと苦しくなってしまうような気がして、止まれなかった。
そうしているうちに、いつの間にか志織は、人通りの多い繁華街に来ていた。
ろくに前も見ずに走っていたせいで、志織は道中にいた男に思い切りぶつかり、その衝撃で地面に倒れ込んだ。
擦り剥いた膝から、血が流れ出る。
「おい!大丈夫か!?」
「ご、ごめんなさ……」
「ってお前……志織?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、志織が顔を上げると、その目のに映ったのは龍宮寺だった。
「け、ケンチン……ッ!」
志織は慌てて、自分の顔を手で覆い隠した。
けれど龍宮寺には志織の涙で濡れた頬と真っ赤になった瞳が、しっかりと見えていた。
「おい、どうした」
「なんでもない……ッ」
「なんでもねえ訳ねえだろ!待ってろ、今マイキー呼んでやるから」
「万……次郎……」
愛しい人の名前を聞いた瞬間、張り詰めていた心が少しだけ解けたような感覚を、志織覚えた。
それは涙となり、志織の頬を流れ落ちていく。
龍宮寺は泣きじゃくる志織の姿を通行人から隠すように、傍らにしゃがみ込んだ。
そして万次郎へ電話をかけながら、何度も万次郎を呼ぶ志織の背中を優しく擦ってくれた。
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