【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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万次郎の脳裏にこびりついた、志織の怯えた表情と声。
それは消える事なく、むしろ万次郎の思考回路をじわじわと蝕んでいった。
頭の中を埋め尽くすのは志織の事ばかりで、食事も喉を通らない。
それはエマも同じようで、悲しそうな表情を浮かべながら、エマがぽつりと呟いた。
「マイキー、志織ちゃん大丈夫かなあ」
「……」
エマの問いに、万次郎は答える事が出来なかった。
志織の母親は、恋人との別れによって、かなり情緒不安定になっているようだった。
万次郎に愛され、大切にされている志織に、しきりに狡い狡いと怒りをぶつけていた。
今まで手を上げられた事はないと言っていたけど、怒りに任せて暴力を振るわれているかもしれない。
別れろと脅されて、泣いているかもしれない。
万次郎の心を埋め尽くす心配は、積もっていくばかりだった。
「このままずっと帰って来ないなんて事ないよね、マイキー」
深い思考に陥っていた脳が、エマの言葉で現実へと戻ってくる。
不安に瞳を揺らすエマに、万次郎は言葉をかけた。
「ずっとこのままなんて俺がさせねーよ。志織だって、絶対戻ってくるって言ってたろ」
それはまるで、万次郎が自分自身に言い聞かせているような言葉だった。
エマはその事に気付いていないのか、気付いていて追及しないのか、どちらなのかは分からない。
けれどエマは万次郎の言葉に対して、肯定の言葉を口にした。
「……うん、そうだね。志織ちゃんの事信じて待たなきゃ」
エマがぎこちなく笑う。
万次郎もエマの言葉に応えるように、しっかりと頷いた。
▼
その日の夜。
入浴を済ませ、自室へと戻ってきた万次郎は、倒れ込むようにベッドに横になった。
エマを安心させる為に色々な事を言ったが、万次郎の心はずっと靄がかかったように沈んでいた。
身も心も焦がすくらいに志織を愛しているというのに、未熟な今のままでは暗闇から救い出してやる事すらままならない。
どうしようもない無力感が、幾度となく万次郎を襲った。
今頃、志織は何をしているだろう。
いつもならすぐ隣に志織がいて、手を伸ばせば触れられるのに。
その体を抱き締める事も、愛しい唇にキスを落とす事も、簡単に出来たのに。
それなのに今は、顔を見る事すら叶わない。
志織を求めて無意識に伸ばした万次郎の手は、虚しく空を切り、寂しげにベッドの上へと落ちた。
ここに志織はいないと頭では分かっているのに、理性で抑え込もうとすればする程、会いたいという感情は大きく膨れ上がっていく。
「俺、志織がいなきゃ眠れねぇよ…」
万次郎は足元に丸まっていた愛用のタオルケットを手に取り、抱え込むように胸に抱いた。
そこに顔を埋めると、タオルケットから微かに志織の匂いが香る。
その香りは、抑え込んでいた万次郎の感情を決壊させるのには、十分だった。
会いたい、会いたい、会いたい……。
万次郎はベッドに沈み込んでいた体を起こして、愛機の鍵を掴み、外へ飛び出した。
一分一秒でも、離れていたくない。
それならもう、会いに行ってしまえばいい。
万次郎を突き動かすのは、衝動だけだった。
愛機に跨がり、鍵を差し込もうとガチャガチャと音を立てる。
「志織…志織……!」
焦りのせいかなかなか刺さらなかった鍵がようやく刺さり、エンジン音が辺りに響く。
それを聞いた万次郎の唇からは、安堵のため息が漏れた。
けれどその瞬間、万次郎の脳裏に突然、志織の言葉が過った。
──ごめんね万次郎。帰りたくないけど、万次郎ともう会えなくなっちゃうのはもっと嫌だから、一度家に戻るね
思わず息が詰まって、喉の奥でヒュッと音が鳴った。
志織は万次郎との未来を守る為に、母親の元に戻ったのだ。
ここで万次郎が会いに行ってしまったら、余計に母親の怒りを買って、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。
そうなったら、志織の選択が全て無駄になってしまう。
万次郎は必死に、自身を突き動かそうとする衝動を抑えた。
「クソッ!」
やり場のない怒りが、腹の底から込み上げる。
思わず噛んだ唇からは、じわりと血が滲んでいた。
「会いてぇよ、志織……」
万次郎の悲痛な声は、誰に届くでもなく、ただ虚しく夜の暗闇に消えていった。
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