【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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幼い頃の志織は、優しい父と母に囲まれて幸せに暮らしていた。
父は仕事が忙しく、なかなか家には帰って来ない人だったけれど、日曜日だけは必ず家族三人で過ごす時間を作ってくれていた。
空手の稽古を終えた志織を両親が迎えに来て、仲良く手を繋いでどこかへ出掛けたり、家で母の作ったご馳走を食べたりと、とても幸せだった。
けれどその幸せは、長くは続かなかった。
ある日曜日の事。
空手の稽古が終わっても、両親は志織を迎えに来なかった。
待っても待っても両親は一向に現れなくて、志織はその日、師範である万次郎の祖父に連れられて家へ帰った。
玄関を開けて中に入ると、そこには声を荒げてお互いを罵り合う、両親の姿があった。
その光景は、小学校に上がったばかりの幼い心にはあまりにも衝撃的で、残酷なものに映った。
両親の言い争いの原因は、父の不倫だった。
あれだけ仲の良かった家族の絆は、たった一瞬で脆くも崩れ去った。
志織はそれからすっかり塞ぎ込んでしまい、学校にも道場にも顔を出さなくなった。
万次郎の祖父が差し伸べてくれた手も取る事が出来ない程、志織の心は疲弊してしまっていた。
程無くして両親の離婚が成立し、父は家を出て不倫相手の女性の元へ行ってしまった。
志織の親権は母が持つ事となったが、優しかった母の姿はもうない。
すっかり変わってしまった母は、汚い言葉で志織を罵るようになった。
"あんたがいると、アイツの事思い出してうんざりする"
"顔も見たくない"
"あんたなんか、生まなきゃ良かった"
そんな言葉を浴びせられる度に、志織は泣きながらごめんなさいと何度も謝った。
けれど何度謝っても、母の罵倒が止む事はない。
唯一の救いは、暴力を振るわれる事はなかった事だった。
だが母の機嫌が悪い時は、無理矢理家を追い出された。
小さな手で扉を叩きながら、声が枯れる程何度も母を呼んでも、目の前の扉が開かれる事は、決してない。
優しく迎え入れてくれたあの頃の母の姿は、もうどこにもなかった。
それどころか、泣きながら何度も呼ぶ志織を、母はきつく叱った。
幾度となく溢れ落ちてくる涙を拭いながら、家の近くの空き地で、母が仕事に出るのを待つ日々が続いた。
そんな、ある日の事だった。
その日も志織は家を追い出され、近くの空き地で、母が仕事に行くのを待っていた。
遠くの方にどんよりとした重たい雲が見えていて、もうしばらくしたらこの辺も雨が降りそうだ。
だから志織は、ハラハラしながら母が出掛けるのを待った。
空を見上げた視線を落としてじっと地面を見つめていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「志織……?」
声のする方へ視線を向けると、そこにいたのは万次郎だった。
学校帰りのようでランドセルを背負った彼は、大きく目を見開いて志織を見つめていた。
口にくわえていた棒付きの飴がポトリと地面に落ちたが、万次郎はそんな事はお構い無しに志織の元へ駆け寄った。
「ま、万次郎……」
「こんなとこで何してんの?雨降りそうなのに」
「えと……」
何をどう言えば良いのか分からなくて、志織は再び俯いた。
「ていうかお前、学校にも道場にも全然来なくなったの何で?俺すげえ心配した」
「あの……」
「じいちゃんに聞いても何も教えてくれないし、俺には言えない事?」
悲しそうな顔でそう訴える万次郎に、志織は何度も何度も、首を横に振った。
震える唇を必死に動かしながら、志織は今まであった事を万次郎へ話した。
「……えと、あのね……私のお父さんとお母さん、この間離婚したの。お父さんは私とお母さんを置いていなくなっちゃって、お母さんは私の事邪魔とか顔も見たくないとか、そういう酷い事いっぱい言うの……」
「は?何それ。俺がぶっ飛ばしてやるよ、そんな奴」
「や、やめて……!」
志織は弾かれたように俯いていた顔を上げて、そう叫んだ。
「なんで?」
万次郎の鋭くて真っ黒い瞳が、志織に向けられる。
そんな視線に怯みそうになりながらも、志織は懸命に言葉を紡いだ。
「お父さんもお母さんも、前は優しかったの。今は優しくなくなっちゃったけど……。でも私、お父さんの事もお母さんの事も嫌いになれないから……だからやめて…殴らないで……」
志織の目から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
うまく呼吸が出来なくてしゃくり上げながらも、志織は万次郎を止めるように、その腕に必死にしがみついていた。
「……分かったよ。お前のお父さんもお母さんも、殴らない」
「ほ、本当…?」
「うん」
「よかった……」
万次郎の腕にしがみついていた志織は、安堵したような表情を浮かべて、その場に座り込んだ。
「泣くなよ。俺がお前を守るから」
「……へ?」
「約束忘れたのかよ、大人になったら結婚するって。男なら好きになった女守れねえとだめだって、シンイチローが言ってた。だから俺がお前の事守る」
万次郎の小さな体が、ぎゅっと志織を抱き締めた。
その優しい温もりが志織をそっと包み込み、冷えきった心を少しずつ溶かしていく。
「万次郎…っありがとう……!」
「うん」
幼い志織にとって、冷えきった心を溶かしてくれた万次郎の存在は、とても大きいものになった。
万次郎と一緒なら、どんなに辛い事が起きようと、きっと乗り越えていける。
心から、そう思えた。
だからこそ志織は、これからの自分の未来が万次郎と共にある事を、強く強く願ったのだ。
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