【長編/佐野万次郎】オレンジの片割れ
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どこかの国には、運命の人を指す言葉として"オレンジの片割れ"ということわざがあるのだそうだ。
切り分けた果実の断面とピッタリ合うのは、切り分けたもう片方だけである事から来ているらしい。
今となってはどこでそんな言葉を知ったのか覚えていない。
けれど"オレンジの片割れ"という言葉だけを鮮明に覚えていたのはきっと、それに該当する想い人がいたからだ。
私にとっての"オレンジの片割れ"は佐野万次郎という男の子だった。
物心つく前からいつも一緒にいた彼への恋心は、幼い私の心にも驚く程自然に馴染んだ。
「俺、志織が好き!」
万次郎からそう言われた時は嬉しくて嬉しくて、心の中が一瞬にして温かさに包まれた。
「私も万次郎が好きだよ!」
「ほんと!?じゃあ大きくなったら俺のヨメになってくれる?」
「うん、万次郎のおヨメさんになりたい!」
「約束な!」
万次郎はニコニコ笑いながら、小指を差し出した。
私も万次郎に倣って小指を出すと、万次郎のそれにしっかり絡め合わせる。
こうして私たちは、将来を誓い合った。
単なる子供の約束事だと笑う人もいるだろうけれど、私たちは本気だった。
だから私と万次郎はよく、小さな手を繋いだまま二人で家族の元へ行って、大きくなったら結婚するの!と言ってまわっていた事を今でもよく覚えている。
その度周りの大人たちは優しく微笑んで「本当に仲良しだね」と言ってくれるのがたまらなく嬉しくて、毎回万次郎と笑い合ったものだ。
幼い私たちに芽生えた恋心は歳月を重ねても消える事はなく、むしろ大きく確固たるものになっていった。
佐野万次郎は篠崎志織にとってかけがえのない存在となり、篠崎志織は佐野万次郎にとってかけがえのない存在となった。
紛れもなく私たちは、"オレンジの片割れ"同士だった。
だからこれからもずっと、変わらず一緒にいられると思っていた。
ある日突然、万次郎から別れを告げられるまでは。
「もう終わりにしよう、志織」
「どういう事…?」
「別れてほしいんだ」
「なんで…?私何かした…?」
「そんなんじゃない。でももう俺はお前とはいられない」
「嫌だ、万次郎…!」
「ごめん。幸せになれ」
それから万次郎は、私の前から姿を消した。
家にも学校にも、彼の姿はもうどこにもなかった。
私と別れた後、万次郎がどういう人生を歩んでいたのかは、大体知っていた。
それでも私は変わらず万次郎を愛していて、忘れるなんてどうしても出来なかった。
万次郎に会いたい。
またあの頃みたいに、隣で笑い合っていたい。
そんな叶うかどうかも分からない儚い願いを糧に、私は万次郎を探す人生を生きる事に決めた。
そして気付けば、私は27歳になっていた。
万次郎の傍にいられない世界を生きるのは私にとっては苦痛でしかなかったけれど、張り詰めてプツンと切れてしまった糸を何度も何度も結び直しながら、私は懲りずに万次郎を探し続けた。
終わりの見えないこの人生に心が疲弊する度、私はかつて万次郎と二人で過ごした場所へと足を運ぶようになった。
そこへ行くと二人で過ごした色褪せる事のない思い出が鮮明に蘇ってきて、僅かながら私の心を癒してくれる。
その日も私は、万次郎と過ごしたあの場所へと足を運んだ。
そこへ着くと、真夜中にも関わらず先客がいて、その寂しそうな背中に私の視線は釘付けになった。
視線の先で色の抜けた短い髪が、風にさらわれてゆらゆらと揺れている。
その後ろ姿に、痛い程に胸が締め付けられた。
そして、懐かしい名前が私の唇から滑り落ちた。
「万次郎……?」
目の前に座る彼は私の声に大袈裟に反応して、こちらへ振り返った。
そして私の姿を視界に捉えると、光の宿らない真っ黒な瞳を大きく見開き、慌てて立ち上がった。
そのままその場を立ち去ろうとした彼の腕を、私は必死に掴んだ。
▼
最愛の人はあの時とはすっかり変わり果ててしまったけれど、あの時と同じように私を隣に置いてくれるようになった。
けれど再会したあの日、私は全てを悟ってしまったのだ。
万次郎はもう、全てを終わりにするつもりなのだと。
私は万次郎と別れてからもあの場所へ何度も足を運んでいたけれど、万次郎と会う事は一度もなかった。
きっと万次郎は、私と別れてからあの場所へは行っていなかったのだろう。
それなのに、あの日私たちは再会した。
それは万次郎の行動に変化があった事を意味していて、私はそれに対してひどく違和感を覚えた。
そして彼を引き留める為に腕を掴んだ時、それは確信に変わった。
私は、間に合わなかった。
きっともう、傍で笑い合っていたいという私の願いは叶わない。
それどころか彼の心は救えない程、ぐちゃぐちゃに壊れてしまっていた。
全てを悟った時、私は決意をした。
万次郎が全てを終わらせるつもりなら、せめて私も一緒に逝こう──。
「……志織…本当にいいのか?」
「もう離れたくないの。万次郎と一緒にいさせて」
「……ごめんな」
「それは私の台詞だよ。間に合わなくてごめんね、万次郎……」
廃ビルの屋上で、万次郎の痩せ細った腕がそっと私を抱き締める。
あの頃よりもすっかり細くなった万次郎の背中に、私も腕を回してそっと抱き締めた。
「志織、愛してる……」
「私もだよ。万次郎の事ずっとずっと愛してる」
お互いの温もりを確かめ合うように私たちは唇を重ね、抱き締め合った。
何度か啄むようにキスを交わすと、私たちは手を繋いだまま歩みを進め、屋上の縁に足をかけた。
高所特有の強風が、私たちの足元をさらうように吹いている。
「行くぞ、お前ら!」
万次郎は最期、あの頃と変わらない眩しい笑顔を浮かべていた。
それはまるでもう会えなくなってしまった大切な人たちへ向けた笑顔に見えて、胸の奥が痛いほどに締め付けられた。
繋いだ手にもう一度力を込めると、それが合図のように私たちは身体を宙に投げ出した。
ああ、これで全てが終わるのだ。
涙が溢れる。
その涙は、もう万次郎が苦しまなくて済む事への安堵の涙なのか、それとも万次郎を救えなかった事への懺悔の涙なのか、私にはもう判断する事なんて出来なかった。
ただその涙を空中に置き去りにして、私たちの身体は抗う事すら出来ずに重力に飲み込まれて行くのを感じていた。
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