心躍るアンラッキー
「お、えらく男前になってんじゃねーか」
騒がしい教室から離れたひと気のないトイレ。一人休憩していた黒澤が入り口から姿を現した十希夫に向かって言った。
「どうだったよ、秀吉さんのパンチは」
「…もう知ってんのかよ」
「とっくに噂になってるぜ。いいのか?」
「何がだよ」
「トップとNO.2が揉めたんだ。派閥同士の喧嘩になんじゃねーの?」
黒澤の口調はあくまで他人事、いや、どちらかといえば面白がっているのかもしれない。
「どうだろーな」
「あん?」
「軍司さん次第だ、全部」
「……?」
一方、米崎が一服しようと入った空き教室。普段本来の使用目的以外にそう訪れない場所に見慣れた軍司の後姿があった。
「よぉ、」
自分と同じ目的でただ一服したかっただけなのか、それとも自分達に会うのを避けてのことなのか。軍司は目が合うなり苦笑を零した。
「奇遇だな」
それだけ言って隣りに並んで煙草を取り出した。
軍司は何も言わずに窓の外を見ている。
何か言うべきか…。
米崎は思案した。
『秀吉さんに軍司さんは渡せません』
そこで十希夫の言葉が頭を過ぎった。
…他人が口出すことじゃねぇよな。
二人とも無言で煙草を吹かす。軍司越しの窓からはB校舎の屋上と青い空が見える。流れる雲は速い。
「じゃ、俺行くわ」
一本吸い終わったところで丁度授業開始の鐘が鳴った。米崎が教室に戻ろうと足を進める。
「コメ、」
出口辺りで声を掛けられた。
「ん?」
「悪いな、」
逆光で軍司の表情は見えない。
「程ほどにしてくれりゃ問題ねーよ。それより、マサが心配してたぞ」
分かってる、そう言った軍司に米崎は苦笑するしかなかった。
「あれ、」
次の日の朝一番、マサは図書室にいた。昨日あれから何度電話しても繋がらなかった秀吉を捕まえるために。もしかして今日は学校に来ないかもしれないと思いながら、でも来るのを待とうと思った。
ところが目的の人物は思ったより早く現れた。というか、いつもより早い。
「秀吉!」
秀吉は指定席となっているそこへ座った。
「どうしたんだ?今日は早ぇな!」
するとマサが駆け寄ったのと同時、再び図書室の扉が開いた。
「軍司?!!」
マサは軍司を見て、秀吉を見て、もう一度軍司を見た。
「あ!俺、用事思い出した!じゃあな!」
危ねー危ねー、忘れるとこだった、と態とらしく呟きながら、マサは図書室を出て行った。軍司と秀吉、残された二人の視線がぶつかる。秀吉が立ち上がって軍司と向き合った。
「来ると思ってたぜ」
先に口を開いたのは秀吉。軍司は喧嘩でも何でも回りくどいことはしない。そしてこの件を長引かせるのを好まないことも知っている。だからこそ、朝一番で自分のところに来ると思っていたのだった。
「お前と十希夫がやりあったことが噂になってる。下のモンには余計な真似しねぇように言うつもりだ。今更お前んとこと揉める気はねぇ」
「あぁ、」
秀吉もそれには同意だ。自分達3年ももう引退を考える時期になっている。派閥同士の争いは軍司の言う通り今更なのだ。
ケリは着いた、と秀吉が煙草を取り出す。その秀吉の顔を軍司は眉を寄せて見ていた。秀吉の頬にはシップが貼られている。軍司の拳に寄るものだ。
「何黙って殴られてんだよ、」
怒気を孕んだその声に秀吉は煙草を取り出すのを止めて軍司を見た。
「殴られて黙ってるよーな奴じゃねーだろテメェは!日和ったのか、あぁ?!」
秀吉は何も言い返さない。
軍司が秀吉の胸倉を掴んでドン、と強く押した。2年前の秀吉だったら即反撃に出ていただろう。しかし秀吉は掴まれたまま軍司を見ていた。
「こんなことしても俺はお前を殴れねーよ」
秀吉は眉を下げて微笑んだ。
「一晩考えた」
「俺はな、お前が他の奴と話してるだけでそいつをぶっ殺したくなるくれぇ嫉妬してんだ」
「好きなんだよ。自分じゃどうしよーもねーくらいにな」
「だから殴れねぇ。それを日和ったって言われるならしょーがねぇ」
「お前の気が済むまで殴られる覚悟くらいある」
そう言って目を閉じた。
自分の挑発に対し返ってきたのは熱烈な告白。目を瞑ったのは無抵抗の証。軍司は胸倉を掴んでいた手を離した。
解放されて秀吉が目を開ける。
「軍司……、」
目を伏せたまま秀吉を見ようとしない軍司の口元に秀吉の手が触れた。
軍司の肩が揺れる。その動揺を見透かすように秀吉がふ、と小さく笑った。
「しねぇよ。今はな。」
―――どこかでガラスの割れる音がした。校舎の下の方では登校してきた生徒達の騒ぐ声が遠く聞こえる。図書室を出た後、軍司は美術室でも屋上でもなく、自分の教室に居た。
黒板の前では教師が淡々と数式を並べている。その光景を薄っすらと眺めながら軍司は何度も今朝のやり取りを思い出していた。なんだあの秀吉は。
告げられた気持ち。答えは決まっている。それを伝えたら今の関係はどうなる。今までの秀吉との関係は秀吉の気持ちの上に成り立っていたのか。それが無くなったら今まで通りではいかないのだろうか。
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