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煙草ネタ


真夜中の帰り道をとぼとぼと歩く。
現在の時刻は明日の日付を跨いだところ。幸い会社の場所は徒歩でも通える距離なため終電を気にする必要はなかった。いつも通りの帰宅時間だ。

私の勤める会社はいわゆるブラック企業で残業なんてものはザラにある。今日も残業後の帰宅だがまだ給料が出るだけマシな方だ。仕事した分、きっちりとお金は貰える。それならば恋人も家で待たせている相手もいない独身女の私が仕事を断る理由はなかった。
全てはお金のため、一時的に仕事を辞めてもやっていけるくらいの貯金が欲しい。転職をするならまずは貯金だ。
そんな目標を脳内で立てながら暗い夜道を進む。風がスーツの隙間を通り抜けては身体を徐々に冷やしていく。こんな生活が長く続くと心も身体もボロボロなのは当たり前で今日は一段と重い足を引きずって歩いた。

「あ‥」

途中で寄ったコンビニ袋を手に下げてマンションに着くと、ガラス張りの入り口横には喫煙ボックスで煙草を吸う一人の男がスマホに視線を落として立っていた。
彼はよくこの時間帯に煙草を吸っている。たぶん同じマンションの人だろうが、この場所以外で見たことはない。帰りが遅いのか、はたまたこの時間に吸いたくなるだけなのか。帰宅時間によく鉢合わせするから顔を覚えてしまった。整った顔立ちに細身でいて程よく筋肉も付いている体型は周りの目を惹く魅力があった。

「‥早く帰ろう」

それでも眺めるだけで留めているのは彼が煙草を吸っているからだろうか。
私は煙草のあの独特な匂いが苦手だった。更に健康にも害があるとなれば尚更、好き好んで吸う理由が分からない。それと喫煙者にある勝手なイメージから話し掛けることは出来なかった。
彼のことは無視して足早にマンションへと急ぐ。
しかし、その時だった。
そこまで高くないパンプスのヒールが、玄関に上がる直前に転がっていた石を踏みつけてつるりと滑った。身体が玄関の方へと崩れ落ちる。視界がボヤけた。

「キャッ」

踏んだ小石は倒れた反対方向へと勢い良く転がり、私は膝から地面に倒れてしまった。持っていたコンビニ袋からはお弁当が飛び出し中身がグチャグチャになって地面の上に無残な姿で転がっている。
悲しい現実と膝の痛みを意識すれば、自分の滑稽さが惨めに思えて目の奥からじんわりと涙が滲んでしまった。

「痛い‥」
「あの大丈夫ですか?」
「え?」

頭上からした声に顔を上げると、視線の先には先程までガラス越しに居たイケメンが膝を曲げていて、こちらを心配そうに覗いていた。

「え、と‥はい‥」
「あー‥色々周りが悲惨な事になっているな」
「そうですね」
「膝大丈夫? 立てるか?」

彼はこちらに手を伸ばすと右腕を掴んで引き上げてくれた。夜の風が鼻先をひゅるりと掠め目線を上げる。彼の手を借りて立ち上がると、膝からは赤い液体が流れていて針に刺されたような痛みが身体中を走り回った。

「血が出てるな‥これはまた派手に転んだな」
「そう‥ですね」
「少し待ってくれ」

彼は痛みに耐えるこちらを見て眉を寄せると、周りに散らばった鞄の中身、コンビニで買ったビール、悲しくも食べられなくなったお弁当などを手際良く片付けてくれた。マンションの隣にある公園でゴミを捨てて手を洗うと彼はこちらが立っていた場所に戻って来た。流れるような一連の動作に私はただ呆然と立ち尽くしていて、膝から流れていた血はパンプスまで伝う前に柔く固まりかけていた。

「あの色々と本当にありがとうございました‥ご迷惑お掛けしてすみません‥」
「別に良いさ。それよりも早くその怪我を消毒した方が良い」
「今からコンビニに行って買って来ます」
「‥ちょっと待て、家に無いのか?」
「あ、はい」
「はぁぁ‥‥」

私の返事を聞いて男は盛大に溜息を吐いた。何から何までダメダメな私に呆れたのか男はジト目でこちらを睨むなり、髪をクシャクシャと掻いてもう一度深く吐いた。何故か過保護じみた瞳で見つめられてぎゅっと心臓を掴まれた気分だった。

「私の部屋に来い」
「え‥‥え、えええ!?」
「別に変な意味じゃないからな。私の家にある消毒液を使えと言ってるんだ」
「あ‥あぁ‥そういうことですか‥」
「何だと思ったんだ?」
「いえ‥別に変なことは思ってませんよ‥?」
「教えて」

じっ‥と顔を見つめられて沈黙した空気が流れる。

「拉致されたりしないかなと‥」
「はあ‥何で?」
「だっていつも煙草吸っているし」
「喫煙者ってだけで変なヤツと決めつけるのは悪いぞ」
「そ、そうですけど‥イケメンっていうのも怖いですし」
「それは褒められているという認識で良いのか?」
「半分は褒めていますね」
「もう半分は何だよ」

呆れ顔の彼に頬を抓られてしまう。見た目から想像される印象と違い意外と優しいのかもと思っていたが前言撤回だ。今までの紳士的な対応と違い、今は少しだけ素の彼が顔を出しているようだった。

「あのお名前は‥」
「鉢屋三郎だ。というかお前いつも帰りが遅いよな」
「仕事の終わる時間が遅いんです」
「もしかしてブラック企業に勤めていたり、」
「もしかしなくてもそうです」

鉢屋さんの言葉に被せて笑えば、彼は「ああだから‥」と納得した表情を見せた。

「だから‥?」
「いつもコンビニの袋持ってるんだなって」
「見てたんですか!?」
「毎日毎日遅い時間にフラフラと帰って来る女が居たら目に入るだろ」
「フラフラはしていませんよ!」
「はは、今日はかなりしてたけどな」

鉢屋さんに笑われて思わず頬が熱くなる。
毎日フラフラと帰っていたつもりは無かった。勤務後はいつも瀕死状態だったがイケメンの横を通るにはそれなりの緊張感があったのだ。怖いものの顔はどタイプだし入り口を通り過ぎるまでは真面目な足取りで通っていたはずだったのに‥

「ま、早く部屋に行こう。消毒しないと悪化しそうだからな」
「すみません」
「気にするな、ああ‥そうだ」
「何ですか?」

何かを思い出した鉢屋さんの言葉を待っていると彼はこちらの手に腕を伸ばした。片手を優しく握られるともう片方の腕を腰に回され、まるでどこか夢の国へでもエスコートしてくれるようだった。

「え‥」
「晩御飯、私の家で食べて行けば? 弁当も無くなった訳だし」

月明かりに照らされた鉢屋さんは多分普段見る彼の三倍くらいは格好良いのではないだろうか。そう思わないとこの世は不公平だ。誰だってそんな甘いマスクで微笑まれたら断れない。

「‥はい」
「決まりだな。じゃあ行こうか」

彼の歩みに合わせて歩き出した。微かに煙草の香りが隣からふわりと鼻の上を通った。
煙草は嫌いなはずなのに何故か今はどこか甘ったるくて、何かを期待させる香りがする。それに小さく胸を震わせると私は少しだけ悪くないと思った。



fin.
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