1 - アルバレア邸(全4話)
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それから1週間ほど経ったがあの夜以来アリアが夜出歩くことはなかった。もちろん、部屋を訪ねてくることも。
孤独の恐怖を克服したのなら良い。
しかし、無理をして潰れそうになるのは些か困ってしまう。
ルーファスは机に伏して眠るアリアの隈を見てそう思うのだった。
なんとなく足が赴かず、1週間ぶりに様子を見に来てみると笑顔が出迎えるわけではなく、自習時間をサボり眠る薄桃の姿にルーファスは眉を顰めた。しかし、開きっぱなしのテキストに伏せて眠る様子と、何よりも目の下に浮いた隈がただの自堕落ではないと感じさせた。
色白の彼女の肌だとより目立つ隈。まつ毛がうっすらと濡れている気がしてルーファスはその目元に手を伸ばした。
「――ッ!!」
その手は目にも止まらぬ速さで拘束され、気がつけばルーファスの目の前には真紅のナイフの切先と殺意の滲んだピンクダイヤがあった。
「……驚かせたね、すまない。」
「……ぁ……ご、ごめんなさい!!」
アリアはルーファスだと気がつき目を白黒させ、すぐに手が解放された。突きつけられたナイフも同じ様に離され、音を立て床に転がった。
「私…ごめんなさい…しかも眠っちゃうなんて……あはは…だめですね、ほんと……」
動揺しているようで視線を忙しなく動かした後、アリアは笑みを浮かべて髪を耳に掛けたが、その手がひどく震えているのを慌てて隠すようにもう片方の手で押さえた。目が強く瞑られ小さく呼吸が数回、そして、アリアは再び笑顔を作るのにルーファスはふむ、と顎を撫でた。
「眠れていないのかい?」
「あ、っと、いえ…最近読書が面白くて、夜更かししちゃちました。」
下手な芝居だと思ったが、彼女の痛々しいまでの努力にルーファスは免じることにして「そうか」と言うに留めておく。
「もうこんな時間。私…お庭のお手入れの手伝いを頼まれていたんでした。失礼しますね…さっきは本当にすみませんでした」
小さく頭を下げるとナイフを拾い上げ、アリアは風のように去っていく。
ボロが出そうな時は多少怪しくても逃げるのが適切だ。ルーファスはアリアの賢明な判断に笑いを漏らした。
アリアはルーファスにクロスベルでのことを知られてはいけないと思っている。オズボーンの要請で《赤い星座》がクロスベル襲撃に乗じてアリアを拉致したという事実だ。
逆にルーファスは自分とオズボーンが繋がっていると言う事実をアリアに知られてはいけない。
ルーファスはつい気の毒な少女に慈悲を与えたくなるが、アリアはクロスベルを人質に取られているので慈悲を受け取ることを躊躇っている。現にこんなにも精神的に参っているのにアリアが夜出歩くことも、ルーファスの部屋を訪れることもない。1人孤独に痛みと恐怖に耐えている。
ルーファスは考えた。
このまま瓦解させ、懐柔し、絶対的な忠誠を彼女から得るか。それともこの狭い城館から放ち、もう少し広い鳥籠に入れ込むか。ルーファスの手元からは離れるが、帝国という地からは飛び立つことはないだろう。
何が最善か考えた。
自分の宿望や、今後の帝国の動きなど全てを加味し答えを導き出す。
「有能な部下はいるに越したことは無いが」
窓から中庭を見下ろし、一向に現れる事のない薄桃を思い返す。能力は申し分ない。全てを明かし暗躍のみさせるのも手だ。しかし、言伝にあった特殊な存在というのも気になる。
1週間前、身体を重ねた時。胸元の特殊な刻印がひどく印象的だった。いや、印象的だなんて易い言葉で片付けてはいけない。あの刻印にルーファスは理性を持っていかれかけたのだ。そんなことは初めてだった。それ程までにあの刻印には異質の魅力があった。
あの刻印がその特殊な存在に関係しているとルーファスは予測していた。そんなアリアに帝国でもっと広い交友関係を築かせるべきなのか。それも含めてオズボーンはルーファスを試しているのだろう。
「…やれやれ、手厳しい」
まだ必要な学習も終えていない。もう少し様子を見るかとルーファスは部屋を後にする。
――――
その日の晩もアリアの外出の報告は無かった。もちろん、ルーファスの部屋への訪問者も無しだ。
寝衣に着替えながら、彼女の精神と体力にそろそろ無理がではじめる頃だが、とルーファスは眉を顰めた。何かしらアクションがあるかと思ったが特になく、部屋で1人泣いていると考え、試しに手を差し伸べてみるかとアリアの部屋へと向かう。
1週間前彼女を見つけたバルコニーに差し掛かり、ふと足が止まった。今日もあの日のように星が冴えた夜だった。なんともなしに扉を開けバルコニーに出ると、秋の澄んだ冷たい空気がすぐに身を包み込んだ。
そして、そんな寒空の下、1人佇む人影。
「……アリア?」
「……ッ…」
驚いたように息を呑んだアリアはルーファスと視線が合うと流していた涙を慌てて拭い笑顔を見せた。
「どうしたんですか?こんな夜更けに…身体、冷やしちゃいますよ」
「…それは君にも言えることだが」
「私は…………いいんです」
言葉に詰まったアリアは少しの間を置いて小さく笑う。
頬に触れるとすっかり冷たく、一体いつからバルコニーで泣いていたのかとルーファスは内心ため息を吐いた。
「眠れないのかな?」
「…いえ、星を見たくて」
そう夜空を見上げたアリアの瞳から涙が溢れた。
「あ、あれ……おかしいな……」
アリアは必死に涙を拭い笑みを浮かべたが、それでも涙は止まることなく溢れ続けた。それはまるで空から堕ちた星の成り損ないのようにルーファスは思えた。アリアの涙の真の意味を知ることは今のルーファスにはないと改めて深く感じながら溢れる涙を指で掬う。
「…風邪をひく。私の部屋に来なさい」
しかし、意味は理解しなくとも手を差し伸べることはできる。寄り添いや支え合いではない。お互いの利益の為に。
ルーファスはオズボーンの要請に従うためにアリアに手を差し伸べる。アリアは苦しみを乗り越えるためにルーファスの手を取る。
2人の関係に中身などありはしないが、ルーファスはそれでいいだろうと思っていた。どのみち上司と部下、それ以上でもそれ以下でもないのだから。しかし、手を取り引くと、ふるふると首を振り拒絶するアリア。
「わた、わたしは、平気です…」
「何に気を遣っているかは知らないが、自分の顔を鏡で見てみるといい。」
「そんなにひどいです…?」
「ああ、もう何日もまともに眠れていないという顔だね」
涙を拭うついでに目元の隈をなぞると、悔しそうに唇を噛むアリア。あの日は素直に甘えたのに、一体何の意地なのかと疑問だったが何かを言いかけては口籠るような仕草に、弱音を吐いてしまうことを恐れているのだと汲み取った。
「君が眠れない理由を聞いたりはしない。けれど、しっかり睡眠は取ってもらう。倒れられても困るからね。」
「……でも、ご迷惑ですよね…」
「倒れられたらね。」
ルーファスはもう埒が開かないとアリアを強引に抱き上げる。抵抗されるかと思ったが、そんな気力もないのか大人しく腕の中に収まっているアリア。
ベッドに下ろすと緊張して強張ったピンクダイヤが見つめてくるのにルーファスは小さく笑みを漏らした。前回のことがある上に、こんな夜更けに年頃の男女がベッドですることなんて一つしかない。
しかし、ルーファスにそんなつもりはもうないのであった。本当にあの夜は気まぐれだったのだ。一度の過ちなのであればまだ戻れるはずだ。距離感はさておき、彼女を部下として手放すつもりは毛頭なくなったのだった。
身体を強張らせるアリアを横目に棚から睡眠薬を取り出し、水差しと共にサイドテーブルに置くと、アリアが戸惑いの視線を向けてくる。
「睡眠薬、不服かね?」
「いっいえ!そんなことは…!」
「1人が怖いのであれば、この部屋で眠るといい。そばにいることくらいはできる。」
「…は…い……」
大人しく薬を飲むアリア。
気が抜けたのか柔らかな布団と睡魔に抗えないようで、ベッドに横になるとすぐに眠りについたようだった。
あどけない寝顔。
まだまだ子供なのだということを思い出す。
さて、部下として手放さないことを決めたからには彼女の今後の処遇を決める必要がある。
このまま手元に置くべきか、別のことをさせるべきか。
そもそも何故オズボーンが彼女を確保したのかも分からずじまいである。
デスクライトの薄明かりの中、ルーファスは引き出しから資料を取り出した。クロスベルでのアリアの経歴を調べさせたものだ。手当たり次第収集させたものなので、噂レベルの眉唾話も多く目立つが今はそんな情報でもルーファスにとっては重要だった。火のないところに煙は立たない。そう思いながら資料を読み込んでいく。
しかし特段何か新しい気付きはないなと落胆しかけていると、ベッドで眠っているはずのアリアが小さく呻き声を上げる。そちらに意識を向けるとどうやら魘されているようで身じろぎ小さく譫言も聞こえる。
しばらく静観していたが、一向に治ることなく悪夢を彷徨い続ける様子にルーファスはやはり気の毒になり、資料を置くとアリアの側による。
「……たい……あつい…やめ……」
「ふむ」
苦悶に満ちた表情。きっとクロスベルでの《赤の星座》の襲撃拉致の時の悪夢に苛まれているのだろう。そしてそれが彼女が睡眠を拒み、夜を恐れる理由なのだろう。
傷つき奪われたことに対する怒りや憎しみは彼女の中に確かに存在するのだとルーファスは感じていた。それでもアリアの中で勝るのは悲しみや恐れなことがルーファスはとても具合が悪い話だと思った。
「み…な……ごめんな……い」
奪われた側の彼女がなぜ謝るのだろうか。街を襲撃した《赤い星座》や、拉致を指示した鉄血宰相に謝罪を求めるのならまだわかる。
生まれ故の苦しみに苛まれる少女に居た堪れなくなり、ルーファスは涙の伝う頬を撫でた。形は違うが生まれ故の苦しみはルーファスも十分過ぎるほど理解できる。
「――ッ!……ぁ…」
息を呑み、アリアが目を見開いた。
目を覚ましたかと思ったが、頬を撫でるルーファスの手に擦り寄ると、大きく息を吐き瞼を閉じる。
そして聞こえるのは規則正しい寝息。どうやら温もりに安心したようで静かな眠りについたようだった。
「なるほど」
どうやらこのまま側に置いておくわけにはいかなさそうだ。
依存されるのは御免だ。
そう思いながらもルーファスはアリアの隣に横になる。デスクライトがつけっぱなしだったが今更消すのも億劫なので、今宵ばかりは可哀想な部下の盾になってやろうと、光で眠りが妨げられぬよう包み込み、ルーファスも目を閉じた。
◆
朝になるとアリアの姿は忽然と消えていた。
しかし、仕事の合間に顔を合わせると気恥ずかしそうに視線を逸らされてしまったが、その顔色はだいぶ良かったように思えた。
そして、夜になると寝室に現れたアリアにルーファスは何故だか安心したのであった。
「あの…」
「来なさい」
ベッドに座らせ睡眠薬を飲ませる。
アリアが寝息を立てるまで見守り、少しのデスクワークをする。しばらくしてアリアが魘され始めるとルーファスもベッドに入る。
こんな夜が数日続き、アリアの教育も殆どのカリキュラムを終えた。
「さあ、アリア、君に仕事を言い渡そう。」
執務室に呼び出したアリアはルーファスの言葉を聞くなり緊張した面持ちで背筋を正した。
静かにテーブルに置かれる一冊の手帳。一角獣のエンブレムの描かれたそれを見てアリアは眉を顰めた。
「これは?」
「トールズ士官学院の生徒手帳だ」
「トールズ…その学院に潜入し何か情報を引き出す感じですか?」
「まあそれもあるが、君には護衛業をしてほしい」
「護衛…ですか」
口元に手を当て悩む様子を見せるアリア。もしかしたら護衛の経験はないのかもしれなかったが、彼女の経歴や身のこなしなどを見るに問題ないだろうという判断だ。
用意した赤色の制服を見せるとアリアはさらに表情を険しくする。
「これを着なければならないのですか?」
「学院の制服の着用は必須のはずだ。」
何故だかためらいを見せるアリアを不思議に思いながらもルーファスはメイドに指示を出しアリアを着替えさせる。
しばらくして赤い制服を纏い部屋に戻ってきたアリアは問題なく学生に見え、ルーファスは素直に似合っていると思った。3月に弟のユーシスの制服姿を見て褒めたことを思い返し、もうあれから半年も経つのかと感慨深く思う。
「悪くないね。」
「もう、素直に褒めてくださいよ。」
「はは、そうだな。よく似合っているよ。」
ルーファスの賛辞に頬を染め微笑むアリア。
睡眠不足解消によって戻ってきた調子に随分気を許されているなと静かに思う。そばで会話を見守る執事やメイドが落ち着かなさそうにしているが、ルーファスはアリアのフランクな接し方に特段何も感じていないのであった。
適当に人払いをして仕事の話の続きにはいる。
「その制服の通り君はトールズに編入し、私の弟であるユーシスと特科クラスⅦ組のクラスメイトの護衛を任せる。」
「あの、でもトールズって軍事学校ですよね?護衛が必要なのですか?」
「当然の疑問だな。時事教育で学んだと思うが、今我が帝国は《帝国解放戦線》というテロ組織が跋扈していてね。なんでもⅦ組が定期的に行っている特別カリキュラムの実施先で、その件の組織との会遇・衝突が多いという報告がある。」
ルーファスは理事として渡された報告書をデスクに放り投げる。アリアはその報告書を手に取ると素早く確認して、あるページでハッと小さく息を呑むのにルーファスはそれとなく注意深く様子を伺った。
「ルーファスさんのご兄弟とそのお友達をそのテロリストから護衛するのがお仕事ですね?」
すると、資料から視線を上げたアリアの眼差しは明らかな侮蔑の色を含んでいた。ルーファスはその視線を受けながらもう少し感情を隠す振る舞いも教えなければいけないか、とトールズに出すまでに追加で必要な教育を考えていた。
そして、彼女のその眼差しの理由もまあわからないでもないと。アリアがここ帝国にいる理由はテロリストのせいである。
彼女にはテロリストの襲撃から誰からも守られず、何も守れず屈した過去がある。そんな彼女がそのテロリストに不本意に連れてこられた帝国、いわば敵国で、その敵国を悩ますテロリストから帝国人を護衛する。
無論、《帝国解放戦線》と件のテロリストは違う組織ではあるが――
(――皮肉な話だ。)
しかし、ルーファスは今アリアが多少の揺らぎを感じているのも察していた。先ほど資料を見た際、アリアが反応したページ。あれはガレリア要塞での実習の報告書だろう。
ルーファスの事前調査によると、クロスベルでの《西ゼムリア通商会議》開催時、ガレリア要塞が《帝国解放戦線》に占領され列車砲が放たれかけた時、彼女は標的であるオルキスタワーに居たはずだ。そして、その列車砲発射を阻止したのは、他でもない今回の護衛対象である《Ⅶ組》だ。
つまり、結果だけ見ればアリアにとっては不本意極まりないだろうが今回の護衛対象は“命の恩人”でもあるのだ。
(…本当に皮肉だな。アリア・ラプランカ)
「さて、どうかね?引き受けてくれるかな?」
「そのために私を雇ったのでしょう?」
ハッと鼻で笑ったアリアは資料をルーファスと同じようにデスクに放り投げると、左胸のナイフに手を当て軽く頭を下げた。
「ご依頼、謹んでお受けします。私の命に変えても、ユーシス様とその御学友をお守りします。」
「ああ、任せたよ。」
頭を上げたアリアはもうすっかり腹を括った様に迷いは無くルーファスは素直に感心したのであった。
「ところで、本人の前でも敬称を付けるつもりかね?」
「え?それはそうでしょう?帝国は身分の認識が強いと聞きました。私は平民。アルバレア公爵家のご子息を敬称無しで呼ぶわけにはいかないですよね?」
「ふむ、それもそうだね。」
わざわざ聞いてきたにも関わらずルーファスの反応があっさりしていたのにアリアは怪訝そうに眉を顰めていたが、やがて何か気がついた様に人差し指を立てた。
「あっ、ルーファス様と呼ぶべきでしょうか」
「フッ…フフ、いや、今のままでいいさ」
「…そう、ですか?」
笑いを噛み殺したルーファスは話を切り上げ不思議そうにしているアリアを自室へ戻した。
オズボーンから何か要請がない限りは末長く部下として仕えてもらうのだから、変に気を遣われるのは本意ではない。恐らく自然体が一番彼女が力を発揮してくれるだろうという予測も込みでだ。
(しまった、失念していた。)
アリアに刻印のことを聞こうと思っていたことを思い出したが改めて呼び出すのも億劫で、まあそのうちでいいかとルーファスはアルノーを呼び執務を始めるのであった。
孤独の恐怖を克服したのなら良い。
しかし、無理をして潰れそうになるのは些か困ってしまう。
ルーファスは机に伏して眠るアリアの隈を見てそう思うのだった。
なんとなく足が赴かず、1週間ぶりに様子を見に来てみると笑顔が出迎えるわけではなく、自習時間をサボり眠る薄桃の姿にルーファスは眉を顰めた。しかし、開きっぱなしのテキストに伏せて眠る様子と、何よりも目の下に浮いた隈がただの自堕落ではないと感じさせた。
色白の彼女の肌だとより目立つ隈。まつ毛がうっすらと濡れている気がしてルーファスはその目元に手を伸ばした。
「――ッ!!」
その手は目にも止まらぬ速さで拘束され、気がつけばルーファスの目の前には真紅のナイフの切先と殺意の滲んだピンクダイヤがあった。
「……驚かせたね、すまない。」
「……ぁ……ご、ごめんなさい!!」
アリアはルーファスだと気がつき目を白黒させ、すぐに手が解放された。突きつけられたナイフも同じ様に離され、音を立て床に転がった。
「私…ごめんなさい…しかも眠っちゃうなんて……あはは…だめですね、ほんと……」
動揺しているようで視線を忙しなく動かした後、アリアは笑みを浮かべて髪を耳に掛けたが、その手がひどく震えているのを慌てて隠すようにもう片方の手で押さえた。目が強く瞑られ小さく呼吸が数回、そして、アリアは再び笑顔を作るのにルーファスはふむ、と顎を撫でた。
「眠れていないのかい?」
「あ、っと、いえ…最近読書が面白くて、夜更かししちゃちました。」
下手な芝居だと思ったが、彼女の痛々しいまでの努力にルーファスは免じることにして「そうか」と言うに留めておく。
「もうこんな時間。私…お庭のお手入れの手伝いを頼まれていたんでした。失礼しますね…さっきは本当にすみませんでした」
小さく頭を下げるとナイフを拾い上げ、アリアは風のように去っていく。
ボロが出そうな時は多少怪しくても逃げるのが適切だ。ルーファスはアリアの賢明な判断に笑いを漏らした。
アリアはルーファスにクロスベルでのことを知られてはいけないと思っている。オズボーンの要請で《赤い星座》がクロスベル襲撃に乗じてアリアを拉致したという事実だ。
逆にルーファスは自分とオズボーンが繋がっていると言う事実をアリアに知られてはいけない。
ルーファスはつい気の毒な少女に慈悲を与えたくなるが、アリアはクロスベルを人質に取られているので慈悲を受け取ることを躊躇っている。現にこんなにも精神的に参っているのにアリアが夜出歩くことも、ルーファスの部屋を訪れることもない。1人孤独に痛みと恐怖に耐えている。
ルーファスは考えた。
このまま瓦解させ、懐柔し、絶対的な忠誠を彼女から得るか。それともこの狭い城館から放ち、もう少し広い鳥籠に入れ込むか。ルーファスの手元からは離れるが、帝国という地からは飛び立つことはないだろう。
何が最善か考えた。
自分の宿望や、今後の帝国の動きなど全てを加味し答えを導き出す。
「有能な部下はいるに越したことは無いが」
窓から中庭を見下ろし、一向に現れる事のない薄桃を思い返す。能力は申し分ない。全てを明かし暗躍のみさせるのも手だ。しかし、言伝にあった特殊な存在というのも気になる。
1週間前、身体を重ねた時。胸元の特殊な刻印がひどく印象的だった。いや、印象的だなんて易い言葉で片付けてはいけない。あの刻印にルーファスは理性を持っていかれかけたのだ。そんなことは初めてだった。それ程までにあの刻印には異質の魅力があった。
あの刻印がその特殊な存在に関係しているとルーファスは予測していた。そんなアリアに帝国でもっと広い交友関係を築かせるべきなのか。それも含めてオズボーンはルーファスを試しているのだろう。
「…やれやれ、手厳しい」
まだ必要な学習も終えていない。もう少し様子を見るかとルーファスは部屋を後にする。
――――
その日の晩もアリアの外出の報告は無かった。もちろん、ルーファスの部屋への訪問者も無しだ。
寝衣に着替えながら、彼女の精神と体力にそろそろ無理がではじめる頃だが、とルーファスは眉を顰めた。何かしらアクションがあるかと思ったが特になく、部屋で1人泣いていると考え、試しに手を差し伸べてみるかとアリアの部屋へと向かう。
1週間前彼女を見つけたバルコニーに差し掛かり、ふと足が止まった。今日もあの日のように星が冴えた夜だった。なんともなしに扉を開けバルコニーに出ると、秋の澄んだ冷たい空気がすぐに身を包み込んだ。
そして、そんな寒空の下、1人佇む人影。
「……アリア?」
「……ッ…」
驚いたように息を呑んだアリアはルーファスと視線が合うと流していた涙を慌てて拭い笑顔を見せた。
「どうしたんですか?こんな夜更けに…身体、冷やしちゃいますよ」
「…それは君にも言えることだが」
「私は…………いいんです」
言葉に詰まったアリアは少しの間を置いて小さく笑う。
頬に触れるとすっかり冷たく、一体いつからバルコニーで泣いていたのかとルーファスは内心ため息を吐いた。
「眠れないのかな?」
「…いえ、星を見たくて」
そう夜空を見上げたアリアの瞳から涙が溢れた。
「あ、あれ……おかしいな……」
アリアは必死に涙を拭い笑みを浮かべたが、それでも涙は止まることなく溢れ続けた。それはまるで空から堕ちた星の成り損ないのようにルーファスは思えた。アリアの涙の真の意味を知ることは今のルーファスにはないと改めて深く感じながら溢れる涙を指で掬う。
「…風邪をひく。私の部屋に来なさい」
しかし、意味は理解しなくとも手を差し伸べることはできる。寄り添いや支え合いではない。お互いの利益の為に。
ルーファスはオズボーンの要請に従うためにアリアに手を差し伸べる。アリアは苦しみを乗り越えるためにルーファスの手を取る。
2人の関係に中身などありはしないが、ルーファスはそれでいいだろうと思っていた。どのみち上司と部下、それ以上でもそれ以下でもないのだから。しかし、手を取り引くと、ふるふると首を振り拒絶するアリア。
「わた、わたしは、平気です…」
「何に気を遣っているかは知らないが、自分の顔を鏡で見てみるといい。」
「そんなにひどいです…?」
「ああ、もう何日もまともに眠れていないという顔だね」
涙を拭うついでに目元の隈をなぞると、悔しそうに唇を噛むアリア。あの日は素直に甘えたのに、一体何の意地なのかと疑問だったが何かを言いかけては口籠るような仕草に、弱音を吐いてしまうことを恐れているのだと汲み取った。
「君が眠れない理由を聞いたりはしない。けれど、しっかり睡眠は取ってもらう。倒れられても困るからね。」
「……でも、ご迷惑ですよね…」
「倒れられたらね。」
ルーファスはもう埒が開かないとアリアを強引に抱き上げる。抵抗されるかと思ったが、そんな気力もないのか大人しく腕の中に収まっているアリア。
ベッドに下ろすと緊張して強張ったピンクダイヤが見つめてくるのにルーファスは小さく笑みを漏らした。前回のことがある上に、こんな夜更けに年頃の男女がベッドですることなんて一つしかない。
しかし、ルーファスにそんなつもりはもうないのであった。本当にあの夜は気まぐれだったのだ。一度の過ちなのであればまだ戻れるはずだ。距離感はさておき、彼女を部下として手放すつもりは毛頭なくなったのだった。
身体を強張らせるアリアを横目に棚から睡眠薬を取り出し、水差しと共にサイドテーブルに置くと、アリアが戸惑いの視線を向けてくる。
「睡眠薬、不服かね?」
「いっいえ!そんなことは…!」
「1人が怖いのであれば、この部屋で眠るといい。そばにいることくらいはできる。」
「…は…い……」
大人しく薬を飲むアリア。
気が抜けたのか柔らかな布団と睡魔に抗えないようで、ベッドに横になるとすぐに眠りについたようだった。
あどけない寝顔。
まだまだ子供なのだということを思い出す。
さて、部下として手放さないことを決めたからには彼女の今後の処遇を決める必要がある。
このまま手元に置くべきか、別のことをさせるべきか。
そもそも何故オズボーンが彼女を確保したのかも分からずじまいである。
デスクライトの薄明かりの中、ルーファスは引き出しから資料を取り出した。クロスベルでのアリアの経歴を調べさせたものだ。手当たり次第収集させたものなので、噂レベルの眉唾話も多く目立つが今はそんな情報でもルーファスにとっては重要だった。火のないところに煙は立たない。そう思いながら資料を読み込んでいく。
しかし特段何か新しい気付きはないなと落胆しかけていると、ベッドで眠っているはずのアリアが小さく呻き声を上げる。そちらに意識を向けるとどうやら魘されているようで身じろぎ小さく譫言も聞こえる。
しばらく静観していたが、一向に治ることなく悪夢を彷徨い続ける様子にルーファスはやはり気の毒になり、資料を置くとアリアの側による。
「……たい……あつい…やめ……」
「ふむ」
苦悶に満ちた表情。きっとクロスベルでの《赤の星座》の襲撃拉致の時の悪夢に苛まれているのだろう。そしてそれが彼女が睡眠を拒み、夜を恐れる理由なのだろう。
傷つき奪われたことに対する怒りや憎しみは彼女の中に確かに存在するのだとルーファスは感じていた。それでもアリアの中で勝るのは悲しみや恐れなことがルーファスはとても具合が悪い話だと思った。
「み…な……ごめんな……い」
奪われた側の彼女がなぜ謝るのだろうか。街を襲撃した《赤い星座》や、拉致を指示した鉄血宰相に謝罪を求めるのならまだわかる。
生まれ故の苦しみに苛まれる少女に居た堪れなくなり、ルーファスは涙の伝う頬を撫でた。形は違うが生まれ故の苦しみはルーファスも十分過ぎるほど理解できる。
「――ッ!……ぁ…」
息を呑み、アリアが目を見開いた。
目を覚ましたかと思ったが、頬を撫でるルーファスの手に擦り寄ると、大きく息を吐き瞼を閉じる。
そして聞こえるのは規則正しい寝息。どうやら温もりに安心したようで静かな眠りについたようだった。
「なるほど」
どうやらこのまま側に置いておくわけにはいかなさそうだ。
依存されるのは御免だ。
そう思いながらもルーファスはアリアの隣に横になる。デスクライトがつけっぱなしだったが今更消すのも億劫なので、今宵ばかりは可哀想な部下の盾になってやろうと、光で眠りが妨げられぬよう包み込み、ルーファスも目を閉じた。
◆
朝になるとアリアの姿は忽然と消えていた。
しかし、仕事の合間に顔を合わせると気恥ずかしそうに視線を逸らされてしまったが、その顔色はだいぶ良かったように思えた。
そして、夜になると寝室に現れたアリアにルーファスは何故だか安心したのであった。
「あの…」
「来なさい」
ベッドに座らせ睡眠薬を飲ませる。
アリアが寝息を立てるまで見守り、少しのデスクワークをする。しばらくしてアリアが魘され始めるとルーファスもベッドに入る。
こんな夜が数日続き、アリアの教育も殆どのカリキュラムを終えた。
「さあ、アリア、君に仕事を言い渡そう。」
執務室に呼び出したアリアはルーファスの言葉を聞くなり緊張した面持ちで背筋を正した。
静かにテーブルに置かれる一冊の手帳。一角獣のエンブレムの描かれたそれを見てアリアは眉を顰めた。
「これは?」
「トールズ士官学院の生徒手帳だ」
「トールズ…その学院に潜入し何か情報を引き出す感じですか?」
「まあそれもあるが、君には護衛業をしてほしい」
「護衛…ですか」
口元に手を当て悩む様子を見せるアリア。もしかしたら護衛の経験はないのかもしれなかったが、彼女の経歴や身のこなしなどを見るに問題ないだろうという判断だ。
用意した赤色の制服を見せるとアリアはさらに表情を険しくする。
「これを着なければならないのですか?」
「学院の制服の着用は必須のはずだ。」
何故だかためらいを見せるアリアを不思議に思いながらもルーファスはメイドに指示を出しアリアを着替えさせる。
しばらくして赤い制服を纏い部屋に戻ってきたアリアは問題なく学生に見え、ルーファスは素直に似合っていると思った。3月に弟のユーシスの制服姿を見て褒めたことを思い返し、もうあれから半年も経つのかと感慨深く思う。
「悪くないね。」
「もう、素直に褒めてくださいよ。」
「はは、そうだな。よく似合っているよ。」
ルーファスの賛辞に頬を染め微笑むアリア。
睡眠不足解消によって戻ってきた調子に随分気を許されているなと静かに思う。そばで会話を見守る執事やメイドが落ち着かなさそうにしているが、ルーファスはアリアのフランクな接し方に特段何も感じていないのであった。
適当に人払いをして仕事の話の続きにはいる。
「その制服の通り君はトールズに編入し、私の弟であるユーシスと特科クラスⅦ組のクラスメイトの護衛を任せる。」
「あの、でもトールズって軍事学校ですよね?護衛が必要なのですか?」
「当然の疑問だな。時事教育で学んだと思うが、今我が帝国は《帝国解放戦線》というテロ組織が跋扈していてね。なんでもⅦ組が定期的に行っている特別カリキュラムの実施先で、その件の組織との会遇・衝突が多いという報告がある。」
ルーファスは理事として渡された報告書をデスクに放り投げる。アリアはその報告書を手に取ると素早く確認して、あるページでハッと小さく息を呑むのにルーファスはそれとなく注意深く様子を伺った。
「ルーファスさんのご兄弟とそのお友達をそのテロリストから護衛するのがお仕事ですね?」
すると、資料から視線を上げたアリアの眼差しは明らかな侮蔑の色を含んでいた。ルーファスはその視線を受けながらもう少し感情を隠す振る舞いも教えなければいけないか、とトールズに出すまでに追加で必要な教育を考えていた。
そして、彼女のその眼差しの理由もまあわからないでもないと。アリアがここ帝国にいる理由はテロリストのせいである。
彼女にはテロリストの襲撃から誰からも守られず、何も守れず屈した過去がある。そんな彼女がそのテロリストに不本意に連れてこられた帝国、いわば敵国で、その敵国を悩ますテロリストから帝国人を護衛する。
無論、《帝国解放戦線》と件のテロリストは違う組織ではあるが――
(――皮肉な話だ。)
しかし、ルーファスは今アリアが多少の揺らぎを感じているのも察していた。先ほど資料を見た際、アリアが反応したページ。あれはガレリア要塞での実習の報告書だろう。
ルーファスの事前調査によると、クロスベルでの《西ゼムリア通商会議》開催時、ガレリア要塞が《帝国解放戦線》に占領され列車砲が放たれかけた時、彼女は標的であるオルキスタワーに居たはずだ。そして、その列車砲発射を阻止したのは、他でもない今回の護衛対象である《Ⅶ組》だ。
つまり、結果だけ見ればアリアにとっては不本意極まりないだろうが今回の護衛対象は“命の恩人”でもあるのだ。
(…本当に皮肉だな。アリア・ラプランカ)
「さて、どうかね?引き受けてくれるかな?」
「そのために私を雇ったのでしょう?」
ハッと鼻で笑ったアリアは資料をルーファスと同じようにデスクに放り投げると、左胸のナイフに手を当て軽く頭を下げた。
「ご依頼、謹んでお受けします。私の命に変えても、ユーシス様とその御学友をお守りします。」
「ああ、任せたよ。」
頭を上げたアリアはもうすっかり腹を括った様に迷いは無くルーファスは素直に感心したのであった。
「ところで、本人の前でも敬称を付けるつもりかね?」
「え?それはそうでしょう?帝国は身分の認識が強いと聞きました。私は平民。アルバレア公爵家のご子息を敬称無しで呼ぶわけにはいかないですよね?」
「ふむ、それもそうだね。」
わざわざ聞いてきたにも関わらずルーファスの反応があっさりしていたのにアリアは怪訝そうに眉を顰めていたが、やがて何か気がついた様に人差し指を立てた。
「あっ、ルーファス様と呼ぶべきでしょうか」
「フッ…フフ、いや、今のままでいいさ」
「…そう、ですか?」
笑いを噛み殺したルーファスは話を切り上げ不思議そうにしているアリアを自室へ戻した。
オズボーンから何か要請がない限りは末長く部下として仕えてもらうのだから、変に気を遣われるのは本意ではない。恐らく自然体が一番彼女が力を発揮してくれるだろうという予測も込みでだ。
(しまった、失念していた。)
アリアに刻印のことを聞こうと思っていたことを思い出したが改めて呼び出すのも億劫で、まあそのうちでいいかとルーファスはアルノーを呼び執務を始めるのであった。