3 - トールズ
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それは世間話の延長線のなんでもないことのように書かれていたな、とユーシスは兄からの手紙を思い返していた。
手紙の締めくくり。追伸だなんて改まった様子でもなく、体調への気遣いと今後の活躍を期待する文面の隙間を埋めるかのような、流し読みしていたら読み過ごしてしまうような書き方だった。
「初めまして、ユーシス様。公爵家より遣わされました、アリア・ラプランカでございます。本日より護衛を務めさせていただきます。」
そう言い、同じ学院の同じ色の制服のスカートの裾をつまみ淑女よろしくお辞儀をする女を見ながらユーシスは兄は何と書いていたか記憶の引き出しを引っ張り出す。
【先の実習後に護衛に就く者からも大いに学びがあるだろう。そなたの更なる成長を期待する。】
確かそんな文面だった記憶がある。
実習出発直前の手紙だったので、疑問には思ったが深く気にする暇がなかったというべきか。実習の内容も波乱に満ち溢れ、手紙の事などすっかり忘れていたというべきか。いずれにせよ思いもよらない出来事である。
ようやっと学院に帰還して、今、目の前で挨拶をする見慣れぬ女と対峙して初めてそのことを思い出したわけであった。
聞けば女はルーレの実習に合流し《帝国解放戦線》のリーダー《C》との戦闘で、護衛としての初仕事を見事全うしたそうな。女の左胸に装着された赤いナイフ、彼女の全身へと順に視線が移る。とてもこの小柄な女からはリィン達を守り戦う姿の想像がつかない。ユーシスは素直に眉を顰めた。
まだ『公爵家次男の婚約者となりました』の方が納得がいく。
正直な所、女が目の前に現れた瞬間ユーシスは視線と意識を奪われたのだった。人形のような整った容姿、小柄だが女性らしさの感じられる体躯、ライノの花のような淡く儚げな薄桃色の髪、そして何よりユーシスの意識を奪ったのがピンクダイヤモンドの宝石のような甘やかな光を放つ瞳だ。この瞳と視線が合った瞬間、ユーシスの心臓は形容し難い刺激を受けたのだった。
鼓動が飛び跳ね、視界が一段階明るくなるような心地。
これまで感じたことのない感覚にユーシスは眉を顰めたが、女が自分の『護衛』だなんて言うもんだから、眉間の皺をより一層深めてなんとか言葉を探した。
「……護衛など必要ない。兄上が何と言おうともだ。」
実際自分は士官学校に通い、剣士として剣術も磨き、特殊クラスのⅦ組として戦術オーブメントARCUSの扱いにも長けている。大人達より実力があるとは言わないが、少なくとも小柄な女に守られるほどユーシスは柔ではないと自負していた。もっと言うとルーレで《帝国解放戦線》のリーダーが討たれた今、一体何から守られると言うのだろうか。ユーシスは疑問だった。ガレリア要塞でも自分たちの力でなんとか列車砲を止めることができた。やはり、兵士として教育を受けている自分たちに『護衛』とは。ますます意図がわからず、兄に手紙で問いただそうとユーシスは自室へと脚を向けた。
「…ふふ、あははっ」
横を通り過ぎた所で女が笑った。
鈴を転がした様な心地の良い声だったが、ユーシスは笑われる意味がわからず反射的に振り返り女を睨みつけた。
「ルーファスさんの言った通り。さすが兄弟」
甘く細まるピンクダイヤ。
屈託のない笑みにユーシスの心臓が先ほどの比にならないほど大きく飛び跳ねた。思わず胸を押さえるほどに。
口元に手を添え、未だ笑い続ける女にユーシスは「どういう意味だ」と問う。不可解な鼓動はさておき、一方的に笑われるのが不愉快であることには変わらない。雇い主である兄を“さん”付けで呼ぶのにも引っかかりを覚える。
「いえ、ルーファスさんが言っていた貴方の反応がそのままだったので面白く…ふふっ」
兄が何を言ったのだろうかと眉を寄せたまま女を凝視していると、一歩距離が詰められトンッと眉間に女の指先が触れた。至近距離で覗き込んでくる薄桃色の瞳が眩しく、そして指の触れた場所から熱が広がっていく心地がしてユーシスは思わず視線を逸らした。
「ここに皺を寄せて『必要ない』って。で、すぐに立ち去ろうとするだろうって…ね?」
砕けた口調、柔らかい笑み。ユーシスはどんどんと調子が狂っていくのに苛立ちを感じていた。相変わらず鼓動は忙しなくそれも不快だった。
「…何でもいいが、兄上のところに帰るといい。兄上には俺からも伝えておく、必要ないと。」
「それは…困るわ」
困惑した様に寄る眉も美しいと不意に思ってしまい、ユーシスは儘ならぬ己の情感に一刻も早くこの場を立ち去るか、彼女に目の前から消えて欲しかった。
「私のお仕事だもの、遠くでもいいわ。近くに居させてください。それに…どうやらこの学院に編入するみたいだし…」
確かに女が身に纏っているのはトールズ士官学院の制服だ。おまけに色は赤でクラスまで同じとは、ユーシスはこれ見よがしにため息を吐いて見せた。
「貴方の邪魔はしない。別に着いて回ったりはしないから安心して?」
じゃあどうやって護衛するんだ、という心の声が聞こえたのか「尾行と気配を消すのは得意なの」と女が肩をすくめて笑ったが、すぐに背筋を正すとユーシスを真っ直ぐに見据える。
「なので、どうか私の護衛としての任務をお許しください。」
左胸の真紅のナイフに手を当て頭を下げる女。出会い頭の可憐な淑女の様な雰囲気は無く、言う通り護衛騎士のように凛と澄んだ立ち振る舞いにユーシスはゴクリと唾を飲んだ。
彼女の醸し出す空気感は完全にクラスメイトのソレではない。研ぎ澄まされた気配に、呼吸一つ取っても計算されているかの様な洗礼さだった。
剣を交えるどころかユーシスは彼女が戦う姿さえも見たことがなかったが、今目の前で自分を護衛すると頭を下げる女は間違いなく教官クラスの実力を持っているとユーシスは肌で感じていた。
「様はやめろ。ユーシスでいい。」
観念してぶっきらぼうに言い捨てると、弾かれた様に嬉しそうなピンクダイヤが見上げてくる。
「わあ、ありがとうございます!」
「敬語もいらない。仮にもクラスメイトになるのだろう?変な気を使うな、かえってやり難い。」
「いいの?助かるわ。堅いのってどうにも合わなくて」
すっかり砕けた様子の女、アリア・ラプランカに食えない女だとユーシスは辟易した。しかし、兄に追求することに変わりはないが、あの兄が変な人間を自分に付けるはずはないという確信はある。思いもよらない関係ではあるが、これがユーシスとアリアの出会いのお話なのだった。
◆
「改めましてアリア・ラプランカです。先日から皆様のクラスメイト兼護衛としてトールズに編入しました。どうぞよろしくお願いいたします。」
控えめに広げられるスカートの裾。
半分の人間は突然の編入生に目を瞬いた。もう半分の人間はその反応を見て、数日前の自分たちを見ている様で苦笑いを漏らす。
「アリア…すっかり別人みたいね…淑女教育ってやつ?」
「ふふ、サラ教官、そのお話はよしてください」
「まあすぐに素がでてくるんでしょうけど…」
二人の会話をみんな一様にきょとんと眺めていたが、ユーシスだけはアリアの“素”の部分をほんの少しだけ垣間見ていたので、屈託のない笑みが瞬時に思い起こされる。『堅いのは合わない』と言っていた割にはずっと澄ました振る舞いをしているのは不思議で、ユーシスはもっと気楽にすれば良いのにと仏頂面で考えていた。
「席はクロウの隣に作っておいたわ。一応Ⅶ組の護衛だけど雇い主はアルバレア公爵家だからね、学院の案内はユーシス、あんたに任せたわよ。」
「断る」
「はい、私は一人で大丈夫ですので、ユーシスはお気遣いいただかなくて大丈夫です。」
サラリと即答するアリア。初めに断ったのは自分だが、こうあからさまに拒絶されると引っかかりを覚える。呼び捨てに敬語というアンバランスさに気を止める余裕もなく、ついユーシスは眉を吊り上げた。彼女の声色があまりに抑揚がなく、なんの感情も感じられなかったのも気掛かりだった。
「ユーシスあんたねえ…まあアリアがいいならいいのだけど…みんな、仲良くしなさいね」
呆れたサラの一声で編入生の紹介が終わりホームルームが始まる。
ユーシスは横目でアリアを見やる。
早速クロウに小声で話しかけられていて、ルーレの実習ですっかり打ち解けたようで笑みを浮かべるアリアにユーシスは先ほどとは違った胸のざわめきを覚えた。
全く不快である。意味がわからない。
兄から説明を聞かないことには到底納得できるものではないとサラの話を聞きながら苛立ちを押し込めた。
それから兄からの返事があるまでの数日間で、アリアはあっという間にクラスに馴染んでいった。
明るく朗らかで面倒見が良い。その綺麗な容姿も人を惹きつける要因の一つだろう。
学校の案内はルーレの実習で特に仲良くなった様子のクロウとアリサが主にしていて、あとはクラスの中でも年下のフィーとミリアムがアリアに懐いているようだった。
他のメンバーも彼女がまるでもっとずっと前からⅦ組にいたかのように自然と接していて、彼女にはエマとは違った路線の『クラスのお姉ちゃん』ポジションが当たり前のように定着していた。
違うのはユーシスだけといっても良い。
彼女は初日の宣言通りユーシスに付きまとうことはなかった。ユーシスがクラスにいない時や放課後も彼女の気配を感じることもなく、彼女が豪語していた通り気配を消すのがよほど得意なのか、はたまた職務を放棄しているのか。挨拶程度の関わりしかないユーシスには分かり得ないことだった。
兄の手紙の内容は一言で言えば『万が一に備えて』だ。
《帝国解放戦線》のリーダーは討たれたが、残党がⅦ組に恨みを持つ可能性もある。そういった有事の際に彼女が身を挺して守ってくれるそうだ。
年齢もほとんど変わらないような小柄な女がその身を挺して守る?
ユーシスは兄直筆の手紙を読みながら尚も納得できないでいた。普段の彼女の様子からはとてもそんな想像はつかない。むしろ身を挺して守られるのは彼女の方だと思わせさえする。しかし、手紙を読み進めると驚愕の事実が発覚しユーシスは無理矢理にでも納得せざるを得なくなる。
「え?アリアが元警察って知ってるかって?」
「ああ、兄上の手紙にそうあった」
試しにちょうど教室にいたエリオットに聞いてみると、一瞬怪訝そうに眉を顰めたが直ぐに呆れたように笑みを浮かべる。何が可笑しいのかわからずその顔をじっと見ていると近くにいたガイウスと何やら顔を合わせて肩をすくめるエリオットにユーシスは眉を顰める。
「なんだ、馬鹿にしているのか?」
「いやー?本当に全然話してないんだなと思って」
「恐らくクラスで知らなかったのはお前だけだと思うぞ。」
彼女の学生らしからぬ特殊な経歴が自分以外の周知の事実だったとは。ユーシスはいかに自分が接点を持とうとしていなかったかを思い知る。
「何が嫌なの?あんなに良い子なのに」
「嫌というわけでは……」
「ふむ、少なくともアリアはユーシスに嫌われていると思っているが…」
そんな話まで他のメンバーとしているとは、ユーシスは驚き、自分の変な意地が拗れに拗れた結果だと素直に反省する。しかし、今になって手のひらを返したようにアリアと仲良くしようだなんて、ユーシスにはバツが悪くて出来そうもない。
しかし、アリアにそう思わせているのは些か申し訳なさを感じる。嫌いなはずはなく、むしろ気がつくと目で追ってしまうので意識をして見ないようにしていたのが仇となったようだ。
「2人でお茶でもしに行って和解したら?」
「お茶……」
「ああ、俺もそう思うよ。まずは話すべきだ」
「やあ、3人とも。残念だがアリアはアリサと出かけてしまったよ。」
リィンの言葉にエリオットとガイウスが同情の視線を向けてくるのに、ユーシスは非常に居心地が悪い上に何故自分がこんな思いをしなければならないのかと面倒臭くも感じる。
そして、アリサと遊びに行くだなんてやはり仕事を放棄しているではないか。護衛など名ばかりだ。兄から寄せられる信頼も一体何から生まれているのか。元警察という肩書きか?ここにきて再びユーシスの中にふつふつと懐疑心が湧く。
「まあ、なんだ…ユーシス。あまり憶測で物事を決めつけないようにな」
リィンの助言も話半分で聞きながらユーシスは改めて護衛などいらないと思うのだった。
そんな不愉快な気分のまま放課後は図書室に篭り読書に耽る。読書は良い。知識が増える上に時間を忘れることもできる。気がつけば時刻は夕食時手前だった。今から帰路に着けばちょうど良い時間に帰れるだろうとユーシスは読んでいた本を閉じ、棚に戻す。
今日蓄えた知識は何に活かせるだろうかと考えに耽りながら図書館を出て校門前に差し掛かると何やら正面玄関前が騒がしい。見ると、緑色の制服の生徒が何やらボールを投げ合いはしゃいでいる。こんなところで遊ぶだなんて迷惑だと思ったが、早々に立ち去り関わり合いにならないのが一番だろうと視線を逸らし背を向けた。
「おら!くらえ!って、やっべ!」
「ばかっ!このノーコン!」
ザワッと背後の集団が騒めいた。
何かが迫ってくる気配に振り向くとボールがこちらに向かってくるのをユーシスは視認する。しかし、もう避けるのも間に合わない距離感でユーシスは反射的に頭を腕で覆い目を瞑った。
パンッ、と何かが破裂する音。
ふわりと香る甘い香りにユーシスは恐る恐る目を開いた。
身体的な衝撃は来なかったが、目の前に立つ背中に衝撃を受ける。
「間に合ってよかった。大丈夫?」
薄桃色の髪を翻し振り返ったアリアが笑う。
手にはナイフ、破裂したらしいボールの残骸が地面に転がっているのにユーシスは目を瞬いた。
――守られた?
いや、自分は1人で歩いていてアリアの姿も気配も無かった。
では何故?アリアはここに立ち、自分はボールの激突を免れたのか。
『尾行と気配を消すのは得意なの』
ユーシスはゾッとした。
こんなにも悟れぬことがあるのかと。
「この件はトワ会長に報告しますからね」
「す、すみませんでした!!」
ボール遊びをしていた生徒に注意をしていたらしいアリアが放心したユーシスに再び近づいてくる。
ユーシスの信じられないものを見るような視線にアリアが眉尻を下げて笑った。
「ね、邪魔はしないって言いましたでしょう?気味が悪いかもしれないけれど…お付き合い願うわ。」
夕日に照らされた笑顔が泣き出しそうでユーシスの胸がぐしゃりと痛んだ。
軽くお辞儀をしたアリアが背を向け学校を去っていく。
ユーシスはわからなかった。自分の気持ちがわからなかった。
守られたことに感謝すべきだ。
剣士として鍛錬に励んでいる男が女に守られるなどプライドが許さない。
嫌悪されていると感じさせてしまっていることを詫びるべきだ。
自分は大貴族で格下である彼女に施す側の人間なのでは。
彼女は紛れもない実力者だ。そしてクラスメイトの仲間だ。
様々な葛藤がユーシスの中で繰り広げられる。
そうしているうちにもアリアの背中は遠ざかる。
『あんなに良い子なのに』
エリオットの言葉が思い出され、ふとユーシスは気がついた。その言葉に何も返せないほどに彼女を知らないということに気がついた。
「…おい!」
ユーシスは走り追いかけ、その手を掴み引き留めていた。
初めて触れた彼女の手はとても冷たく、とても小さいと思った。この手がナイフを握っているなど本来であれば想像もつかない。
「――ッ!」
驚かせてしまったようで身を縮こまらせるアリアにユーシスは意外な反応だと思ったが、すぐに自分を見つめる少し見開かれたピンクダイヤの瞳に釘付けになった。
「な、なに?」
「……礼を言う」
「え?」
なんとか絞り出した感謝の言葉を聞き返され、ユーシスは顔が赤くなるのを感じながらもう一度声を少し張り上げ真っ直ぐにアリアを見て言う。
「先ほどは助けられたな、感謝する」
「え、いいの、いいのです。お仕事ですから」
「敬語はやめろと言ったはずだ」
「あー、うん、そう……だね」
曖昧に笑う彼女を不思議に思ったが、彼女が自分に嫌われていると思い込んでいることを思い出し、ユーシスは眉間に皺を寄せる。どうしたら嫌っていないと伝わるだろうか。
不安げに眉尻を下げたアリアが視線を泳がせるのに、ユーシスは困ったとため息を吐いた。するとアリアがそれに対しまた身を固くするのに堂々巡りだと頭を悩ませた。
「週末、時間はあるか?」
「え、ええ?なぜ……」
「あるかと聞いているんだ」
「なんだそれ……あります…あるよ」
完全に警戒されている様子。
何故こんなことを聞いてくるのか本気でわかっていない様子のアリアにユーシスは心の端っこが少し痛むのを感じながら、エリオットとガイウスの助言の通りにすることにした。
「茶を奢ってやろう。今日の礼だ。」
「いや、だから、仕事だって」
「俺の誘いを受けないと言うのか?」
「命令だとでも?」
「それはお前次第だ」
見事に隠さず解せないと顔を歪めるものだとユーシスは笑いを堪える。食えない女だと思ったが、なんだこんなにも分かりやすいではないかとこの数分の会話で少し印象が変わる。
「…ルーファスさんにそっくりね」
「何?」
「いいえなんでも。わかった。お誘いを受けるわ」
アリアの承諾の返事に胸を撫で下ろす。
なんとか和解への一歩を踏めたようだ。
「時間と場所は、また伝える」
「わかった。それより、手を…離してもらえるかしら」
「あっ、ああ、すまない」
掴んでいた手を離すと彼女の手首に包帯が見えユーシスは眉を顰めるが、すぐに袖に隠れてしまいアリアが「さあ、帰りましょう」と帰宅を促すのに頷いた。
これと言って会話は無かったが、こんなにも長く彼女と時間を共にするのは初めてでユーシスはたったそれだけなのに、大きな進歩だと嬉しく思うのだった。
◆
約束を取り付けた日。
普通に準備したつもりが、ちょうど鉢合わせたリィンに「なんだか今日は気合い入ってるな」だなんて悪気なく褒められて早速調子が狂うユーシス。寮の外で待ち合わせだなんてまるでデートみたいだと柄にも無い考えを打ち消しながらアリアの到着を待つ。
腕時計に視線を下す。約束の時間まであと数分か。
「おはよう」
次に視線を前に戻したときには目の前にアリアが居た。
「ッいつの間に」
「今だよ?ユーシス見えて、それで出てきた」
あっけらかんと言うアリアに呆れるが、彼女の様相がシンプルなワンピースと普段とはまた変わった雰囲気なことに意識が持っていかれる。白がよく似合う、そう思った。
「エスコートしてくださる?」
「誰がするか、行くぞ」
冗談じゃない、と体を翻しキルシェへと向かう。すると後ろから「残念」と笑う声が聞こえたがちっとも残念そうではないとユーシスは思うのだった。
時間が早かったと言うこともあり店内は比較的空いていた。テラスにしないの?というアリアの問いかけを無視して適当な席に着く。テラスなどごめんだ、自分とアリアが2人座っていると嫌でも注目を浴びるだろう、ユーシスにとってそれは不本意だった。
「好きなものを頼むといい」
「そう?じゃあブレンドコーヒーで、ユーシスは?」
「アールグレイ」
メニューも見ずに頼むとアリアが店員を呼び注文してくれる。お互いの飲み物だけを注文して終わりかけていたのをユーシスは制止し「プリンを一つ追加だ」と付け加える。
店員が去り、2人の間に絶妙な沈黙が流れる。
茶に誘ったはいいが話題を考えていなかった、とユーシスは今更に話題を探し始める。
「やっぱりユーシスは紅茶派?」
思いがけずアリアから話題が振られ、視線を上げると首を傾げたアリアがじっとこちらを見ていて不意に胸が高鳴る。
ユーシスは認めざるを得なかった。
アリアの容姿が明らかに自分の好みのど真ん中であることを。
「そうだな…どちらも嗜みはするが、紅茶の方が好んで飲むな」
「公爵家の紅茶美味しいものね。私、ルーファスさんに頂いてびっくりしちゃったもん」
控えめに浮かべた笑みも美しく、まるで実家の廊下に飾られた絵画のようだとつい見惚れる。しかしまあ、兄とアリアが一緒に茶を飲んでいるところなんて想像できなくてユーシスは不思議に思った。
「お前は…コーヒーなのか?」
「そう…かな。クロスベルではコーヒーが多かったかも」
クロスベル、そうか、彼女はクロスベル人なんだったと改めて思うユーシス。そして同時に元警察ということも思い出され、この茶会を通して彼女を見定めようと意気込む。
ぎこちないながらにも授業などの学院の話をしているとやがて頼んだものが運ばれてくる。
ユーシスの前に紅茶、アリアの前にコーヒー、そして、ユーシスの前にプリンを置き店員が去っていく。アリアがプリンを見て目を輝かせた。本人は無意識なのだろうが、あまりに分かりやすい羨望の眼差しにユーシスは内心笑みを溢し、プリンの器をアリアに差し出す。
「……?」
「お前にと頼んだんだ」
「え…?ど、どうして?」
「以前教室でここのプリンが食べたいと話しているのが聞こえた」
ユーシスの言葉にアリアがプリンとユーシスの顔を交互に見ながら「えっ」と驚愕の表情を見せる。そんなに驚くことかと不服にも思ったが、嫌われていると思っていたのなら仕方がないことだろう。
「なんだ、聞き違いだったか?」
「そんなことない…!うれしい!」
随分素直に感情を伝えてくるものだと感心する。
最も言葉以上に表情が彼女の感情を物語っていて、言葉など必要ないと感じさせた。思ったよりずっと幼い雰囲気も意外だと認識を改める。
プリンを食べ、顔を綻ばせる彼女。
ユーシスも紅茶に口をつけ一息入れる。実家のものには遠く及ばないが、ここの紅茶もまあ悪くはない。
すると、ずいと差し出される匙にユーシスは眉を顰めた。
「美味しいよ、ひとくちいる?」
優しい微笑みに悪意や他意は全く感じられず、シンプルにプリンの美味しさをユーシスと共有したいだけのようだが。貴族であるユーシスにこのような振る舞いをしてくる人間はいなかったし、むしろそういった教養のない行為はしてはならないと教育を受けてきた。
「いや、結構だ」
「そう……ッごめんなさい、非常識でしたね」
アリアはすぐに気がついたようで顔色を変え小さくなってしまった。確かに控えてほしいが、そこまで萎縮する必要はないのにとユーシスは不思議に思いながら、黙り込んでしまったアリアをじっと見ていた。
身分制度の希薄なクロスベル出身、そして先ほどの無作法な振る舞い。彼女はただ公爵家に雇われただけの庶民なのかもしれない。そうならば、最低限の礼儀作法しか公爵家では教わらなかったのだろうということを窺わせた。何故そんな彼女をわざわざ護衛として雇ったのかは相変わらず分からずじまいではあるが、もしかしたらそれも彼女のことを知らなさすぎる故なのかもしれない。
「俺は、お前のことをよく知らない。」
「…え?」
「よく知りもしない人間に守られるのは気分が良くない」
「……」
アリアの瞳が翳る。それは不安か不愉快か。
感情を量りかねているうちに翳りは嘘のように晴れ、ニコリと笑みが浮かぶ。
「……そうだね、こうやって時間を作ってもらえてうれしい…なんでも聞いて?」
チクリとユーシスの胸が痛む。
「……?」
美しい笑みに胸が高ならなかったのは僥倖だが不可解な痛みが後を引く。ニコニコとユーシスの問いかけを待つアリア。そこはかとない違和感に引っ掛かりは拭い切れないが気にするでもなく兼ねてから気になっていたことを聞くことにする。
「元警察と聞いたが」
「ええ、クロスベル警察に所属していたわ」
「それが何故貴族の護衛などに?」
ほんの少しの間。
普通の人なら呼吸分の間だと気にも留めないだろうが、アリアを注意深く観察しているユーシスには些か不自然な間、何か言い淀むような間に感じた。
「…実力も付いてきたし、割りのいい仕事がいいなって」
頬を掻き、少し言いづらそうに照れる仕草。
真偽は計りかねるが、悪意は感じない。
「金に困ってるのか?」
「ふふ、随分直球に聞くのね。」
「遠回しにするだけ時間の無駄だ。」
「困ってないわ。ただ、そうね……」
アリアの視線がコーヒーのカップに落ち、褐色の液体をじっと見下ろす。その色味がまるで移ってしまったかのように、ピンクダイヤの瞳がはっきりと暗く濁り、カップの縁を撫でる指が何かを愛おしむかのように優しく動く。
「すべてのタイミングが絶妙に噛み合ったのかもしれないわね」
視線を上げ、ニコリと笑ったアリアの顔をユーシスは忘れないだろうと思った。
「そうか。」
何も話す気はないのだと深く思い知らされる。
しかし、それはユーシスにとって不利な状況を生むものではなく、アリアの心の深いところで確かに根付く虚しさなのだと、今の会話を持って理解した。
今のユーシスでは彼女の深層どころか心の入り口へさえも到達できないのだ。彼女を理解するには、まず自分を理解してもらわなければいけないのだとユーシスは思った。
「俺のことは兄上からなんと?」
護衛の腕は確かだ、兄のお墨付きである上に悪意も感じない、表面上は和解したはずだ。
ただの護衛とその雇い主の関係で良い。
彼女を真に理解する必要などどこにもないはずだ。
「真面目で優秀な弟であるということしか」
「そうか。部活などの基本的なことは知っているだろう?」
「まあ大方は、不本意かもしれないけれど側にはいさせてもらってるからね」
何故、自分は彼女に自分を知ってもらおうだなんて思い始めているのだろうか。
容姿だけで惹かれるほど浅はかではないはず。
それでも確実にユーシスはアリアの心に近づこうと策を講じ始めている。
「不本意などではない。それがお前の仕事だろう」
「……意外、もっと嫌われていると思ってた」
「それについては…悪かった。俺も意地になりすぎていた」
謝罪の言葉にアリアは驚いた顔をするとユーシスは思っていたが、予想に反してアリアは嬉しそうに笑みを見せ手を差し出してくる。
「私も素直じゃなかった、ごめんなさい。これから仲良くしてほしいな。ユーシス?」
「仲良く、かは知らないが、まあ…よろしく頼む」
彼女の手に触れるのは2回目だったが、やはりとても冷たく、とても小さいとユーシスは思うのだった。
◆
「本当に奢ってくれるの?」
「ああ、気にするな」
「ありがとう…今度は私が奢るわ」
「いい。雇い主である以上支払うのが責務だ」
「そう…そういうものなのね」
「そんなに気にするのなら、また茶に付き合え」
「……ふふ…素直じゃないんだから…」
手紙の締めくくり。追伸だなんて改まった様子でもなく、体調への気遣いと今後の活躍を期待する文面の隙間を埋めるかのような、流し読みしていたら読み過ごしてしまうような書き方だった。
「初めまして、ユーシス様。公爵家より遣わされました、アリア・ラプランカでございます。本日より護衛を務めさせていただきます。」
そう言い、同じ学院の同じ色の制服のスカートの裾をつまみ淑女よろしくお辞儀をする女を見ながらユーシスは兄は何と書いていたか記憶の引き出しを引っ張り出す。
【先の実習後に護衛に就く者からも大いに学びがあるだろう。そなたの更なる成長を期待する。】
確かそんな文面だった記憶がある。
実習出発直前の手紙だったので、疑問には思ったが深く気にする暇がなかったというべきか。実習の内容も波乱に満ち溢れ、手紙の事などすっかり忘れていたというべきか。いずれにせよ思いもよらない出来事である。
ようやっと学院に帰還して、今、目の前で挨拶をする見慣れぬ女と対峙して初めてそのことを思い出したわけであった。
聞けば女はルーレの実習に合流し《帝国解放戦線》のリーダー《C》との戦闘で、護衛としての初仕事を見事全うしたそうな。女の左胸に装着された赤いナイフ、彼女の全身へと順に視線が移る。とてもこの小柄な女からはリィン達を守り戦う姿の想像がつかない。ユーシスは素直に眉を顰めた。
まだ『公爵家次男の婚約者となりました』の方が納得がいく。
正直な所、女が目の前に現れた瞬間ユーシスは視線と意識を奪われたのだった。人形のような整った容姿、小柄だが女性らしさの感じられる体躯、ライノの花のような淡く儚げな薄桃色の髪、そして何よりユーシスの意識を奪ったのがピンクダイヤモンドの宝石のような甘やかな光を放つ瞳だ。この瞳と視線が合った瞬間、ユーシスの心臓は形容し難い刺激を受けたのだった。
鼓動が飛び跳ね、視界が一段階明るくなるような心地。
これまで感じたことのない感覚にユーシスは眉を顰めたが、女が自分の『護衛』だなんて言うもんだから、眉間の皺をより一層深めてなんとか言葉を探した。
「……護衛など必要ない。兄上が何と言おうともだ。」
実際自分は士官学校に通い、剣士として剣術も磨き、特殊クラスのⅦ組として戦術オーブメントARCUSの扱いにも長けている。大人達より実力があるとは言わないが、少なくとも小柄な女に守られるほどユーシスは柔ではないと自負していた。もっと言うとルーレで《帝国解放戦線》のリーダーが討たれた今、一体何から守られると言うのだろうか。ユーシスは疑問だった。ガレリア要塞でも自分たちの力でなんとか列車砲を止めることができた。やはり、兵士として教育を受けている自分たちに『護衛』とは。ますます意図がわからず、兄に手紙で問いただそうとユーシスは自室へと脚を向けた。
「…ふふ、あははっ」
横を通り過ぎた所で女が笑った。
鈴を転がした様な心地の良い声だったが、ユーシスは笑われる意味がわからず反射的に振り返り女を睨みつけた。
「ルーファスさんの言った通り。さすが兄弟」
甘く細まるピンクダイヤ。
屈託のない笑みにユーシスの心臓が先ほどの比にならないほど大きく飛び跳ねた。思わず胸を押さえるほどに。
口元に手を添え、未だ笑い続ける女にユーシスは「どういう意味だ」と問う。不可解な鼓動はさておき、一方的に笑われるのが不愉快であることには変わらない。雇い主である兄を“さん”付けで呼ぶのにも引っかかりを覚える。
「いえ、ルーファスさんが言っていた貴方の反応がそのままだったので面白く…ふふっ」
兄が何を言ったのだろうかと眉を寄せたまま女を凝視していると、一歩距離が詰められトンッと眉間に女の指先が触れた。至近距離で覗き込んでくる薄桃色の瞳が眩しく、そして指の触れた場所から熱が広がっていく心地がしてユーシスは思わず視線を逸らした。
「ここに皺を寄せて『必要ない』って。で、すぐに立ち去ろうとするだろうって…ね?」
砕けた口調、柔らかい笑み。ユーシスはどんどんと調子が狂っていくのに苛立ちを感じていた。相変わらず鼓動は忙しなくそれも不快だった。
「…何でもいいが、兄上のところに帰るといい。兄上には俺からも伝えておく、必要ないと。」
「それは…困るわ」
困惑した様に寄る眉も美しいと不意に思ってしまい、ユーシスは儘ならぬ己の情感に一刻も早くこの場を立ち去るか、彼女に目の前から消えて欲しかった。
「私のお仕事だもの、遠くでもいいわ。近くに居させてください。それに…どうやらこの学院に編入するみたいだし…」
確かに女が身に纏っているのはトールズ士官学院の制服だ。おまけに色は赤でクラスまで同じとは、ユーシスはこれ見よがしにため息を吐いて見せた。
「貴方の邪魔はしない。別に着いて回ったりはしないから安心して?」
じゃあどうやって護衛するんだ、という心の声が聞こえたのか「尾行と気配を消すのは得意なの」と女が肩をすくめて笑ったが、すぐに背筋を正すとユーシスを真っ直ぐに見据える。
「なので、どうか私の護衛としての任務をお許しください。」
左胸の真紅のナイフに手を当て頭を下げる女。出会い頭の可憐な淑女の様な雰囲気は無く、言う通り護衛騎士のように凛と澄んだ立ち振る舞いにユーシスはゴクリと唾を飲んだ。
彼女の醸し出す空気感は完全にクラスメイトのソレではない。研ぎ澄まされた気配に、呼吸一つ取っても計算されているかの様な洗礼さだった。
剣を交えるどころかユーシスは彼女が戦う姿さえも見たことがなかったが、今目の前で自分を護衛すると頭を下げる女は間違いなく教官クラスの実力を持っているとユーシスは肌で感じていた。
「様はやめろ。ユーシスでいい。」
観念してぶっきらぼうに言い捨てると、弾かれた様に嬉しそうなピンクダイヤが見上げてくる。
「わあ、ありがとうございます!」
「敬語もいらない。仮にもクラスメイトになるのだろう?変な気を使うな、かえってやり難い。」
「いいの?助かるわ。堅いのってどうにも合わなくて」
すっかり砕けた様子の女、アリア・ラプランカに食えない女だとユーシスは辟易した。しかし、兄に追求することに変わりはないが、あの兄が変な人間を自分に付けるはずはないという確信はある。思いもよらない関係ではあるが、これがユーシスとアリアの出会いのお話なのだった。
◆
「改めましてアリア・ラプランカです。先日から皆様のクラスメイト兼護衛としてトールズに編入しました。どうぞよろしくお願いいたします。」
控えめに広げられるスカートの裾。
半分の人間は突然の編入生に目を瞬いた。もう半分の人間はその反応を見て、数日前の自分たちを見ている様で苦笑いを漏らす。
「アリア…すっかり別人みたいね…淑女教育ってやつ?」
「ふふ、サラ教官、そのお話はよしてください」
「まあすぐに素がでてくるんでしょうけど…」
二人の会話をみんな一様にきょとんと眺めていたが、ユーシスだけはアリアの“素”の部分をほんの少しだけ垣間見ていたので、屈託のない笑みが瞬時に思い起こされる。『堅いのは合わない』と言っていた割にはずっと澄ました振る舞いをしているのは不思議で、ユーシスはもっと気楽にすれば良いのにと仏頂面で考えていた。
「席はクロウの隣に作っておいたわ。一応Ⅶ組の護衛だけど雇い主はアルバレア公爵家だからね、学院の案内はユーシス、あんたに任せたわよ。」
「断る」
「はい、私は一人で大丈夫ですので、ユーシスはお気遣いいただかなくて大丈夫です。」
サラリと即答するアリア。初めに断ったのは自分だが、こうあからさまに拒絶されると引っかかりを覚える。呼び捨てに敬語というアンバランスさに気を止める余裕もなく、ついユーシスは眉を吊り上げた。彼女の声色があまりに抑揚がなく、なんの感情も感じられなかったのも気掛かりだった。
「ユーシスあんたねえ…まあアリアがいいならいいのだけど…みんな、仲良くしなさいね」
呆れたサラの一声で編入生の紹介が終わりホームルームが始まる。
ユーシスは横目でアリアを見やる。
早速クロウに小声で話しかけられていて、ルーレの実習ですっかり打ち解けたようで笑みを浮かべるアリアにユーシスは先ほどとは違った胸のざわめきを覚えた。
全く不快である。意味がわからない。
兄から説明を聞かないことには到底納得できるものではないとサラの話を聞きながら苛立ちを押し込めた。
それから兄からの返事があるまでの数日間で、アリアはあっという間にクラスに馴染んでいった。
明るく朗らかで面倒見が良い。その綺麗な容姿も人を惹きつける要因の一つだろう。
学校の案内はルーレの実習で特に仲良くなった様子のクロウとアリサが主にしていて、あとはクラスの中でも年下のフィーとミリアムがアリアに懐いているようだった。
他のメンバーも彼女がまるでもっとずっと前からⅦ組にいたかのように自然と接していて、彼女にはエマとは違った路線の『クラスのお姉ちゃん』ポジションが当たり前のように定着していた。
違うのはユーシスだけといっても良い。
彼女は初日の宣言通りユーシスに付きまとうことはなかった。ユーシスがクラスにいない時や放課後も彼女の気配を感じることもなく、彼女が豪語していた通り気配を消すのがよほど得意なのか、はたまた職務を放棄しているのか。挨拶程度の関わりしかないユーシスには分かり得ないことだった。
兄の手紙の内容は一言で言えば『万が一に備えて』だ。
《帝国解放戦線》のリーダーは討たれたが、残党がⅦ組に恨みを持つ可能性もある。そういった有事の際に彼女が身を挺して守ってくれるそうだ。
年齢もほとんど変わらないような小柄な女がその身を挺して守る?
ユーシスは兄直筆の手紙を読みながら尚も納得できないでいた。普段の彼女の様子からはとてもそんな想像はつかない。むしろ身を挺して守られるのは彼女の方だと思わせさえする。しかし、手紙を読み進めると驚愕の事実が発覚しユーシスは無理矢理にでも納得せざるを得なくなる。
「え?アリアが元警察って知ってるかって?」
「ああ、兄上の手紙にそうあった」
試しにちょうど教室にいたエリオットに聞いてみると、一瞬怪訝そうに眉を顰めたが直ぐに呆れたように笑みを浮かべる。何が可笑しいのかわからずその顔をじっと見ていると近くにいたガイウスと何やら顔を合わせて肩をすくめるエリオットにユーシスは眉を顰める。
「なんだ、馬鹿にしているのか?」
「いやー?本当に全然話してないんだなと思って」
「恐らくクラスで知らなかったのはお前だけだと思うぞ。」
彼女の学生らしからぬ特殊な経歴が自分以外の周知の事実だったとは。ユーシスはいかに自分が接点を持とうとしていなかったかを思い知る。
「何が嫌なの?あんなに良い子なのに」
「嫌というわけでは……」
「ふむ、少なくともアリアはユーシスに嫌われていると思っているが…」
そんな話まで他のメンバーとしているとは、ユーシスは驚き、自分の変な意地が拗れに拗れた結果だと素直に反省する。しかし、今になって手のひらを返したようにアリアと仲良くしようだなんて、ユーシスにはバツが悪くて出来そうもない。
しかし、アリアにそう思わせているのは些か申し訳なさを感じる。嫌いなはずはなく、むしろ気がつくと目で追ってしまうので意識をして見ないようにしていたのが仇となったようだ。
「2人でお茶でもしに行って和解したら?」
「お茶……」
「ああ、俺もそう思うよ。まずは話すべきだ」
「やあ、3人とも。残念だがアリアはアリサと出かけてしまったよ。」
リィンの言葉にエリオットとガイウスが同情の視線を向けてくるのに、ユーシスは非常に居心地が悪い上に何故自分がこんな思いをしなければならないのかと面倒臭くも感じる。
そして、アリサと遊びに行くだなんてやはり仕事を放棄しているではないか。護衛など名ばかりだ。兄から寄せられる信頼も一体何から生まれているのか。元警察という肩書きか?ここにきて再びユーシスの中にふつふつと懐疑心が湧く。
「まあ、なんだ…ユーシス。あまり憶測で物事を決めつけないようにな」
リィンの助言も話半分で聞きながらユーシスは改めて護衛などいらないと思うのだった。
そんな不愉快な気分のまま放課後は図書室に篭り読書に耽る。読書は良い。知識が増える上に時間を忘れることもできる。気がつけば時刻は夕食時手前だった。今から帰路に着けばちょうど良い時間に帰れるだろうとユーシスは読んでいた本を閉じ、棚に戻す。
今日蓄えた知識は何に活かせるだろうかと考えに耽りながら図書館を出て校門前に差し掛かると何やら正面玄関前が騒がしい。見ると、緑色の制服の生徒が何やらボールを投げ合いはしゃいでいる。こんなところで遊ぶだなんて迷惑だと思ったが、早々に立ち去り関わり合いにならないのが一番だろうと視線を逸らし背を向けた。
「おら!くらえ!って、やっべ!」
「ばかっ!このノーコン!」
ザワッと背後の集団が騒めいた。
何かが迫ってくる気配に振り向くとボールがこちらに向かってくるのをユーシスは視認する。しかし、もう避けるのも間に合わない距離感でユーシスは反射的に頭を腕で覆い目を瞑った。
パンッ、と何かが破裂する音。
ふわりと香る甘い香りにユーシスは恐る恐る目を開いた。
身体的な衝撃は来なかったが、目の前に立つ背中に衝撃を受ける。
「間に合ってよかった。大丈夫?」
薄桃色の髪を翻し振り返ったアリアが笑う。
手にはナイフ、破裂したらしいボールの残骸が地面に転がっているのにユーシスは目を瞬いた。
――守られた?
いや、自分は1人で歩いていてアリアの姿も気配も無かった。
では何故?アリアはここに立ち、自分はボールの激突を免れたのか。
『尾行と気配を消すのは得意なの』
ユーシスはゾッとした。
こんなにも悟れぬことがあるのかと。
「この件はトワ会長に報告しますからね」
「す、すみませんでした!!」
ボール遊びをしていた生徒に注意をしていたらしいアリアが放心したユーシスに再び近づいてくる。
ユーシスの信じられないものを見るような視線にアリアが眉尻を下げて笑った。
「ね、邪魔はしないって言いましたでしょう?気味が悪いかもしれないけれど…お付き合い願うわ。」
夕日に照らされた笑顔が泣き出しそうでユーシスの胸がぐしゃりと痛んだ。
軽くお辞儀をしたアリアが背を向け学校を去っていく。
ユーシスはわからなかった。自分の気持ちがわからなかった。
守られたことに感謝すべきだ。
剣士として鍛錬に励んでいる男が女に守られるなどプライドが許さない。
嫌悪されていると感じさせてしまっていることを詫びるべきだ。
自分は大貴族で格下である彼女に施す側の人間なのでは。
彼女は紛れもない実力者だ。そしてクラスメイトの仲間だ。
様々な葛藤がユーシスの中で繰り広げられる。
そうしているうちにもアリアの背中は遠ざかる。
『あんなに良い子なのに』
エリオットの言葉が思い出され、ふとユーシスは気がついた。その言葉に何も返せないほどに彼女を知らないということに気がついた。
「…おい!」
ユーシスは走り追いかけ、その手を掴み引き留めていた。
初めて触れた彼女の手はとても冷たく、とても小さいと思った。この手がナイフを握っているなど本来であれば想像もつかない。
「――ッ!」
驚かせてしまったようで身を縮こまらせるアリアにユーシスは意外な反応だと思ったが、すぐに自分を見つめる少し見開かれたピンクダイヤの瞳に釘付けになった。
「な、なに?」
「……礼を言う」
「え?」
なんとか絞り出した感謝の言葉を聞き返され、ユーシスは顔が赤くなるのを感じながらもう一度声を少し張り上げ真っ直ぐにアリアを見て言う。
「先ほどは助けられたな、感謝する」
「え、いいの、いいのです。お仕事ですから」
「敬語はやめろと言ったはずだ」
「あー、うん、そう……だね」
曖昧に笑う彼女を不思議に思ったが、彼女が自分に嫌われていると思い込んでいることを思い出し、ユーシスは眉間に皺を寄せる。どうしたら嫌っていないと伝わるだろうか。
不安げに眉尻を下げたアリアが視線を泳がせるのに、ユーシスは困ったとため息を吐いた。するとアリアがそれに対しまた身を固くするのに堂々巡りだと頭を悩ませた。
「週末、時間はあるか?」
「え、ええ?なぜ……」
「あるかと聞いているんだ」
「なんだそれ……あります…あるよ」
完全に警戒されている様子。
何故こんなことを聞いてくるのか本気でわかっていない様子のアリアにユーシスは心の端っこが少し痛むのを感じながら、エリオットとガイウスの助言の通りにすることにした。
「茶を奢ってやろう。今日の礼だ。」
「いや、だから、仕事だって」
「俺の誘いを受けないと言うのか?」
「命令だとでも?」
「それはお前次第だ」
見事に隠さず解せないと顔を歪めるものだとユーシスは笑いを堪える。食えない女だと思ったが、なんだこんなにも分かりやすいではないかとこの数分の会話で少し印象が変わる。
「…ルーファスさんにそっくりね」
「何?」
「いいえなんでも。わかった。お誘いを受けるわ」
アリアの承諾の返事に胸を撫で下ろす。
なんとか和解への一歩を踏めたようだ。
「時間と場所は、また伝える」
「わかった。それより、手を…離してもらえるかしら」
「あっ、ああ、すまない」
掴んでいた手を離すと彼女の手首に包帯が見えユーシスは眉を顰めるが、すぐに袖に隠れてしまいアリアが「さあ、帰りましょう」と帰宅を促すのに頷いた。
これと言って会話は無かったが、こんなにも長く彼女と時間を共にするのは初めてでユーシスはたったそれだけなのに、大きな進歩だと嬉しく思うのだった。
◆
約束を取り付けた日。
普通に準備したつもりが、ちょうど鉢合わせたリィンに「なんだか今日は気合い入ってるな」だなんて悪気なく褒められて早速調子が狂うユーシス。寮の外で待ち合わせだなんてまるでデートみたいだと柄にも無い考えを打ち消しながらアリアの到着を待つ。
腕時計に視線を下す。約束の時間まであと数分か。
「おはよう」
次に視線を前に戻したときには目の前にアリアが居た。
「ッいつの間に」
「今だよ?ユーシス見えて、それで出てきた」
あっけらかんと言うアリアに呆れるが、彼女の様相がシンプルなワンピースと普段とはまた変わった雰囲気なことに意識が持っていかれる。白がよく似合う、そう思った。
「エスコートしてくださる?」
「誰がするか、行くぞ」
冗談じゃない、と体を翻しキルシェへと向かう。すると後ろから「残念」と笑う声が聞こえたがちっとも残念そうではないとユーシスは思うのだった。
時間が早かったと言うこともあり店内は比較的空いていた。テラスにしないの?というアリアの問いかけを無視して適当な席に着く。テラスなどごめんだ、自分とアリアが2人座っていると嫌でも注目を浴びるだろう、ユーシスにとってそれは不本意だった。
「好きなものを頼むといい」
「そう?じゃあブレンドコーヒーで、ユーシスは?」
「アールグレイ」
メニューも見ずに頼むとアリアが店員を呼び注文してくれる。お互いの飲み物だけを注文して終わりかけていたのをユーシスは制止し「プリンを一つ追加だ」と付け加える。
店員が去り、2人の間に絶妙な沈黙が流れる。
茶に誘ったはいいが話題を考えていなかった、とユーシスは今更に話題を探し始める。
「やっぱりユーシスは紅茶派?」
思いがけずアリアから話題が振られ、視線を上げると首を傾げたアリアがじっとこちらを見ていて不意に胸が高鳴る。
ユーシスは認めざるを得なかった。
アリアの容姿が明らかに自分の好みのど真ん中であることを。
「そうだな…どちらも嗜みはするが、紅茶の方が好んで飲むな」
「公爵家の紅茶美味しいものね。私、ルーファスさんに頂いてびっくりしちゃったもん」
控えめに浮かべた笑みも美しく、まるで実家の廊下に飾られた絵画のようだとつい見惚れる。しかしまあ、兄とアリアが一緒に茶を飲んでいるところなんて想像できなくてユーシスは不思議に思った。
「お前は…コーヒーなのか?」
「そう…かな。クロスベルではコーヒーが多かったかも」
クロスベル、そうか、彼女はクロスベル人なんだったと改めて思うユーシス。そして同時に元警察ということも思い出され、この茶会を通して彼女を見定めようと意気込む。
ぎこちないながらにも授業などの学院の話をしているとやがて頼んだものが運ばれてくる。
ユーシスの前に紅茶、アリアの前にコーヒー、そして、ユーシスの前にプリンを置き店員が去っていく。アリアがプリンを見て目を輝かせた。本人は無意識なのだろうが、あまりに分かりやすい羨望の眼差しにユーシスは内心笑みを溢し、プリンの器をアリアに差し出す。
「……?」
「お前にと頼んだんだ」
「え…?ど、どうして?」
「以前教室でここのプリンが食べたいと話しているのが聞こえた」
ユーシスの言葉にアリアがプリンとユーシスの顔を交互に見ながら「えっ」と驚愕の表情を見せる。そんなに驚くことかと不服にも思ったが、嫌われていると思っていたのなら仕方がないことだろう。
「なんだ、聞き違いだったか?」
「そんなことない…!うれしい!」
随分素直に感情を伝えてくるものだと感心する。
最も言葉以上に表情が彼女の感情を物語っていて、言葉など必要ないと感じさせた。思ったよりずっと幼い雰囲気も意外だと認識を改める。
プリンを食べ、顔を綻ばせる彼女。
ユーシスも紅茶に口をつけ一息入れる。実家のものには遠く及ばないが、ここの紅茶もまあ悪くはない。
すると、ずいと差し出される匙にユーシスは眉を顰めた。
「美味しいよ、ひとくちいる?」
優しい微笑みに悪意や他意は全く感じられず、シンプルにプリンの美味しさをユーシスと共有したいだけのようだが。貴族であるユーシスにこのような振る舞いをしてくる人間はいなかったし、むしろそういった教養のない行為はしてはならないと教育を受けてきた。
「いや、結構だ」
「そう……ッごめんなさい、非常識でしたね」
アリアはすぐに気がついたようで顔色を変え小さくなってしまった。確かに控えてほしいが、そこまで萎縮する必要はないのにとユーシスは不思議に思いながら、黙り込んでしまったアリアをじっと見ていた。
身分制度の希薄なクロスベル出身、そして先ほどの無作法な振る舞い。彼女はただ公爵家に雇われただけの庶民なのかもしれない。そうならば、最低限の礼儀作法しか公爵家では教わらなかったのだろうということを窺わせた。何故そんな彼女をわざわざ護衛として雇ったのかは相変わらず分からずじまいではあるが、もしかしたらそれも彼女のことを知らなさすぎる故なのかもしれない。
「俺は、お前のことをよく知らない。」
「…え?」
「よく知りもしない人間に守られるのは気分が良くない」
「……」
アリアの瞳が翳る。それは不安か不愉快か。
感情を量りかねているうちに翳りは嘘のように晴れ、ニコリと笑みが浮かぶ。
「……そうだね、こうやって時間を作ってもらえてうれしい…なんでも聞いて?」
チクリとユーシスの胸が痛む。
「……?」
美しい笑みに胸が高ならなかったのは僥倖だが不可解な痛みが後を引く。ニコニコとユーシスの問いかけを待つアリア。そこはかとない違和感に引っ掛かりは拭い切れないが気にするでもなく兼ねてから気になっていたことを聞くことにする。
「元警察と聞いたが」
「ええ、クロスベル警察に所属していたわ」
「それが何故貴族の護衛などに?」
ほんの少しの間。
普通の人なら呼吸分の間だと気にも留めないだろうが、アリアを注意深く観察しているユーシスには些か不自然な間、何か言い淀むような間に感じた。
「…実力も付いてきたし、割りのいい仕事がいいなって」
頬を掻き、少し言いづらそうに照れる仕草。
真偽は計りかねるが、悪意は感じない。
「金に困ってるのか?」
「ふふ、随分直球に聞くのね。」
「遠回しにするだけ時間の無駄だ。」
「困ってないわ。ただ、そうね……」
アリアの視線がコーヒーのカップに落ち、褐色の液体をじっと見下ろす。その色味がまるで移ってしまったかのように、ピンクダイヤの瞳がはっきりと暗く濁り、カップの縁を撫でる指が何かを愛おしむかのように優しく動く。
「すべてのタイミングが絶妙に噛み合ったのかもしれないわね」
視線を上げ、ニコリと笑ったアリアの顔をユーシスは忘れないだろうと思った。
「そうか。」
何も話す気はないのだと深く思い知らされる。
しかし、それはユーシスにとって不利な状況を生むものではなく、アリアの心の深いところで確かに根付く虚しさなのだと、今の会話を持って理解した。
今のユーシスでは彼女の深層どころか心の入り口へさえも到達できないのだ。彼女を理解するには、まず自分を理解してもらわなければいけないのだとユーシスは思った。
「俺のことは兄上からなんと?」
護衛の腕は確かだ、兄のお墨付きである上に悪意も感じない、表面上は和解したはずだ。
ただの護衛とその雇い主の関係で良い。
彼女を真に理解する必要などどこにもないはずだ。
「真面目で優秀な弟であるということしか」
「そうか。部活などの基本的なことは知っているだろう?」
「まあ大方は、不本意かもしれないけれど側にはいさせてもらってるからね」
何故、自分は彼女に自分を知ってもらおうだなんて思い始めているのだろうか。
容姿だけで惹かれるほど浅はかではないはず。
それでも確実にユーシスはアリアの心に近づこうと策を講じ始めている。
「不本意などではない。それがお前の仕事だろう」
「……意外、もっと嫌われていると思ってた」
「それについては…悪かった。俺も意地になりすぎていた」
謝罪の言葉にアリアは驚いた顔をするとユーシスは思っていたが、予想に反してアリアは嬉しそうに笑みを見せ手を差し出してくる。
「私も素直じゃなかった、ごめんなさい。これから仲良くしてほしいな。ユーシス?」
「仲良く、かは知らないが、まあ…よろしく頼む」
彼女の手に触れるのは2回目だったが、やはりとても冷たく、とても小さいとユーシスは思うのだった。
◆
「本当に奢ってくれるの?」
「ああ、気にするな」
「ありがとう…今度は私が奢るわ」
「いい。雇い主である以上支払うのが責務だ」
「そう…そういうものなのね」
「そんなに気にするのなら、また茶に付き合え」
「……ふふ…素直じゃないんだから…」