吸死

他部署の顔見知り程度の認識だった。それが変化したのは新横に季節外れの豪雪が降った日のことだ。暗い駅前を注意深くも足早に歩いて行く人々の中で彼女だけが立ち尽くしていた。駅の出入り口というかろうじて屋根のある場所だが、吹き込む雪がまともに当たっていそうだった。雪片がひとひら目に入ったのか、しきりにまばたきをしている。酔狂な女もいるものだと思ったが、よく見ると知った顔である。目のいい半田は、こんな悪天候の中でも遠目から彼女を識別した。だから近寄らなくてもよかったのだ。でも彼は母親の教育のおかげで、基本的には善人だった。べしゃべしゃと雪を踏みしめて半田は彼女に近付く。どこか遠くを見つめていた彼女は、目の前の半田に気付くと、何か言いかけて止めたようだった。代わりに半田の名前を呼んだ。待ち人と勘違いしたのだろうと彼は判断する。
「いつから立ってるんだ」
「一時間くらいじゃないですかね」
「風邪を引くだろうが」
「まぁ、そうなったらそうなったで」
へら、と彼女は笑った。その笑顔の種類に半田は見覚えがある。たまに相対する吸血鬼にもいるのだ。何もかもどうでもよくなって捨て鉢になっている者が。
「ちゃんと相手に連絡しろ」
要らない世話を焼いていると思いながらもつい口を出してしまう。彼女はそうですねえとだけ言った。半田が壁になっているから、今は吹き込む雪は彼女に当たっていない。彼女は言葉を手繰っているのか、長めの沈黙のあと口を開いた。
「こんなひどい雪の日にもずっと待っていられるくらい愛してると思いたかったのかもしれません」
半田は、他人の自暴自棄に対して「やめておけ」という言葉しか持たない。同時にそれを言われてやめる人間がいないことも知っている。反射的に呟いてしまったがきっと彼女には聞こえなかっただろう。半田は彼女の手首を掴んだ。一時間そこらで人はこんなに冷たくなるのか、と彼は驚く。そんなわけないのは分かりきっているのに、この女が死んでしまいそうな予感が脳をよぎった。ぎり、と半田はマスクの下で歯を食いしばる。彼女の手を掴んだまま、改札の横に設置された自販機へ向かった。あたたかいコーヒーを選択し、交通系ICカードで支払いを済ませる。財布を出すために彼女から手を放したら絶対にまたあの寒い場所へ戻るだろうと考えたからだ。吐き出された熱い缶を半田は彼女に押し付け、ついでに家の場所を聞く。電車で数駅の場所だった。半田は改札に彼女を押し込む。半田の知っている愛は彼女のように自暴自棄なものでない。相手が健やかで幸せに日々を過ごすために何ができるか考える性質のものだった。もう今日は帰って風呂に入って寝ろ!と半田は叫ぶ。彼女が観念したようにホームへ向かっていくのを見届けて、まだ彼女の肌の冷たさが残る右手を見つめた。半田が最後に見た彼女の目は、もう落ち着いていた。急に名残惜しさに襲われて、半田は首を傾げる。明日、彼女が半田に礼を言いに来ることも、一緒に昼食をとることも彼はまだ知らない。
7/46ページ
スキ