漫画

じいじいとけたたましいセミの鳴き声で目が覚めた。いくらクーラーを利かせるために窓を閉め切っていても防ぎきれる音量ではない。ベランダをのぞくと、格子に案の定セミが止まって元気にその茶色い羽を震わせていた。麦茶を飲みたいな、と色だけで連想をする。もうしばらく経てば死んでいるか死んでないか分からない状態の彼らが道路をふさぐのだろう。
身支度をしながら、手持ち無沙汰につけたテレビではどこかのお金持ちのモスが特集されていた。名前にふさわしいツヤツヤとした美しい毛並みのモスだ。雪のように真っ白なモスを、いかにも高そうなスーツを着た飼い主が恭しく撫でていた。モスいいなぁ、と思わず独り言がこぼれる。テレビに映る美しいモスを羨ましがっているのではない。モスはすべからく可愛いものであるからだ。自分の散らかり放題の部屋を省みる。この六畳一間の部屋は本と服で大体埋まっている。モスを迎えるにはスペースも自分の覚悟も準備がなかった。

暑い中、大学の図書館に行き遅々として進まない課題を少しだけ片付ける。資料は大体手元に揃っているのに、どうしてもコピーしそびれていたものがあったのだ。いつでも涼しい地下書庫から出ると灼熱の日差しが容赦なく降り注いだ。すぐに顔やら背中やら全身に汗が浮く。こんな日はせめて本屋に寄らないとやってられない。少し遠回りになろうが本屋に寄ってから帰ろうと決意した。だって今日は「月刊 モスのいるくらし」の発売日だから。

最寄りの本屋こと玉虫書店にて、首尾よく平積みされていた「月刊 モスのいるくらし」を入手した。今月の特集は「散歩で見つける モスたちに人気のスポット」だ。モス飼いさん以外への特集が組まれることは珍しい。しかし自分のような「モスは好きだが飼えない」人間にとっては大変ありがたい特集だ。ぜひ参考にして夜の散歩をしよう。早く帰りたいところだったが、道にさっそくセミがその透明な羽を下にひっくり返っていて回り道を余儀なくされた。その上、コガネムシ系だろうか、つやつや深い緑色をした甲虫が顔の高さで目の前を通ったのにたじろいでいる間に信号が赤になってしまい、余計に時間を食った。とどめにはトイレットペーパーがもうすぐ切れそうなのでこれは買って帰らねばならない。仕方なく、せめてよくモスが看板に止まっている商店街の店に行くことにした。モス屋さんと呼んでいるため、未だに本当の名前は覚えていない。今日はまだ明るいので、残念ながらモスは止まっていなかった。その代わりのように、スズメガ系の美しい緑色をしたモスが上空を通過していった。その目には見えない速さの羽ばたきに一瞬見とれたが日差しの厳しさに追いかけることは諦めた。
モス屋さんに入ると、店長さんの他に若いお兄さん――とはいえ自分より年上ではあろうが――が品出しをしていた。暗い色の服を着ているが暑くはないのだろうか。そう思いながらお兄さんの横を通ってトイレットペーパーを探しに行く。すれ違ったお兄さんの肩には、細かい白い毛がついていた。
(まさか、モスの?)
俄然お兄さんに興味が湧いてきたわけだが、さすがにほぼ初対面の人に話しかける勇気はない。大人しくトイレットペーパーをレジに持っていく。今度、モスのマスコットか何かでもカバンに付けて遠回しにでもアピールしてみようか。いやそんなことをするくらいならタイミングを見計らって話しかけたほうが気持ち悪くないかもしれない。いやでもそんな都合のいいタイミングなんてないだろう。店にはまた来るわけだが……。逡巡している間に会計は完了してしまった。勇気が出ない自分を呪いながら退店する。相変わらず洗脳されそうなセミの鳴き声が響いていた。これもあと少し経てば、夜は秋の虫のそれに置き換わるのだ。その頃にはお兄さんに話しかけれられているだろうか。いやむしろそれくらい短く期限を切らないと、踏ん切りがつかない気もした。
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