漫画

▼春
やし芸のわりと広い敷地では、メインストリートの両脇に芝生が敷かれている。そこで隣接のこども園の幼児が遊んだり、学生がスケッチしたり昼寝をしたりしているのが日常だ。よく近所の人が犬の散歩をしたりランニングをしたりもしている。奥の方には池があり、鯉だって泳いでいるしそれを野良猫が狙ったりもしている。由香さんとアイコさんも、残り少ない必修の授業を終えてお昼でも食べに行きましょうかとその広い道を歩いているところだった。ふと右手側の芝生に見知った顔がいた。直接の知り合いというわけではない。
「あいつの彼女じゃん」
あいつ、とは彼女たちと同じゼミの金子隼くんのことを指している。たまに二人が連れたって歩いているのを見かけるのだ。こそこそするのも性に合わないようだ。見かけたことを話題に出すと嫌がられるけど。その隼くんの彼女は、絵画とくに油絵を専攻しているようだ。今は、購買でよく売っている大きなスケッチブックを広げて、何やらスケッチをしているようだ。多分三枚数千円みたいなぺらぺらのTシャツにはもう取れないんだろうな、という油絵具やら謎のシミがいくつも付いている。色褪せたカーキのカーゴパンツは、手ぶらで済むように財布やなんかを突っ込んでるからポケットがパンパンに膨れているようだった。隼くんと歩いているときも今と同じような服装のときがある。もちろん女子大学生らしいきれいな格好のときもあるけど。昨年あたりから目撃しているから、それなりにサンプルがあるのだ。いつも喪服みたいに黒ずくめの隼くんと、華やかだったり何らかの色で汚れた服を着ている彼女はいつでも対極の組み合わせに見えて、それが余計に目立つのだ。
「何書いてたんだろうね」
通り過ぎたあと、由香さんがちょっと振り返ってアイコさんに話しかけた。さぁねー、と間延びした返事を返すアイコさんはあんまり興味がなさそうだ。すると向こうから黒ずくめの人影が、コンビニだか生協のレジ袋をぶら下げてずかずかと歩いてきた。
「噂をすれば影だね」
「あぁ?」
隼くんはちょっと立ち止まっていぶかし気に由香さんを見る。ガンつけんなし、とアイコさん。
「つけてねぇよ」
「ほら、彼女さんあっちにいたからね」
由香さんが指さした方を隼くんはド近眼みたいに目を細めて睨む。それが照れ隠しなことは同じゼミの仲間である二人には大体バレている。下げている袋の中に二人分のお茶がのぞいていることも。


▼夏
もうすぐ夏休みだ。でも長期休みの前ということは前期末ということだ。やし芸の学生たちは皆テスト(こっちは大体が披見化だからまだいい)と課題(レポートと創作物)に追われていた。
それは二年生の流星くんと春信くんだって例外じゃない。むしろ一年次よりも専門性の高い授業が増えたから、提出すべき創作物も増えている。そのうえ嫌がらせのように一限に開講されている英語は、まだ授業のコマが残っている。一限開始前なのに、もう日差しはかんかんに照り始めている。日光に焼かれながら二人は、大学構内の日陰に寄り集まって歩いていた。
学科をまたぐような必修の授業ができる大きな教室のある校舎までの道には、やし芸の第一食堂がある。他にはカフェや第二食堂もあるが、この第一食堂が一番大きく、また朝から営業しているのだ。道に面した大きな窓からは、中の様子がうかがえる。昼時には満席になるが、今は朝定食やなんかを食べに来ている学生がちらほらいるだけだった。
「そういえば流星くんは朝定食食べたことあります?」
「うーん、ないなぁ。朝は大体ぎりぎりまで寝ちゃうし……」
「僕も寡聞にしてないんですよねぇ」
二百円だか三百円だかで栄養バランスのとれた朝食が食べられる、という触れ込みではあるけれど大学生というのはほとんどが夜に活動し朝に寝ているものである。そういえばどんなものがあるのかしら、と春信くんはちょっと食堂の中を覗きこんだ。
「あ」
正確にはもう少し濁音だったけど、そんな感じの音が春信くんから漏れた。流星くんは何となく嫌な予感がしたけど、つい春信くんの後ろから食堂を覗き込んだ。
「あぁ……」
こちらに気が付いてじろりとねめつけているのは隼先輩だった。この暑いのに上から下まで真っ黒のスーツだ。テーブルには食べかけのうどんが置かれている。朝から朝定食以外も出していることを、春信くんと流星くんは初めて知った。そんなことよりも、先輩の隣で大きく舟をこいでいる見知らぬ女性がいる。
ヘドバンもかくやというくらい、ぐわんぐわんと頭が揺れているので、彼女の前にあるどんぶりに顔を突っ込んでしまいそうだ。それを隼くんは適当に肩とかを掴んで止めている。髪もぼさぼさだしなぜか肩とかにも絵具らしき赤やら青やらの汚れがついているのが見えた。明らかに油絵専攻あたりの徹夜明けの学生だ。
「エッどちらさまですかな!?」
春信くんがつい大きな声を出す。隼先輩は苦虫を百匹くらい噛みつぶした顔をして、何ごとか唇を動かした。
「見んな」
そのシンプルな三文字はガラス越しでも後輩二人にしっかりと伝わった。好奇心よりも危機察知能力が勝ったし、一限は必修だしで二人はその場を慌てて去ったのだった。
その後、ゼミの雑談で「あのいかにも油絵専攻の女史は誰だったんでしょうなぁ……」と春信くんがぼやいた言葉に、坂本先生があっさりと「それは彼の”良い人”だね」と返したために、場が動揺に包まれたけど、それは別の話。


▼秋
大体、ホテルなんかに泊まった朝は自分のほうが隼よりも早く起きる。けれど今日はいささか早すぎたかもしれない。まだ六時前だ。見慣れない大きな窓のカーテンを透かしてうっすらと朝日が差している。影を落とすほどの光量はない。
早く起きてしまったのは、いつの間にかかけ布団から出ていた足が冷えていたせいだろう。布団からはみ出しているのは隼も同じはずだが、お構いなしに小さくいびきをかいている。いつも真っ黒な格好をしている彼が真っ白いシーツの海に包まれているのを、私は描いておきたいと思う。リュックの中のスケッチブックを取りに動いたら起こしてしまうだろうか。もう一度よく隼の顔を観察した。私はこうして彼を観察するのが好きだ。寝ている間も眉間に皺が寄っている。彼の眉間が平らかなところを私でもほとんど見たことがない。
そもそも私と隼の出会いも、その眉間の皺がきっかけだ。特に奇抜すぎる格好(やしにゃんとか)をしているわけではないが、黒ずくめの上下に不機嫌な顔で傍若無人に大学構内を闊歩しているから存在は前々から知っていた。声をかけたのは私の課題が口実だった。「人の表情を観察しよう」なんて課題が出されたとき、私の頭に浮かんだのは話したことすらない人間の不機嫌そうなしかめ面だったからだ。さすがに初対面の第一声を馬鹿正直に言う度胸はなかったので、モデルになってほしいとそれだけをまず頼んだのだった。好きにしていていいとは言ったが、自分をスケッチしている人間がいるのに構わず、こちらを睨みつけたり思いついたタイミングで手元のメモ帳にがしがしと書き込んでいる彼に、いっそ素直が服を着て歩いているようだと感想を抱いた。また、絵ではない創作をする人間に観察されるのが新鮮だった。そうして礼に食事に誘い、向こうのライブに誘われ、なんやかんやしているうちに今日がある。私のゼミ仲間にも彼は存在を知られているが、彼のゼミ仲間にも私は知られているらしい。一介の油絵科のつもりだが。アメニティのガウンを羽織り、私は布団から抜け出してスケッチブックを取りに行った。幸い彼は少し身じろぎをしただけだ。この一冊は彼で埋まっている。描いても描き足りないという気持ちと、きちんとキャンバスに作品として残しておかねばという焦りがある。旅行先で焦ってもどうしようもないが。
それよりも寝顔をスケッチしながら今日行くところに思いを馳せるほうが建設的だ。あと、描き終えたら朝風呂に行こう。そう気持ちを切り替えて私は備え付けのテーブルに添えられた椅子を引いた。


▼冬
寒くなってからこの方、彼女は隼の部屋に居座っている。彼女の住む寮よりも大学に近いのと。何よりコタツがあるからだ。グループでの創作課題が佳境らしく、朝、隼が起きるといつの間にかコタツで寝ていることもあった。風邪をひくだろうがと渋い顔をしても、学校で寝泊まりするほうがよっぽど不健康的だと受け流されるので隼のしかめ面はますますひどくなっていくばかりだ。彼女用となっている来客用の布団はちゃんと手入れされているのに五回に一回くらいしか出番がなかった。
あまり一方的に居座るのも悪いと思っているからか、それとも家に置いてあっても腐るだけだからか、隼の部屋には彼女の実家から送られてきたという果物が持ち込まれるのが通例である。この冬も段ボールいっぱいに届いたというポンカンがコタツの上に転がっていた。
突っ伏しながらポンカンの皮を剥いている彼女のつむじが、立ち上がった隼からよく見えた。忙しさのせいだろう、染めてある髪の毛の根本が黒くなり始めたのが分かる。また、今日は本人曰く「ずぼらをして」眼鏡だった。初めて出会ったときは、鳶色の虹彩だったがそれはカラーコンタクトによるもので、本当は墨のような黒色であることを、隼はあとから知ったのだ。
「茶ァ飲むか」
「飲む」
突っ伏した腕に当たって眼鏡が歪まないかと隼は思うがそこまで口うるさくする気はない。気に入った人間には意外と甲斐甲斐しい彼は、薬缶を一口しかないコンロの火にかけた。沸くのを待つ間に、気付いたら増えていた彼女用のマグカップと自分用の湯飲みを取り出す。茶葉はあと少ししかなかった。買い足さねえとな、と心に留めておく。
「入ったぞ」
「ん、ありがと」
もそもそ顔だけ上げて、彼女は隼と目を合わせて礼を言う。本人はあまり気にかけていないが、威圧感からか彼に臆さずまっすぐ視線を向けてくる人間は少ない。ゼミの仲間たちと彼女は別であるが。
マグカップと湯飲みをおいて、彼女の向かい側に座る。見るとポンカンの皮が2つ3つ散乱していた。無論隼の食べたものではない。
「腹壊すぞ」
「大丈夫だもーん」
お構いなしに新しいものに手を付けているのを見て、隼は嘆息する。指先はまだそこまで黄色くなっていない。しかし彼女の聞き手の人差し指が鮮やかな青で染まっていた。しばらく残る塗料なのだろう。その色はターバンを巻いた少女の名画を連想させた。
「自分で持ってきたもん食ってんなら世話ねぇや」
彼はそう言いながら、ポケットに入りっぱなしのメモ帳とペンを取り出す。紙面に目を落とし、がしがしと書きつけるその顔を彼女は脳内でスケッチしている。

椪柑ぽんかんを剥く恋人の指に青(隼)
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