吸死

〆切前夜のことである。次の次の号のアイジャ飯はなんと巻頭カラーであり、つまるところそのカラーの色ラフからしてまったく決まらないのであった。カラーページだけ〆切がやや早いが、まだ「本当の〆切」じゃないことを経験上神在月は分かっている。その甘えもあって筆は遅々として進まないのであった。
神在月の筆が進まなければアシスタントたちも特に仕事はない。無人の作業部屋兼自宅で神在月がうんうん唸っていると、基本的に鍵をかけない玄関のドアが開いた音がした。一瞬クワバラかと思って神在月は身構える。しかし聞こえた「お邪魔します」の声に力を抜いた。それは恋人の声だった。一緒にがさがさとビニール袋の音もする。向こうの仕事帰り、たまにこうして差し入れをしてくれるのだ。
「ヨーグルト買ってきたよ」
神在月の分はプレーンで、彼女の分は最近気に入っているというみかんが入ったものだった。商品名に朝食と入っているがこれを彼女が夜食以外で食べているところを神在月は――夜型なもので――見たことがない。神様、と神在月は冷蔵庫にヨーグルトをしまう彼女の足元にひざまずく。〆切前の奇行としては大人しいほうだ、と彼女は笑って作業に戻るようにうながした。

「全部の色が百色ずつある……」
モニタの前で頭を抱える神在月に相槌を打ったり打たなかったりしながら彼女はブランケットにくるまって神在月の使う机の脇に腰かける。机の足を背もたれにして床に座っているのだ。別にアシスタントが誰もいないのだからちゃんと椅子に座ればいいのに、と神在月は思うが彼女曰く「アシスタントでもないし椅子に座るとモニタとか机の上の原稿が目に入りそうで嫌」とのことだった。一読者としてちゃんと創刊された雑誌で読みたいという理屈は同じオタクである神在月にも理解できる。それに言ってもどうせ聞き入れないだろうという悟りもあって好きにさせていた。
彼女は彼女で、誰かが作業している机の傍で自分も本を読んだり携帯をいじったりするのがわりと好きだった。実家でも年の離れた姉に、同じようなことをしていたからである。それでいうとこの時間は一種甘えているようなものだった。

どうにかこうにか、クワバラへ人道的な扱いを受けるほうの命乞いができるくらいの進捗までこぎつけた神在月は、奇声を上げながら肩を回した。半ば存在を忘れていたが、彼女は今の奇声にも気づかないくらい寝入ってしまっているようだった。座って眠っているのに、規則正しい呼吸をしている無防備な様に神在月は思わず笑みを浮かべてしまうが、とても自分の細腕では彼女を安全にベッドに運ぶことはできない。彼は心を鬼にして、彼女の肩を揺らした。
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