吸死

今日も、何の変哲もない水曜日であるはずだった。一コマ目の必修だけ受けて、図書館で必要な資料をコピーして。その後はクローズまでバイトをして、帰路についたところだ。住宅街の中の道は、深夜ほとんど人通りはない。いつもであれば。
人工であることを強調するような嘘寒い白さの街灯の光の下に、黒づくめの人影が立っているのが分かった。ズボンからコートから、帽子まで闇を切り取ったように真っ黒で、まるで都市伝説に出てくる怪人のようだ。
(いや、それはさすがに失礼か……)
失礼なイメージを振り払おうとしたが、それは失敗に終わった。なぜなら、その怪人の足元に誰かが倒れ伏しており、周りに点々と血のようなものが飛び散っていることに気が付いてしまったからだ。幸い向こうはまだこちらに気が付いていないようだった。来た道を戻って、できれば警察に通報したほうがよいだろう。頭では分かっているが、震えた足や引けた腰がスムーズに動かない。にわかに滲んだ汗で、握りしめていたスマホが手から滑り落ちた。がつん、とアスファルトに激突する物音で怪人が振り返った。そこで初めて、その手に日本刀のようなものが光っていることに気が付いた。しかも、赤く濡れている。その足元に倒れている人の血だろうか。次にあの刀の犠牲になるのは――。恐怖で舌が喉に貼りつき、咄嗟に悲鳴を上げることも出来ず、一歩後ずさりするしかできなかった。怪人は自分に目撃されても焦った様子はなかった。落ち着いた様子で、刀を振りかぶり、こちらに向けてまっすぐに投擲した。反射的に閉じた瞼の裏に走馬灯が流れ――。
金属がきしんだような大きなうめき声が自分の背後から聞こえて、恐る恐る目を開けて振り向いた。すると、自分と同じくらい大きな蜘蛛――ただし手足が人間の腕の――に刀が突き刺さっていた。
「お疲れさん」
今このスプラッタホラーみたいな絵面に似つかわしくない、緊張感のない挨拶をされた。完全に腰を抜かして座り込んだ自分を、近づいてきた黒い影は見下ろしている。帽子のつばを上げて、にやりと微笑んだその顔には見覚えがあった。
「み、三木さん……」
「今日クローズまでだったんだっけ? 気を付けたほうがいいよ、この街、こういう人通りのないとこにはすぐ下等吸血鬼が出たりするから」
「……吸血鬼なんですか、この……蜘蛛……?」
そうだよ、とその人はバイト先で分からないことを訊いたときと同じような調子で答え、まだびくびくと動いているその化け物を踏みつけて刀を引き抜いた。吹き出す体液をまともに被っているが、気にした様子はないようだった。だから黒い服なのか、と納得をする。新入りの自分の横で、接客方法を教えてもらったときと態度が変わっていないのが逆に恐ろしかった。良いとはいえない目つきを細めた三木さんは、こちらの困惑にやっと気が付いたようだった。頬にも飛んだ赤茶色の体液を袖で拭って、よっこいしょと彼は屈んだ。そして座り込んだままの自分に目線を合わせてくれる。
「あー……退治人もやってるんだよね。実は」
「掛け持ちでってことですか」
そうそう、と彼はへらりと笑う。
「じゃあ、あそこで倒れてるのも」
「あれは高等吸血鬼だからちょっと厄介だったな」
厄介という割には、三木さんは涼しい顔のままだしよく見ると街灯の下の人影は完全に拘束されているようだった。日常的に顔を合わせている人が、一気に得体のしれない存在に思えて、背筋がゾクリと冷える。
自分の地元は精々が吸血野菜が稀に出るくらいだったから、こんなに巨大な下等吸血鬼も高等吸血鬼も見るのは初めてだった。独り暮らしを始めて、やっと慣れてきたと思った街の新たな一面を目の当たりにして、戸惑っていると三木さんが手を差し出してきた。ぐい、と強い力で引き上げられる。その手がかさついているのが、むしろ彼が人間であることの証拠のように感じられた。
「他の皆には内緒ね。色々と面倒だから」
「山田さんにもですか」
山田さんとは、三木さんと自分以外の唯一の男性スタッフである。店長も他のスタッフも皆女性なので、我々男三人で仲良くやっていきましょうねという誓いを立てたのをよく覚えている。三木さんはあっさりと「内緒」と人差し指を彼の唇にあてて答えた。遠くからサイレンが聞こえる。どうやらここに近付いているようだった。
「気を付けて帰りなよ」
また明日ね、と三木さんは手を振った。確かに明日はシフトが一緒の日である。はい、とだけどうにか返して、VRCと書かれた車両とすれ違うようにして自分はその場を去った。
アパートに帰って、しっかりと戸締りをしてやっと大きく息を吐いた。シュールなくせにやけに現実味がある夢のようにも感じられたが、落としたときにひび割れたスマホの画面が現実であることを突き付けていた。
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