吸死
家には私が小学生の頃にやってきた柴犬がいる。名前はトラだ。母が昔飼っていた犬の名前を受け継いでいる。今でこそ仕事が立て込んでしまっており弟にその役目は受け継がれたが、トラの散歩はもっぱら私の役割だった。川べりを散歩コースにしている人は私達の他にも多く、なんとなく顔なじみができてくる。今はそのメンバーも入れ替わっているのだろう。とにかく、見知った顔の人にはなんとなく会釈したりしていたのだ。犬を連れている者同士、会釈されたら返すしその逆もあった。ただひとりを除いては。
学生服を着ていたから、当時小学生の私よりいくらか年上だったと思う。ひょろりとした背を丸めて、飼い犬だけを見ている男の子がいた。視線を落としていたから、そもそも私に気がついていたかも分からない。飼い主のその陰気さとは裏腹に、犬のほうは耳をぴんと立てちぎれんばかりにしっぽを振っていた。飼い主の方も満更でもないらしく、犬の名前を呼ぶ声は柔らかかった。いつの間にか犬も男の子もぱったり見なくなったけど。あの犬の名前はなんだったっけ。
吸血鬼たちにとっての深夜三時は活動時間のピークである。しかしそんな吸血鬼たちを相手にしていても人間である自分たちにとって深夜三時は自宅のベッドなり布団でぐっすり眠っていてしかるべきだ。最後に家に帰ったのは昨日だったか一昨日だったか曖昧なのだが。クッションが死んでいるオフィスチェアから立ち上がって背伸びをすると全身の関節がバキバキ鳴った。窓から外を見下ろすと、鶴見川は闇に沈んでいる。たまにある静かな夜だ。
捗らない実験。年度末で渋滞している事務作業。やりたいことしかやらない上司。カズラさんが毎日のように上司もといヨモツザカ所長をどついているがそれがあってもこのざまなのだ。まぁ元気さえあれば私も別にそれぞれの作業は苦ではない。それにやりたいことしかやらない無茶苦茶な上司でもまぁ……実験生物逃したりして退治人や吸対の皆さんに死ぬほど迷惑をかけていても……悔しいことに嫌いになりきれないのだ。完全に嫌いになっていたらこんな職場もう辞めている。
実験バカというよりもマッドサイエンティストに近い彼のことを最初は同じ人間なのだと思っていなかったのだが一度、新しい実験体が運び込まれて殺人的に忙しかった際に急に休むのを許可してくれたことがある。あれはトラが急に体調を崩したときだ。突っぱねられても無理やり休むつもりだったが、あっさり受け入れられて拍子抜けしたのを覚えている。少し前、犬が出前してくれるサービスを毎日のように利用して我々に無理やり蕎麦を毎日食べさせてカズラさんに怒られていたから、ペットに理解があるというより犬至上主義の人間らしいということに気がついた。その瞬間の感情に名前をつけるならきっとギャップ萌えとかになるのだろう。マイナスの印象からプラスに転んだほうが振り幅は大きい。その振り幅でだんだん頭の中がバグってしまったようだった。気付くとヨモツザカ所長のことを目で追っている。きっとこんな閉鎖空間で遅くまで仕事をしているせいだ。分けてもらったドーナツがもったいなくてなかなか食べられないのも(逡巡していたら不機嫌な顔をされたので慌てて食べた)。
さすがに始業まで寝るか、と真っ暗な仮眠室を手さぐりで進み、開いていそうな布団を探す。掛け布団をめくるのすら面倒で布団に倒れ込んだら、ぐえ! というカエルの潰れたような音がした。布団にしては硬いぐにゃぐにゃした感触がして、おそるおそる中を確かめるとあの少しくすんだ水の色をした髪の毛が見えた。大声を出さなかったのが奇跡だ。そも所長が仮眠室にいるのも天変地異に近い。カズラさんか誰かに無理やり叩き込まれたのかもしれないが。ゴメンナサイと早口で謝り他へ移動しようとしたが、がしりと所長に腕を掴まれた。
「他の布団も先客がいるぞ」
マジですか、とめまいがしたのは状況のせいか疲労のせいか。もういっそ相手がまだ起きているところに潜り込むのが一番マシなのではないか。そう結論づけて所長の横に潜り込む。向こうが痩せているとはいえ、さすがに大人ふたりがひとつの布団に入ったらぎゅうぎゅうだ。思ったよりも向こうの体温が伝わってくる。低血圧で体温も低そうなのに、と思ったが向こうも眠いのかもしれなかった。家で寝ているときはたまにトラが潜り込んでくるが、その温かさを連想させて瞼が余計に重くなる。所長も体力が限界だったのか、抗議は降ってこなかった。
もう少し体制を整えようと身じろぎをすると、頭を撫でられる感触があった。
「――コロ、また布団に入ってきたのか」
その声色は、不機嫌と不遜が服を着て歩いているようないつものヨモツザカ所長からは信じられないくらい柔らかいものだった。所長も犬を飼っているのだろうか。起きたときに覚えていたら訊いてみようかな、と思いながら私も目を閉じた。どこかで聞いた名前な気もするが、よくある名前だから別におかしくはない。
数時間後、起こしに来てくれたカズラさんに所長共々説教されたのでそんなことはしばらく頭からすっぽ抜けてしまっていた。
学生服を着ていたから、当時小学生の私よりいくらか年上だったと思う。ひょろりとした背を丸めて、飼い犬だけを見ている男の子がいた。視線を落としていたから、そもそも私に気がついていたかも分からない。飼い主のその陰気さとは裏腹に、犬のほうは耳をぴんと立てちぎれんばかりにしっぽを振っていた。飼い主の方も満更でもないらしく、犬の名前を呼ぶ声は柔らかかった。いつの間にか犬も男の子もぱったり見なくなったけど。あの犬の名前はなんだったっけ。
吸血鬼たちにとっての深夜三時は活動時間のピークである。しかしそんな吸血鬼たちを相手にしていても人間である自分たちにとって深夜三時は自宅のベッドなり布団でぐっすり眠っていてしかるべきだ。最後に家に帰ったのは昨日だったか一昨日だったか曖昧なのだが。クッションが死んでいるオフィスチェアから立ち上がって背伸びをすると全身の関節がバキバキ鳴った。窓から外を見下ろすと、鶴見川は闇に沈んでいる。たまにある静かな夜だ。
捗らない実験。年度末で渋滞している事務作業。やりたいことしかやらない上司。カズラさんが毎日のように上司もといヨモツザカ所長をどついているがそれがあってもこのざまなのだ。まぁ元気さえあれば私も別にそれぞれの作業は苦ではない。それにやりたいことしかやらない無茶苦茶な上司でもまぁ……実験生物逃したりして退治人や吸対の皆さんに死ぬほど迷惑をかけていても……悔しいことに嫌いになりきれないのだ。完全に嫌いになっていたらこんな職場もう辞めている。
実験バカというよりもマッドサイエンティストに近い彼のことを最初は同じ人間なのだと思っていなかったのだが一度、新しい実験体が運び込まれて殺人的に忙しかった際に急に休むのを許可してくれたことがある。あれはトラが急に体調を崩したときだ。突っぱねられても無理やり休むつもりだったが、あっさり受け入れられて拍子抜けしたのを覚えている。少し前、犬が出前してくれるサービスを毎日のように利用して我々に無理やり蕎麦を毎日食べさせてカズラさんに怒られていたから、ペットに理解があるというより犬至上主義の人間らしいということに気がついた。その瞬間の感情に名前をつけるならきっとギャップ萌えとかになるのだろう。マイナスの印象からプラスに転んだほうが振り幅は大きい。その振り幅でだんだん頭の中がバグってしまったようだった。気付くとヨモツザカ所長のことを目で追っている。きっとこんな閉鎖空間で遅くまで仕事をしているせいだ。分けてもらったドーナツがもったいなくてなかなか食べられないのも(逡巡していたら不機嫌な顔をされたので慌てて食べた)。
さすがに始業まで寝るか、と真っ暗な仮眠室を手さぐりで進み、開いていそうな布団を探す。掛け布団をめくるのすら面倒で布団に倒れ込んだら、ぐえ! というカエルの潰れたような音がした。布団にしては硬いぐにゃぐにゃした感触がして、おそるおそる中を確かめるとあの少しくすんだ水の色をした髪の毛が見えた。大声を出さなかったのが奇跡だ。そも所長が仮眠室にいるのも天変地異に近い。カズラさんか誰かに無理やり叩き込まれたのかもしれないが。ゴメンナサイと早口で謝り他へ移動しようとしたが、がしりと所長に腕を掴まれた。
「他の布団も先客がいるぞ」
マジですか、とめまいがしたのは状況のせいか疲労のせいか。もういっそ相手がまだ起きているところに潜り込むのが一番マシなのではないか。そう結論づけて所長の横に潜り込む。向こうが痩せているとはいえ、さすがに大人ふたりがひとつの布団に入ったらぎゅうぎゅうだ。思ったよりも向こうの体温が伝わってくる。低血圧で体温も低そうなのに、と思ったが向こうも眠いのかもしれなかった。家で寝ているときはたまにトラが潜り込んでくるが、その温かさを連想させて瞼が余計に重くなる。所長も体力が限界だったのか、抗議は降ってこなかった。
もう少し体制を整えようと身じろぎをすると、頭を撫でられる感触があった。
「――コロ、また布団に入ってきたのか」
その声色は、不機嫌と不遜が服を着て歩いているようないつものヨモツザカ所長からは信じられないくらい柔らかいものだった。所長も犬を飼っているのだろうか。起きたときに覚えていたら訊いてみようかな、と思いながら私も目を閉じた。どこかで聞いた名前な気もするが、よくある名前だから別におかしくはない。
数時間後、起こしに来てくれたカズラさんに所長共々説教されたのでそんなことはしばらく頭からすっぽ抜けてしまっていた。
