吸死
連載が長く続くと、パーティで花束をもらえるというのは偉大な先達の話(あとがきやエッセイ)で知っていたものの、まさか自分がもらえるとは。信じがたい気持ちでふわふわと帰宅した神在月は、帰宅してふと途方にくれた。花を活ける花瓶なんてものはあるわけなかったからだ。
最近になってヘルプからレギュラーとなったアシスタントの彼女は、形式的に扉をノックしてから開けた。鍵がかかっていないことに慣れたからだ。気がついているときは足音で気がついているらしい。
「お疲れ様でーす」
入ってすぐにある台所は、いつ見ても使った食器と洗われた食器が混在している。だが今日は少し様子が違った。かすかな花の匂いを感じて、彼女は流し台を覗き込む。水の張られた銀色のボウルに、無造作に花束が活けられていた。紫や青を基調とした中に、カスミソウの白さが星のように瞬いている。薄暗い台所で、ボウルの側面や水面に花の色が反射して、そこだけ光っているようだった。
「あぁ、それはあの、連載一周年で……」
作業部屋へ入ってこない彼女を不思議に思ったのか、神在月が玄関のほうへやってきた。
「あっ、お、おめでとうございます!」
言わせたみたいだ、と神在月の顔はやや引きつるが、どうにか礼を返す。
「それでその、うち花瓶がなくて……」
いやまさか揃えるだけ揃えて全然自炊してないから過ぎた産物と化してるボウルが役に立つとは、と神在月は一息に言葉を重ねる。言い切ったあとでまたやってしまったと頭を抱えることになるのだが。
「明日でいいなら、花瓶買ってきますよ」
「いいんですか!?」
神在月の大声を修羅場以外であまり聞くことがない彼女は、やや驚きながらも頷いた。
「前バイトしてた雑貨屋のでよければ」
「いやもうほんと任せますお金は出すので……」
わかりました、と引き受けながら彼女は仕事部屋へ行く前にもう一度花束へ目をやった。連載記念という事情を聞くと、なるほどこの配色はきっとアイジャ飯の舞台となる宇宙を表したものなのだろう。彼女の脳内には、かつての職場の一角が浮かんでいる。まだ扱いがあればいいのだが。
翌日の昼下がり、彼女は花瓶の入った紙袋を下げて仕事場へやってきた。一応花を活ける前に見せておこう、と思い神在月の丸まった背中に話しかける。ペン入れの現実逃避にネームノートを開いていた彼は、ゴメンナサイ!と叫びながら椅子から飛び上がった。ままあることなのでクワバラさんじゃないです!と彼女も返答する。
「花瓶、お見せしておこうと思って」
「……あ、ありがとうございます」
神在月の脳内から花束のことは抜けかけているようだった。予想通り自分が活けることになるだろう。母親から園芸用のハサミを借りてきてよかった、と彼女は思う。
取り出された深い青の、少し背の高い花瓶を神在月は眺める。よく見るとガラスの中に気泡が輝いていた。
「シンプルなのと迷ったんですが、やっぱりアイジャ飯は宇宙が舞台なので星空とかちょっと宇宙っぽいのがいいかなって……」
選んだ理由を話しているうちに、自分でもファンからの贈り物にしか思えなくなったため彼女の声は小さくなる。もちろんファンではあるのだが、面と向かって説明するのが急に恥ずかしくなったからだ。作品について、面と向かってクワバラ以外に言及される機会のあまりない神在月もつられて赤面する。
「いやほんとありがとう……全然こういうの買ってこなかったから選んでもらって助かるよ」
半ば家出のようにして飛び出したのち、資料や、フィギュアやグッズなんかは増えていったがそういう当たり前のような生活雑貨がなかったのだ。
「いえ、こちらこそ光栄です」
勢いで答えてしまったその言葉には、アシスタント先の漫画家への敬意以外も含まれている。自分の選んだものが神在月の家にあるのは、またそれを神在月が良しとしているのは、少なくとも何らかの好意が介在しているはずだ。花瓶代を払おうと財布を探しかける神在月を彼女は押しとどめる。
「いえ、これは私からの連載一周年記念にさせてください」
彼女が選んだ花瓶に、彼女が活けた花はしばらく神在月の仕事机に置かれていた。それを見て、経緯を一通り聞いたクワバラは発破をかける。
「ならまた記念の花束もらえるよう頑張らなアカンな」
最近になってヘルプからレギュラーとなったアシスタントの彼女は、形式的に扉をノックしてから開けた。鍵がかかっていないことに慣れたからだ。気がついているときは足音で気がついているらしい。
「お疲れ様でーす」
入ってすぐにある台所は、いつ見ても使った食器と洗われた食器が混在している。だが今日は少し様子が違った。かすかな花の匂いを感じて、彼女は流し台を覗き込む。水の張られた銀色のボウルに、無造作に花束が活けられていた。紫や青を基調とした中に、カスミソウの白さが星のように瞬いている。薄暗い台所で、ボウルの側面や水面に花の色が反射して、そこだけ光っているようだった。
「あぁ、それはあの、連載一周年で……」
作業部屋へ入ってこない彼女を不思議に思ったのか、神在月が玄関のほうへやってきた。
「あっ、お、おめでとうございます!」
言わせたみたいだ、と神在月の顔はやや引きつるが、どうにか礼を返す。
「それでその、うち花瓶がなくて……」
いやまさか揃えるだけ揃えて全然自炊してないから過ぎた産物と化してるボウルが役に立つとは、と神在月は一息に言葉を重ねる。言い切ったあとでまたやってしまったと頭を抱えることになるのだが。
「明日でいいなら、花瓶買ってきますよ」
「いいんですか!?」
神在月の大声を修羅場以外であまり聞くことがない彼女は、やや驚きながらも頷いた。
「前バイトしてた雑貨屋のでよければ」
「いやもうほんと任せますお金は出すので……」
わかりました、と引き受けながら彼女は仕事部屋へ行く前にもう一度花束へ目をやった。連載記念という事情を聞くと、なるほどこの配色はきっとアイジャ飯の舞台となる宇宙を表したものなのだろう。彼女の脳内には、かつての職場の一角が浮かんでいる。まだ扱いがあればいいのだが。
翌日の昼下がり、彼女は花瓶の入った紙袋を下げて仕事場へやってきた。一応花を活ける前に見せておこう、と思い神在月の丸まった背中に話しかける。ペン入れの現実逃避にネームノートを開いていた彼は、ゴメンナサイ!と叫びながら椅子から飛び上がった。ままあることなのでクワバラさんじゃないです!と彼女も返答する。
「花瓶、お見せしておこうと思って」
「……あ、ありがとうございます」
神在月の脳内から花束のことは抜けかけているようだった。予想通り自分が活けることになるだろう。母親から園芸用のハサミを借りてきてよかった、と彼女は思う。
取り出された深い青の、少し背の高い花瓶を神在月は眺める。よく見るとガラスの中に気泡が輝いていた。
「シンプルなのと迷ったんですが、やっぱりアイジャ飯は宇宙が舞台なので星空とかちょっと宇宙っぽいのがいいかなって……」
選んだ理由を話しているうちに、自分でもファンからの贈り物にしか思えなくなったため彼女の声は小さくなる。もちろんファンではあるのだが、面と向かって説明するのが急に恥ずかしくなったからだ。作品について、面と向かってクワバラ以外に言及される機会のあまりない神在月もつられて赤面する。
「いやほんとありがとう……全然こういうの買ってこなかったから選んでもらって助かるよ」
半ば家出のようにして飛び出したのち、資料や、フィギュアやグッズなんかは増えていったがそういう当たり前のような生活雑貨がなかったのだ。
「いえ、こちらこそ光栄です」
勢いで答えてしまったその言葉には、アシスタント先の漫画家への敬意以外も含まれている。自分の選んだものが神在月の家にあるのは、またそれを神在月が良しとしているのは、少なくとも何らかの好意が介在しているはずだ。花瓶代を払おうと財布を探しかける神在月を彼女は押しとどめる。
「いえ、これは私からの連載一周年記念にさせてください」
彼女が選んだ花瓶に、彼女が活けた花はしばらく神在月の仕事机に置かれていた。それを見て、経緯を一通り聞いたクワバラは発破をかける。
「ならまた記念の花束もらえるよう頑張らなアカンな」
