吸死
その人は、バイトとしては一番の年長であった。配属されて間もないという店長は「僕よりも頼りになるよ」と冗談めかしてその人を紹介した。背が高く、親しみやすくデザインされたファミレスの制服があまり似合わない人だった。三木というその人は、下の名前のたおやかさとは裏腹に、背が高く鋭い目つきの男性だった。その切れ長の目をさらに細めて、彼はよろしくねと私に挨拶をした。相手に威圧感を与えないような笑顔の作り方を知っている人だった。
バイトも正社員もホール担当は女性ばかりだ。社員の一人は若くて(と言っても大学生の私よりも上であるが)屈託がなく人の些細な情報を聞き出すのが上手かった。ひとつ一つはまぁ彼女に言っても、また広まっても大事ないものではあるがそれをつなぎ合わせると何となくその人の性格や性質が見えてくるものである。その中でも三木さんはプライベートのにおいがしない人だった。また、他と比べて年が離れているからだろう、人付き合いもそつがなく特に仲のいい相手も目立って相性の悪い相手もいないようだった。私たちのような学生バイトに対して「みんな年の離れた妹みたいなもの」と形容していた。それはキッチンに配属された社員の若い男の子が、私と同じ年の学生バイトに向けて言う「妹みたいに思ってるよ」とは違う響きを持っていた。有体に言えば性欲のにおいがしなかったのだ。まぁ具体的な年は知らないが彼は三十は超えているだろう。一回り近く年の離れた小娘たちと主婦ばかりの職場である。それは当たり前のように思えた。
結局、大学に行っていた四年間あのファミレスで働いていたが三木さんと二人きりは愚か直接話したことも数えるほどしかないような気がする。休憩時間が一緒になっても彼は余計な世間話はほとんどしない質の人だったし、どうやら他にもバイトを掛け持ちしているらしく飲み会などにもほとんど顔を出さなかった。だから私は彼と休憩時間やシフトがかぶっても、彼の働く割には荒れていない――だけど皮膚の固そうな――指先や鼻筋の通った横顔をただ眺めていた。
分かっていたことだが私や私と同じ学年の子たちの卒業祝い兼送別会に三木さんは来なかった。来たとしても別に何をするでもなかったが。私と同じ大学の子が社員の人とテーブルの下でこっそり手を繋いでいるのが見えた。最後の日は三木さんと同じシフトだ。それだけを考えて私は氷が溶けて薄くなったカシスオレンジを飲み干した。
「送別会終わったのにまだシフトが入ってるの?」
珍しく三木さんのほうから話しかけてきたから、私は顔を上げた。クローズ作業を終えて私と三木さん以外誰もいない(裏に社員はいるが)店内のことである。
「えぇ、どうせ暇ですし。あと、あの、三木さんにお会いしたかったので」
笑ってさり気なく言おうと思ったが、うまく表情筋も唇も動かせなかった。このままだと聞かなかったことにされるだろう、という嫌な確信だけがあった。裏まで響かないでくれ、と私は祈りながら声を張る。
「あの、私、三木さんのこと好きです」
言ってしまったら感情が決壊して泣くかと思ったが、緊張のあまり逆に三木さんの顔がよく見えた。四歩先くらいの距離に立っている彼の困ったような顔を私は初めて見た気がする。
「気持ちは嬉しいけど、でも俺は自分のことで手いっぱいだから。ごめんね」
いえ、と私は言いかけた。しかし用意していた当たり障りのない言葉は何一つ言えなかった。代わりに口から出たもののほうが本音だ。声は震えなかった。
「脈がないのは分かっていたんです。私が三木さんのことを好きなことも、たぶんバレてるだろうなって。でも言いたかったんです。ちゃんと振られて、傷つけられたかった。多分三木さんは私のことなんて沢山いた後輩のひとりとしてすぐ忘れちゃうかもしれないけど、しばらくは私を傷つけたこと、ちゃんと覚えていてくださいね」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこれか、と私は彼の表情を見て思った。会える最後の日に見たことない一面を見てしまうと惜しい気持ちが増してしまう。でもすぐにいつもの、客や私たちに向けるのと変わりない余裕をもった薄い笑みに戻った。
「そうか、だからそんなに人を刺し殺しそうな目をしていたんだね」
人を刺し殺しそうな相手と向き合ったことがあるのか。それともただの比喩表現なのか。本当のところは私には分からない。けれどもし本当に向き合ったことがあるのなら、彼曰く人を殺しそうな目をした私から目をそらさない彼は、ここのバイト以外の時をどう過ごしているのだろう。結局何も知ることができなかった人を私は好きになったのだ。片思いは誰にも迷惑をかけないというが、それではあまりにも寂しすぎる。
バイトも正社員もホール担当は女性ばかりだ。社員の一人は若くて(と言っても大学生の私よりも上であるが)屈託がなく人の些細な情報を聞き出すのが上手かった。ひとつ一つはまぁ彼女に言っても、また広まっても大事ないものではあるがそれをつなぎ合わせると何となくその人の性格や性質が見えてくるものである。その中でも三木さんはプライベートのにおいがしない人だった。また、他と比べて年が離れているからだろう、人付き合いもそつがなく特に仲のいい相手も目立って相性の悪い相手もいないようだった。私たちのような学生バイトに対して「みんな年の離れた妹みたいなもの」と形容していた。それはキッチンに配属された社員の若い男の子が、私と同じ年の学生バイトに向けて言う「妹みたいに思ってるよ」とは違う響きを持っていた。有体に言えば性欲のにおいがしなかったのだ。まぁ具体的な年は知らないが彼は三十は超えているだろう。一回り近く年の離れた小娘たちと主婦ばかりの職場である。それは当たり前のように思えた。
結局、大学に行っていた四年間あのファミレスで働いていたが三木さんと二人きりは愚か直接話したことも数えるほどしかないような気がする。休憩時間が一緒になっても彼は余計な世間話はほとんどしない質の人だったし、どうやら他にもバイトを掛け持ちしているらしく飲み会などにもほとんど顔を出さなかった。だから私は彼と休憩時間やシフトがかぶっても、彼の働く割には荒れていない――だけど皮膚の固そうな――指先や鼻筋の通った横顔をただ眺めていた。
分かっていたことだが私や私と同じ学年の子たちの卒業祝い兼送別会に三木さんは来なかった。来たとしても別に何をするでもなかったが。私と同じ大学の子が社員の人とテーブルの下でこっそり手を繋いでいるのが見えた。最後の日は三木さんと同じシフトだ。それだけを考えて私は氷が溶けて薄くなったカシスオレンジを飲み干した。
「送別会終わったのにまだシフトが入ってるの?」
珍しく三木さんのほうから話しかけてきたから、私は顔を上げた。クローズ作業を終えて私と三木さん以外誰もいない(裏に社員はいるが)店内のことである。
「えぇ、どうせ暇ですし。あと、あの、三木さんにお会いしたかったので」
笑ってさり気なく言おうと思ったが、うまく表情筋も唇も動かせなかった。このままだと聞かなかったことにされるだろう、という嫌な確信だけがあった。裏まで響かないでくれ、と私は祈りながら声を張る。
「あの、私、三木さんのこと好きです」
言ってしまったら感情が決壊して泣くかと思ったが、緊張のあまり逆に三木さんの顔がよく見えた。四歩先くらいの距離に立っている彼の困ったような顔を私は初めて見た気がする。
「気持ちは嬉しいけど、でも俺は自分のことで手いっぱいだから。ごめんね」
いえ、と私は言いかけた。しかし用意していた当たり障りのない言葉は何一つ言えなかった。代わりに口から出たもののほうが本音だ。声は震えなかった。
「脈がないのは分かっていたんです。私が三木さんのことを好きなことも、たぶんバレてるだろうなって。でも言いたかったんです。ちゃんと振られて、傷つけられたかった。多分三木さんは私のことなんて沢山いた後輩のひとりとしてすぐ忘れちゃうかもしれないけど、しばらくは私を傷つけたこと、ちゃんと覚えていてくださいね」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこれか、と私は彼の表情を見て思った。会える最後の日に見たことない一面を見てしまうと惜しい気持ちが増してしまう。でもすぐにいつもの、客や私たちに向けるのと変わりない余裕をもった薄い笑みに戻った。
「そうか、だからそんなに人を刺し殺しそうな目をしていたんだね」
人を刺し殺しそうな相手と向き合ったことがあるのか。それともただの比喩表現なのか。本当のところは私には分からない。けれどもし本当に向き合ったことがあるのなら、彼曰く人を殺しそうな目をした私から目をそらさない彼は、ここのバイト以外の時をどう過ごしているのだろう。結局何も知ることができなかった人を私は好きになったのだ。片思いは誰にも迷惑をかけないというが、それではあまりにも寂しすぎる。
