漫画
抽斗の中にしまい込んだ行き場のない、とはいえ捨てるのも躊躇われるようながらくた。モグラにもそのような感情はある。自分が中途半端な立場そのものなのに、皮肉なものだ、と彼は自嘲する。すっかりくたびれた畳に寝そべって、10年以上前の少年漫画雑誌のバックナンバーを読んでいる娘にモグラは目をやった。ある程度まで読み進めたのだろう、彼女は顔を上げる。
「モグラぁ、これ続きないの」
「その辺に無きゃあ無いな」
100円ショップかよ、と呟く口調は乱暴だった。彼女の祖母はもっとのんびりとした娘だった。似ていないところを発見するたびにモグラは安心する。かつて戦地に向かう自分を見送ったその人と、目の前にいる人間は違う。それがはっきりと感じられるからだ。モグラは彼女から目をそらして、窓の外に目をやった。空の青さと流れる雲ばかりは、いつの時代だって変わらない。モグラにはそう思えた。
その娘――彼女ではなく、彼女の祖母のことだ――もまた、この路地裏にほど近い場所に生まれ育った。そして、此岸のものと彼岸のものの区別もつかないような幼さでここを、モグラを見つけたのだ。遊びといえば戦争ごっこが盛んだったその時期に、一昔二昔前の児童雑誌や玩具は新鮮だったのだろう。その中にはモグラが内職で作りかけたものもあった。ニスも塗らない白木のコマを回して笑う、前歯が抜けたその顔を彼は未だに覚えている。
「お兄さんも兵隊さんになるんだね」
召集令状とにらめっこしているモグラに、少女は言った。少し寂しそうな声ではあるが、それでも仕方ないと納得しているようだった。せいぜいが転勤になる相手を見送るくらいの。それに自分はどう返しただろうか。剣呑な声色でなかったろうか。モグラは思い出せない。ただ、歯も生え変わりきらないようなその子どもを哀れに思ったことは確かだ。自分は死ぬより痛くてつらい目に遭っても死ぬことはないが、眼の前の子どもはそうではない。爆風に吹き飛ばされた金属の破片一つ脳天に刺さっただけで簡単に死んでしまう。そうはなってほしくない。けれど、子どもの個人的な付き合いに使える連絡手段などない時代の話だ。どちらにせよきっと今生の別れになるだろう。また、生き延びたらさっさと自分のことなど忘れてほしいとも思った。懐いた人間を笑顔で死地に送り出した思い出なぞ、ないほうがいいのだから。
それから何十年も経ってモグラの元に小学生の彼女が現れたとき、モグラは白昼夢でも見ているのかと思った。前歯が抜けているところさえ、あの子どもにそっくりだったからだ。よくよく聞けば、あの子どもが生き延びて母になり祖母になった結果が目の前に立ち現れた存在だった。赤いランドセルをかちゃかちゃと揺らして部屋中を見て回る彼女は、すぐにセーラー服を身にまとう年になり、それが大人びたブレザーになり、じきにそれも卒業した。棒切れのような手足がすらりと伸び、化粧を覚えていく彼女を見ていると、数十年前のあの子どもの成長の続きを見ているような錯覚に陥る。実際は、モグラが徴兵されてからすぐに縁故疎開したまま、その遠方の親戚に引き取られたらしい。これはつい最近孫娘の方から聞いた話だ。孫娘が髪を染めたり派手な化粧をすればするほど、彼女の祖母の面影を感じにくくなるからモグラは安堵する。しかし、最近はそれが相手にばれているのだろう。明るかった髪の色は元の色になり、化粧も「飽きた」という口実で薄くなった。馴染みの子ども以上の情を抱きたくはなかったが、それは後ろめたさを感じるからで、その罪悪感の対象は彼女自身ではなくその祖母に対してだった。幼い頃から見ている人間を、その理由で撥ねつけられない自分の弱さをモグラは嫌悪する。しかし、目の前の人間に好意をぶつけられて割り切れるほど彼は冷徹にはなれなかった。ただでさえ人付き合いには飢えているのだ。
うつぶせに寝転んでいる女の尻を見ないように、モグラは手元の木工品に目を落とす。暑くてまくり上げた脛に、ひやりとした感触があった。娘の素足が触れたのだ。モグラの骨ばった足を撫でつけるように彼女の足が動く。彼はふう、と煙と共にため息を吐いた。娘はもう漫画を読んではいなかった。分厚い雑誌越しにモグラを見る目はひどく無防備で、むしろそれが相手を挑発するような風情だった。
(どこでそういうのを覚えてくるんだか)
「こっちに選ばせるなよ」
わざと冷たく作った声で、モグラは彼女に話しかける。しかし娘はめげなかった。がばり、と起き上がった彼女はモグラに詰め寄る。
「私が選んでいいの?」
あっけにとられたモグラに娘は顔を近づけた。近くで見ると、やはり祖母と鼻筋が似ている。現実逃避的にモグラはそう思った。娘の唇がモグラのかさついた唇に触れる。勢い余って歯がぶつかったことを、モグラは愉快に思った。
(肝心の接吻は下手くそなのかよ)
しかし彼はすぐに後ろめたくなる。そのくらい幼い子どもに今、自分は手を出しているのだと実感したからだ。孫娘に手を出したとあっては、顔を合わせたら怒られるかもしれない。いや、孫娘の方から迫ってきたのだから勘弁してほしいものだが。モグラはそう考える。しかし、すべては無意味な想像だ。その当人はまだ健在で遠い街で暮らしているのだし、会いに行くつもりもなかったからだ。覚えていてほしいと思えないのは、相変わらずだった。
「モグラぁ、これ続きないの」
「その辺に無きゃあ無いな」
100円ショップかよ、と呟く口調は乱暴だった。彼女の祖母はもっとのんびりとした娘だった。似ていないところを発見するたびにモグラは安心する。かつて戦地に向かう自分を見送ったその人と、目の前にいる人間は違う。それがはっきりと感じられるからだ。モグラは彼女から目をそらして、窓の外に目をやった。空の青さと流れる雲ばかりは、いつの時代だって変わらない。モグラにはそう思えた。
その娘――彼女ではなく、彼女の祖母のことだ――もまた、この路地裏にほど近い場所に生まれ育った。そして、此岸のものと彼岸のものの区別もつかないような幼さでここを、モグラを見つけたのだ。遊びといえば戦争ごっこが盛んだったその時期に、一昔二昔前の児童雑誌や玩具は新鮮だったのだろう。その中にはモグラが内職で作りかけたものもあった。ニスも塗らない白木のコマを回して笑う、前歯が抜けたその顔を彼は未だに覚えている。
「お兄さんも兵隊さんになるんだね」
召集令状とにらめっこしているモグラに、少女は言った。少し寂しそうな声ではあるが、それでも仕方ないと納得しているようだった。せいぜいが転勤になる相手を見送るくらいの。それに自分はどう返しただろうか。剣呑な声色でなかったろうか。モグラは思い出せない。ただ、歯も生え変わりきらないようなその子どもを哀れに思ったことは確かだ。自分は死ぬより痛くてつらい目に遭っても死ぬことはないが、眼の前の子どもはそうではない。爆風に吹き飛ばされた金属の破片一つ脳天に刺さっただけで簡単に死んでしまう。そうはなってほしくない。けれど、子どもの個人的な付き合いに使える連絡手段などない時代の話だ。どちらにせよきっと今生の別れになるだろう。また、生き延びたらさっさと自分のことなど忘れてほしいとも思った。懐いた人間を笑顔で死地に送り出した思い出なぞ、ないほうがいいのだから。
それから何十年も経ってモグラの元に小学生の彼女が現れたとき、モグラは白昼夢でも見ているのかと思った。前歯が抜けているところさえ、あの子どもにそっくりだったからだ。よくよく聞けば、あの子どもが生き延びて母になり祖母になった結果が目の前に立ち現れた存在だった。赤いランドセルをかちゃかちゃと揺らして部屋中を見て回る彼女は、すぐにセーラー服を身にまとう年になり、それが大人びたブレザーになり、じきにそれも卒業した。棒切れのような手足がすらりと伸び、化粧を覚えていく彼女を見ていると、数十年前のあの子どもの成長の続きを見ているような錯覚に陥る。実際は、モグラが徴兵されてからすぐに縁故疎開したまま、その遠方の親戚に引き取られたらしい。これはつい最近孫娘の方から聞いた話だ。孫娘が髪を染めたり派手な化粧をすればするほど、彼女の祖母の面影を感じにくくなるからモグラは安堵する。しかし、最近はそれが相手にばれているのだろう。明るかった髪の色は元の色になり、化粧も「飽きた」という口実で薄くなった。馴染みの子ども以上の情を抱きたくはなかったが、それは後ろめたさを感じるからで、その罪悪感の対象は彼女自身ではなくその祖母に対してだった。幼い頃から見ている人間を、その理由で撥ねつけられない自分の弱さをモグラは嫌悪する。しかし、目の前の人間に好意をぶつけられて割り切れるほど彼は冷徹にはなれなかった。ただでさえ人付き合いには飢えているのだ。
うつぶせに寝転んでいる女の尻を見ないように、モグラは手元の木工品に目を落とす。暑くてまくり上げた脛に、ひやりとした感触があった。娘の素足が触れたのだ。モグラの骨ばった足を撫でつけるように彼女の足が動く。彼はふう、と煙と共にため息を吐いた。娘はもう漫画を読んではいなかった。分厚い雑誌越しにモグラを見る目はひどく無防備で、むしろそれが相手を挑発するような風情だった。
(どこでそういうのを覚えてくるんだか)
「こっちに選ばせるなよ」
わざと冷たく作った声で、モグラは彼女に話しかける。しかし娘はめげなかった。がばり、と起き上がった彼女はモグラに詰め寄る。
「私が選んでいいの?」
あっけにとられたモグラに娘は顔を近づけた。近くで見ると、やはり祖母と鼻筋が似ている。現実逃避的にモグラはそう思った。娘の唇がモグラのかさついた唇に触れる。勢い余って歯がぶつかったことを、モグラは愉快に思った。
(肝心の接吻は下手くそなのかよ)
しかし彼はすぐに後ろめたくなる。そのくらい幼い子どもに今、自分は手を出しているのだと実感したからだ。孫娘に手を出したとあっては、顔を合わせたら怒られるかもしれない。いや、孫娘の方から迫ってきたのだから勘弁してほしいものだが。モグラはそう考える。しかし、すべては無意味な想像だ。その当人はまだ健在で遠い街で暮らしているのだし、会いに行くつもりもなかったからだ。覚えていてほしいと思えないのは、相変わらずだった。
