吸死

「辻田さん!」
幽鬼のようにふらふらと夜道を歩いていたナギリを呼び止める声は底抜けに明るかった。自分を辻田と呼ぶ相手にろくな奴はいない。経験上分かってはいたが、無視しきれなかったときが面倒だ。ナギリは蛍光灯に引き寄せられる虫のように、呼び声のするほうへ向かった。
「こんばんは、いい夜ですね」
公園のベンチに座って足を投げ出しているのは、たしかナマエといったか。神在月が恐れるオータム書店の編集の一人だったように記憶している。一度、神在月の仕事場で見かけたのだ。いつものクワバラの代わりに来たんだったか。こいつはこいつで窓から平気で入ってくるようなやばい奴だったのを、ナギリは覚えている。
「俺はそう思わん」
嫌味を込めたつもりだったが、ナマエには伝わらなかったらしい。
「じゃあ今からでもいい夜にしないと」
ナマエは横に置いてあった白い紙箱をナギリに差し出した。中には色とりどりのフルーツタルトだのケーキだのが詰まっていた。
「………………どういうつもりだ」
今度はナマエがきょとんとした顔でナギリを見る。
「え、ケーキ食べましょうよ。どれか好きなの選んでいいですよ」
さも確定事項のように告げられて、ナギリの額に青筋が浮かんだ。
「辻田さんが選ばないんだったら先に一個もらっちゃお」
まずはこれ! とナマエはショートケーキを手掴みした。黒いスーツが汚れるのも厭わずにケーキを頬張る人間を、ナギリは異様に思う。あっという間にひとつ平らげたナマエは、指に着いた生クリームを舐めとる。
「どうしたんですか? 遠慮しないでくださいよ」
「遠慮なんぞしとらんわ!」
なら……とナマエは再び、ナギリの鼻先にケーキを突き付ける。その甘ったるい匂いに彼は気圧された。それを恥じるように、やけくそで一番手前にあるタルトを掴む。ベンチにどっかりと腰かけて、ナギリは硬いタルト生地を仏頂面で嚙み砕く。やたらとジューシーな黄緑のブドウを美味いと思った。うっかり唇の横についたカスタードクリームを舐めてしまう。舐めてしまった後で、ナマエが満足そうにこちらを見ていることに気が付いた。ナマエはすでに二個目を頬張っている。
「ケーキはね、いつだっておいしいんですよ」
食べかけのケーキの断面を見ながら、ナマエはそう言った。
「なんだ突然」
「明日、ベテランの作家さんのとこに初めて行くんですよ」
めちゃ緊張! とナマエは叫んだ。突然の大声にナギリはビクリと肩を震わせる。
「だからこう、元気出すために嬉しいものを食べようと思って」
行動の突飛さの割に、その動機はあまりにも凡庸で、むしろナギリには理解し難かった。自分の気持ちで食べたいものを選ぶことすら、ナギリの人生には馴染みのないことだ。まだケーキが残っている四角い紙箱に、彼は目を落とす。すると、ふいに蘇る記憶があった。
かつて襲った人間の一人が、これと同じような箱を持っていた。それは地面に落ちて、いとも容易く潰れた。ナギリにとって、ケーキは柔らかくて、取るに足らない、踏みにじりやすいものだった。ナギリの血色の悪い顔から、さらに血の気が引く。口の中に残っている甘さが、急に自分を苛んでいる気がしている。しかしその変化は白熱灯の強い光に照らされると、却って分かりにくかった。ナマエはナギリの様子に気付かない。呑気に二つ目のケーキを平らげて、彼に笑いかけた。
「いやあ、でも辻田さんに会えて嬉しいですよ。一緒にケーキも食べれたし。これで明日の用事も頑張れます」
自分と鉢合わせしただけで嬉しく思う人間が存在していたのか。ナギリは自分の心臓がざわざわと波打つのを感じた。それを嬉しいと思う権利は自分にはないような気がして、彼は自分の感情から努めて目を背けた。
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