吸死
体格がよかったり声が大きかったりする男性が昔から苦手だった。男の子の友達もいない。バイトと漫画のアシスタントをしているが、バイト先の雑貨屋は店員もお客さんも女性ばかりだしアシも今まで女性作家さんのところばかりだった。
「いやどーしてもキミしか空いてなくてな、男性の作家さんのとこにはあんまり行きたくないのも知っとるんやけど、この通り!」
両手を合わせて拝んできたのは、数少ない面識のある男性ことクワバラさんだった。いつも入っているアシスタントさんが急に帰省することになってしまったらしい。かくいう私も入るはずだった仕事が作家さんの体調不良でなくなってしまい、どうしようかと思っていたところだった。バイト先にはまだ連絡していないから都合は付けられる。この先できればプロアシ一本でやっていきたい自分としては、断る選択肢はさすがになかった。それに漫画家さんならそんなにマッチョな人は出てこないだろう、という目算もあったし。
はじめて降りた新横浜駅から少し離れたところに、先生の仕事場兼住居はあった。クワバラさんが呼び鈴を押す。反応はない。特に物音も聞こえてこない。
「留守ですかね」
私の呟きにクワバラさんは落ち着いた様子で、ちょっと待っててなと言った。ドアノブを握り、扉を開けようとしたがやはり留守なのか鍵がかかっているようだ。クワバラさんはそのままポケットから針金のようなものを取り出して、躊躇なく鍵穴に突っ込んだ。ほどなくしてガチャ、と音がしてクワバラさんは「邪魔するでー」と言いながらドアを開けて中に踏み入る。いいのか? ためらっているとクワバラさんに促されたので恐る恐る私も入室した。
「キャーーーーーッ!!」
絹を裂くような悲鳴が聞こえて、クワバラさんは私を咄嗟にその背中に隠す。でも私はクワバラさんに遮られる前にしっかりと見てしまった。
「やめてくださいよ、勝手に入ってくるの!」
水浴びを覗かれた乙女のように、大事なところを隠すポーズをとる彼――神在月シンジ先生は、全裸だった。
部屋の外で三分きっちり待たされたあと、服をちゃんと着た神在月先生と改めてご挨拶をした。一着一着を長いこと着続けているのだろう。くたくたになったシャツにこれまたくたくたのズボンを履いた彼は、丸い背中をもっと丸めて私に頭を下げた。柔らかくも頑固そうな癖っ毛がそれに合わせて動く。
「いやあのほんとお見苦しいところを見せてしまい……」
「だ、大丈夫ですよ。〆切前の漫画家さんなんて皆そんなもんですって」
クワバラさんの口が、まぁ……と言いたげに曲げられる。クワバラさんの前ではさすがにやってないけど、私が定期的にアシスタントしている某先生も「女性だけだから!」なんて、切羽詰まると裸に近いような格好をしていることがあるのだ。だから、一人でやってたら全裸にもなるかなあと私は思う。もしかしたら平気らしく振る舞う理由を適当にこじつけているだけなのかもしれない。いやでも、とまだ頭を下げる神在月先生の鎖骨が、よれよれな襟から覗く。私はさっき見てしまった先生の細くて生っ白い手足や筋肉が一切ついていない胸や少したるんだ腹を思い出してしまう。ごくり、と無意識に生唾を飲んでから気が付いた。よろしくおねがいしますと言った声は上ずってなかっただろうか。先生は安心したように眉を下げた。彼の一挙一動を追うたびに胸がどきどきと早くなる。もしかしなくても私は神在月先生のことを好きになってしまったようだった。
脳を焼くような暑さと、セミの声が反響している。今日は神在月先生のところで四度目のヘルプアシだ。駅から仕事場まで歩きながら、つらつら先生のことを考える。神在月先生と過ごす四度目の機会だ。私も先生も人見知りな性質(たち)だから、最低限の会話以外はほとんどしていない。もっと世間話とかできるようになりたい。まず一度目はあの初対面全裸の件があり、先生が委縮してしまったから淡々と仕事をしていくしかなかった。二度目は、私が何も考えずに「暑いですねえ」とカーディガンを脱ごうとしたら「あつ」まで声に出したところで先生が無言でエアコンの設定温度を下げた。下が薄い生地のノースリーブだったのが良くなかったのかもしれない。何も考えていなかったが、今度は私が目のやり場に困らせるところだったらしい。意識しすぎですよなんて言ったら先生が羞恥で死んじゃうんじゃないかと思って言えなかった。私のために下げてくれた温度を上げなおしてもらうわけにもいかず、大人しくカーディガンを着こんで、緊張感の漂う部屋で作業をした。
三度目は、ドアを開けたら女性用チャイナ服を着た先生に迎えられた。あまりにも先生が何ごともないように――むしろ三度目とあって少しは慣れてくれたのか、当社比ややフランクですらあった――振る舞うから、何か自分が並行世界に迷い込んだのかと思った。ところ構わず表示されるちょっといかがわしいバナー広告に出てくるような。パニックで特に反応できなかったので、神在月先生は普通に私に指示を出して作業に戻って行く。可愛くてちょっとセクシーなチャイナ服にありがちな、胸元に開いた穴から素肌が見えた。サイズが合っていないのか、座っている先生から原稿を受け取ったときに、胸元の穴から肌と服の裏地の間に隙間があることが分かった。丈は結構ぎりぎりだったのに。足の付け根が見えるか見えるかの際どさだが、足を組んでいない(開いてはいるけど私の位置からは見えない)から最後の砦は守られている。私よりも細くて白い、でもムダ毛や骨張り方が男の人のそれだと分かる足に視線が吸い寄せられるのを我慢しながら作業していた。
そしたら玄関のチャイムが鳴ったのだ。私の心臓は飛び跳ねる。宅急便でもクワバラさんでもその他の来客でも今の神在月先生を人前に出すのはまずいんじゃないか。いやクワバラさんはまずくないかもしれないが、女性用チャイナ服を着用した先生と一応女性である私が同じ空間にいるのはクワバラさん的にまずい、というかクワバラさんから見た私がまずいのではないか。
「私が出ます!」
神在月先生の前で初めて大きい声を出した。返事を待たず玄関に走っていき、ドアを開けたらクワバラさんだった。宅急便とかのほうがよかったと思いながら私は小声でクワバラさんに話しかける。
「神在月先生があの……女性用のチャイナ服着て仕事してるんですけど……」
怪訝な顔をして、神在月先生のほうへ向かって何か言おうとしたクワバラさんに、声を潜めるよう必死にジェスチャーする。
「わ、私は大丈夫なんですけど、ちょっと目のやり場に困るくらいで。でも最初に言いそびれちゃったから後から気付かせて気まずくなるのも申し訳ないので」
「いや、目のやり場に困るんだったらそれはアカンやろ」
さすが、面倒見の良さに定評がある(私のなかで)クワバラさんだ。正論すぎる。でもこっちの心情は正論とかけ離れたところにある。クワバラさんが先生のところに踏み入ろうとしたので、私はまた慌てて止める。
「違うんです、目のやり場に困るっていうのは別に悪い意味じゃなくて、いや変な意味でもな……くもないかもしれないんですけど。その」
耳と首の後ろが熱い。思い切り目をそらした私だが、クワバラさんの怪訝な視線が刺さるのを感じる。ややあってため息も降ってきた。
「難儀やねえ」
「あの、仕事に影響は絶対出さないので何卒……」
頭を下げた私にもう一度クワバラさんのため息が降ってくる。
「まぁ、神在月センセも大概人見知りやからな。ヘルプのアシさんでもあんまころころ変えるのはな……」
「ありがとうございます!」
深々とクワバラさんに頭を下げたところで、背後から渦中の神在月先生の声が聞こえてきた。玄関先で長話をしていたからさすがに気になったらしい。なんでもない、とクワバラさんは返事をしていつも通りの様子でずかずかと上がってくる。そのまま、たぶん通常営業そのままの調子で打ち合わせを進めていくクワバラさんはいかにも頼りがいのある社会人だった。ネームが行き詰っているのか、ウワーッ僕はもうだめだ! ウジ虫です! という叫びが時折聞こえたがそれにも肩をバンバン叩いて励ましていた。作業しながら私はそれを聞いて「さすがだなぁ」とクワバラさんへの尊敬の念を強める。そうしてその日は先生の格好に誰一人ツッコミを入れることなく終了した。
余談だが、あの日の直後のアイジャ飯は激辛中華料理回だった。そこで登場するキャラクターがチャイナ服の、くのいち中華アンドロイドだった。そのチャイナ服にはよく見覚えがあった。形も柄も、神在月先生が着ていたものほぼそのままだったからだ。これの参考にかぁ、と少しだけ納得をした。
それと、後日他の現場で会ったクワバラさんから「もうあんないきなり笑ってはいけない打ち合わせやるのはごめんやからな」としっかり釘を刺された。しかし神在月先生の仕事を、またちゃんと回してくれるクワバラさんには感謝だ。今まで真面目にやってきて良かった。ありがとう自分。
よし、と到着したドアの前で気合いを入れなおす。まずはしっかり仕事をしなければ。直射日光を浴びて空気と同じくらいぬるいチャイムを押す。反応がない。もう一度押す。やや待ってもう一度。
三度呼んでも反応がない。買い出しにでも行っているのだろうか。この暑いなか。
「まさか熱中症で倒れてるとかないよね……?」
私はやや逡巡したが、ドアノブをつかむ。これで開かなかったらクワバラさんに連絡しようと思ってのことだ。しかしドアはあっさりと開いた。冷たい空気が流れだしてきたので慌ててドアを閉めた。勝手に上がり込んでしまったが、部屋に電気が付いている。すいませんと一応断ってから長くない廊下を進む、と向かって右手側の部屋から出てきた誰かとぶつかりそうになった。
「う、わっ」
私は驚くと声が出なくなるタイプらしい。わ、のあと口から出たのは潰れたような音がかすかに出ただけだ。まぁ何か言ったところで神在月先生の絹を裂くような悲鳴にかき消されただろうけど。二回目だなぁ、と頭の片隅によぎった。先生の悲鳴を聞くのも、全裸の先生にバッティングするのも。今回はバスタオルがあったからまだ大事なところは隠れている。でも距離は今回のほうが近い。先生から知らない石鹸の匂いがはっきりと伝わってくる。いつもは後ろで結んでいる髪の毛が、濡れてぺたんと先生の顔の周りに貼りついている。
「いやあの一度ならず二度までもこんな貧弱なお見苦しい体を見せてしまってほんとごめんなさい死んで詫びます!」
先生は早口でもう一度ユニットバスへ戻っていく。扉が閉まる前に私は声をかけた。
「あの、そちらに戻ったら着替えがないんじゃないですか」
「ウワーーーーッ思慮すら足りない漫画家のもとにアシスタントに来ていただいてほんとにすいません!」
「気にしないでください!」
私、今までで一番神在月先生と仕事以外の会話をしている。こんなときでも嬉しくなってしまう自分の現金さを抑えながら私は努めて冷静な声色を作る。しかし体は私の努力を裏切るようだった。顔に冷たいものを感じたと思ったら、床に赤い液体が落ちているのが見えた。私はとっさに鼻を押さえる。うそでしょ。まさか先生の裸に興奮して鼻血を出したのか自分は。
突然黙った私を怪しんだのか。中途半端に開いた扉の隙間から先生の顔が斜めに出てきた。私の顔に血がついてるのを見て、先生の顔は対極に青ざめていく。男の人って血に耐性ないって聞くものなぁ。むしろ私は冷静になっていく。
「ああああ暑いですもんね、外。ほんとアシさんの健康にも気を使えないなんてぼかぁ漫画家どころか人間失格なのでは?」
「大丈夫です、鼻血出ただけなんで。ティッシュとか、もらえますか」
「エーンないですごめんなさい生活必需品すら切らしててごめんなさい」
洗ったばかりの先生の顔が脂汗とか涙とかでぐちゃぐちゃになっていく。ちゃんと拭いていないのか、髪の毛から雫が垂れて、これも廊下に落ちていく。赤と透明な水滴が床を汚している。
申し訳ない気持ちと可愛いなという気持ちが自分の中で戦っている。とにかく鼻血は止めないといけない。存在を思い出してハンカチを鼻にあてようとしたら、あっ! と先生が叫んで顔が引っ込んだ。そして腕だけが伸びてくる。その腕にはバスタオルが握られていた。
「こんなもんしかないんですけど……もしよければ……」
こんなに大きいタオル使っていいのだろうか。しかし背に腹は代えられないのでお礼を言って受け取る。きっと柔軟剤を使ってないのだろう、少しごわついたタオルに鼻を押しあてると、馴染みのない洗剤のにおいがした。とりあえずこれ以上先生の仕事場兼自宅を汚してしまう心配はない。というところで先生が全裸でユニットバスにいるままであることを思い出す。もう顔も腕も出ていないがきっとこちらを伺っているのだろう。神在月先生、と私は呼びかける。
「あの、私バスタオルで目隠ししてるので、その間に向こう戻って着替えちゃってください。後ろも向いてるので」
後ろを向いて、バスタオルを顔全体にあてる。扉の開くきしんだ音がして、ぺたぺたと足音が聞こえた。足音が遠ざかったから、さすがにバスタオルをずらす。鼻血も大体止まったようだ。これは弁償するか洗って返却するかしたほうがいいのだろうけど、バスタオルをわざわざ持ち帰るのも不自然な気がしている。床の鼻血は出番のなかったハンカチで拭った。ついでに水滴もふき取りながら、仕事にとりかかるのが遅れて申し訳ないなと反省をした。
バスタオルは結局五分くらい押し問答(弁償するしないで二分、洗濯をどちらがするかで三分)をしたあと、血は早く洗濯しなければならないのでと私が押し切って、仕事場の近所にあるコインランドリーに持っていくことにした。道だけ教えてもらい、バスタオル一枚だけで、お金を払って洗濯機を回すというある意味贅沢なことをする。節電のためか、昼でも薄暗いコインランドリーのなかでベンチに腰かける。型落ちの洗濯機の回転を見ながら考えるのはやはり先生のことだ。遅れを取り戻さないといけない焦りもある。しかしそれ以上に頭を占めるのだ。神在月先生の裸体とか反応とか作品とか声とかが。
アイジャ飯はもともと読んでいたから、面白い話を書く漫画家さんだということは知っていた。出会う前から好感度が高かったところにいきなりショッキングな遭遇をしたから脳が混乱して好きだと錯覚しているのかもしれない。先生には混乱させられっぱなしだ。だって全裸が二回とチャイナ服が一回。まともな服装を見た回数がぎりぎり勝っているけど。先生の全裸が反復記憶で脳に焼き付いてしまいそうだ。また鼻血が出ないように上を向いた。正しいのかは分からない。コインランドリーへの道をつっかえながら伝えてくる先生は、緊張していたのに言い回しが面白かった。最初の角を曲がって、と振り回す指にはインクで染まったペンだこがあった。全裸が焼き付いてしまわなくても頭の中は先生のことでいっぱいだ。
洗濯機が洗濯終了のアラームを鳴らす。立ち上がって大きく伸びをする。座り仕事だから腰や肩がバキボキ鳴った。誰もいないコインランドリーに私のよし! という掛け声が響く。好きでも嫌いでもとにかく仕事はきちんとこなさねばならない。
ちなみに先生があのタイミングでシャワーを浴びていたのは私への配慮と迫りくる〆切への現実逃避が理由だったので、戻ったあとはそこそこの修羅場で余計なことは考えずに済んだ。男女がひとつ屋根の下で一夜を共にするのはどうなのかといったってそうしなければ落ちる原稿があるので仕方ない。
「いやでも、だいぶ慣れてくれた気はするんですよ。なんか失礼な言い方になっちゃってますけど」
クワバラが電話しているのは、最近何度か神在月のヘルプアシに派遣している、そして神在月に想いを寄せているという彼女である。おう、とクワバラは適当な相槌を打つ。肯定も否定もしない。彼は両方から話を聞いているからである。神在月がヘルプアシの彼女に慣れてきているのは本当だ。クワバラにも編集としての責任があるので、それとなく彼女の働きぶりやらどう思ってるやらを毎回聞いているのだ。後者はおせっかいと野次馬も混ざっているが。
神在月曰く、仕事ぶりは「僕みたいなぺーぺーの漫画家にはもったいないくらい早くて丁寧で本当にありがたい」と手放しでほめている。そのあとに続くのは「汚いものを二度も見せてしまったのに動じずすごく真面目にやってくれてほんとに頭が上がりませんよ……」だ。神在月が知らないだけで本当は醜態を三度見せているが、それは言わぬが花だとクワバラは思っている。一度目であんなことになってしまったため、双方に気を遣うならそれきりにすべきだったのだ。ただ、メインは別の漫画雑誌のアシスタントをしている彼女の作業サイクルが、神在月の忙しさの波に丁度いいのだ。三度目で彼女から神在月に対する好意を聞かされたため、彼女のほうに配慮して遠ざける必要がないことが分かったわけだし。神在月は今のところ適当になだめられているので問題ないとクワバラは思っている。クワバラの心中を知らない彼女の話は続く。
「この前、作業が終わって帰ろうとしたら神在月先生が机で寝落ちてたんですよ。せっかく〆切明けなんだからちゃんとベッドで寝ればいいのに……安らかに寝てるのかなと思ったら眉間に皺寄ってましたし……」
「漫画家なんて放っておくとどんどん不摂生になっていくんやからアシの立場からも言ってやってや」
「アシスタントも大概似たようなものですよ。あと普通に寝顔見られてラッキーって思っちゃいましたし」
そこそこいい年をした野郎のくたびれた寝顔の何がそんなにありがたいのかクワバラには分からない。
「まぁまた頼むわ」
一応本心からの言葉を言って通話を切り上げた。いかに責任者とはいえ、他人の恋路に首を突っ込みすぎるとろくなことにならないのをクワバラはよく知っている。たとえ神在月が、自分に好意を抱く者の存在をまったく想定していないとしても。
雲の一片もない穏やかすぎる夜だった。吸血鬼の多い新横浜は夜でも結構騒がしいのだが、その日は虫の鳴き声だけが仕事場の周りで響いていた。今思えば嵐の前の静けさでしかなかったわけだが。
その時していたのは、いつものように指定されたコマに背景を書く作業だった。それなりに大きなコマだったので下書きの時点で一度見てもらおうと思い、私は先生の机に向かったのだ。今日の先生は裸でも女性用チャイナでもない。いつもの、ちょっとくたびれたシンプルな服装だ。
「神在月先生、今いいですか。ちょっと確認してほしくて」
「アッハイ! 拝見します!」
びくん! と肩を跳ねさせた先生のほうが慇懃な態度をとってくる。もう少し砕けてくれてもいいのに、というのは下心だろうか。とにもかくにも先生へ原稿を差し出す。それを先生が手にとった瞬間、バシュウウウと小さい穴から空気が勢いよく抜けるような音と、ファンタジックな色をした光が私の目を焼いた。思わず細めた目を、混乱の中開くとそこにあったのは少々血色の悪い肌色だった。
三度目の正直と言わんばかりにごまかしようもなく全裸の先生と、見えなかったですなんて言い逃れのできない距離で向かい合ってしまった。局部が机で隠されているとかそういう漫画の都合のいい構図みたいなこともない。私が立ち上がっていて先生が座っているからなんかもう大体視界に入っていた。唯一の救いとしては顔のあたりを見ていたので致命的な箇所は視界の隅程度で済んでいる。そして当の神在月先生は原稿を受け取った姿勢のままフリーズしていた。いつも焦ってたり泣いていたりどうにか笑顔を作ろうとしているような人の表情が抜け落ちていると少し怖い。私から何か反応をするタイミング(叫ぶとか)も逃して気まずい無言の時間が流れる。ややあって先生が真顔のまま口を開いた。
「責任はとります」
それは神在月先生と出会って初めて聞いた静かで真剣な声だった。せきにんはとります。短い一文なのにどういう意味だか取りかねている。どうしたって都合のいい意味が思考を侵食していく。お付き合いから結婚から育児から死に目までのありとあらゆる事象が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。先生は見るからにただ事じゃない状態だが私だって異常事態だ。とにもかくにも何か言わなければ。私は口を開く。
「ま、まずお友だちから始めませんか!」
私の言葉と同時に、昼でも夜でも閉められているカーテン越しでも分かるくらい外が明るく光った。ややあってズドゴオン、と何かが墜落した音もした。近い。雷だろうかと思ったが晴れていたしそれはない気がする。私は窓に駆け寄ってカーテンを開けた。すぐそこの道のど真ん中にクレーターができている。いかにも落ちたてほやほやの隕石ですと言わんばかりに煙も上がっていた。
「隕石が落ちたらしいです!」
よく考えたらまた先生のほうを向くのはまずい。だから私は外を見ながらそう声を張った。今のうちに服を着てくれないかな。
「隕石?」
神在月先生の声にわくわくした色が混じっているのがわかった。窓に寄ってくる先生はどうにかしたのだろう、服を着ていた。やや生乾きの臭いはするけど。
「もっと近くに見に行きます?」
「そ、そうだね。やっぱり本物の隕石ってなかなか見れないからね……〆切明日朝イチだけど……」
編集者が作家に伝える〆切は早めに伝えるもの・実際の予定・印刷所をギリギリまで待たせるものの三種類に分かれるという話は有名だと思うが、この朝イチの〆切はたぶん実際の予定もしくは印刷所をギリギリまで待たせているもののどちらかだ。良心的なアシスタントとしては止めるべきだろう。が、このまま作業に戻るのも何か気まずいし隕石に目を輝かせている神在月先生はかわいいし私も隕石は見たい。
「行きましょう!」
私と先生は意気揚々と部屋の扉を開けた。
しかし、私たちを遮るようにアパートの通路に人影が立っている。白い制服に身を包みマスクを着用したその男性は、ドラマで見たような手帳を掲げて私たちに話かけてきた。
「神奈川県警吸血鬼対策課だ」
そういえば、新横浜を擁する神奈川県警にはそういった比較的新設の部署があるというのを聞いたことがある。実際お目にかかるのは初めてだが。想定外の事態に硬直する私と対象的に先生はすばやくハンズアップする。
「ウワーーッわいせつ物を陳列したあげく原稿を放り出して隕石見に行こうとした愚かなゴミ虫です!殺してくれーーッ!」
先生の大声に私の肩がびくりと跳ねる。吸対の人もたじろいで、仕切りなおすように一つ咳払いをした。
「い、いや近辺で吸血鬼に関する事件がいくつかあったから巡回していたのだが……」
聞いたところによると、先生の服が消えたことと隕石が落ちたことはどちらも吸血鬼が絡むものだった。前者については、吸血鬼任意の対象の衣服を半径十km以内のどこかの地点に吹き飛ばす(寿限無みたいに長い名前だ)が友達との喧嘩で力を暴走させたらしい。どうやら幼い吸血鬼のようだ。他にも何人かの服が吹き飛ばされたり違う人に着せられていたりしたらしい。あとから話を聞いたクワバラさんはまぁ子どものしたことやし……と、遠い目をしていた。もうひとつのほうは吸血鬼君がエッチなことを考えると星が降るおじさん(こちらも名前が長い)の仕業だったらしい。近くにいる人がエッチなことを考えるのに反応して星を降らせるというムダにエネルギッシュな能力だ。多分対象の思いが強いほど被害が大きくなるタイプなんじゃないかと思うのだが、こっちについては心当たりがありすぎる。多分あの私の走馬灯みたいな妄想に反応したんじゃないだろうか。新横浜は変わった吸血鬼が多いと聞くが、イロモノ吸血鬼による最悪のピタゴラスイッチだ。もし流れ星のもとになった人まで突き止められていたら恥ずかしくて死んでいたが、幸いそこまで吸対のお兄さんは追及してこなかった。神在月先生は自分の服が消失したのが吸血鬼の仕業だと聞いて、前にもこんなことあった気がするな……とぼやいていた。
ちなみに、聞き取りやら何やらで、結局原稿が上がったのは翌夕方のことだった。
「神ちゃんの服吹っ飛ばしたあの吸血鬼おるやろ? 親御さんがお詫びに菓子折り持ってきたから取りに来(き)いや」
他の漫画家さんの現場で会ったクワバラさんが私にそう言った。
「い、いいんですかね……」
最後に会ったのがその服吹っ飛ばされ事件と隕石の落ちた夜だ。アシスタントとして仕事しているときは間が持つとか持たないとか変なことを考えなくてもいいがそうじゃないときに会いに行くのは初めてだ。それに変な勘違いをしたから一方的に気まずい。私のとんちんかんな答えは隕石のどさくさで無かったことになっているようだけど。そんなこと知らないクワバラさんは別にええやろ! と呆れた顔をした。
「むしろチャンスや、くらいに思わな。しばらく神ちゃんのアシは足りる予定やし」
うぐ、と私は呻く。たしかにこのまましばらく会わなかったら更に私が勝手に気まずくなるのは目に見えている。クワバラさんはたぶんちょっと面白がっている。
「行きますよ、行きますってば」
気張りや~、と茶化すようにクワバラさんが笑った。何を話そうか、何か差し入れでも買っていったほうがいいのか、ぐるぐる考えながら向かった。しかし私が行ったのは、ネームが上がるのが遅く後ろの工程が全部切羽詰まった状態の仕事場だった。人はこれを修羅場と呼ぶ。クワバラさんこれを知っていたんじゃないか。ほっとしたような、ちょっと恨めしいような気分でツヤベタを手伝った。
「いやどーしてもキミしか空いてなくてな、男性の作家さんのとこにはあんまり行きたくないのも知っとるんやけど、この通り!」
両手を合わせて拝んできたのは、数少ない面識のある男性ことクワバラさんだった。いつも入っているアシスタントさんが急に帰省することになってしまったらしい。かくいう私も入るはずだった仕事が作家さんの体調不良でなくなってしまい、どうしようかと思っていたところだった。バイト先にはまだ連絡していないから都合は付けられる。この先できればプロアシ一本でやっていきたい自分としては、断る選択肢はさすがになかった。それに漫画家さんならそんなにマッチョな人は出てこないだろう、という目算もあったし。
はじめて降りた新横浜駅から少し離れたところに、先生の仕事場兼住居はあった。クワバラさんが呼び鈴を押す。反応はない。特に物音も聞こえてこない。
「留守ですかね」
私の呟きにクワバラさんは落ち着いた様子で、ちょっと待っててなと言った。ドアノブを握り、扉を開けようとしたがやはり留守なのか鍵がかかっているようだ。クワバラさんはそのままポケットから針金のようなものを取り出して、躊躇なく鍵穴に突っ込んだ。ほどなくしてガチャ、と音がしてクワバラさんは「邪魔するでー」と言いながらドアを開けて中に踏み入る。いいのか? ためらっているとクワバラさんに促されたので恐る恐る私も入室した。
「キャーーーーーッ!!」
絹を裂くような悲鳴が聞こえて、クワバラさんは私を咄嗟にその背中に隠す。でも私はクワバラさんに遮られる前にしっかりと見てしまった。
「やめてくださいよ、勝手に入ってくるの!」
水浴びを覗かれた乙女のように、大事なところを隠すポーズをとる彼――神在月シンジ先生は、全裸だった。
部屋の外で三分きっちり待たされたあと、服をちゃんと着た神在月先生と改めてご挨拶をした。一着一着を長いこと着続けているのだろう。くたくたになったシャツにこれまたくたくたのズボンを履いた彼は、丸い背中をもっと丸めて私に頭を下げた。柔らかくも頑固そうな癖っ毛がそれに合わせて動く。
「いやあのほんとお見苦しいところを見せてしまい……」
「だ、大丈夫ですよ。〆切前の漫画家さんなんて皆そんなもんですって」
クワバラさんの口が、まぁ……と言いたげに曲げられる。クワバラさんの前ではさすがにやってないけど、私が定期的にアシスタントしている某先生も「女性だけだから!」なんて、切羽詰まると裸に近いような格好をしていることがあるのだ。だから、一人でやってたら全裸にもなるかなあと私は思う。もしかしたら平気らしく振る舞う理由を適当にこじつけているだけなのかもしれない。いやでも、とまだ頭を下げる神在月先生の鎖骨が、よれよれな襟から覗く。私はさっき見てしまった先生の細くて生っ白い手足や筋肉が一切ついていない胸や少したるんだ腹を思い出してしまう。ごくり、と無意識に生唾を飲んでから気が付いた。よろしくおねがいしますと言った声は上ずってなかっただろうか。先生は安心したように眉を下げた。彼の一挙一動を追うたびに胸がどきどきと早くなる。もしかしなくても私は神在月先生のことを好きになってしまったようだった。
脳を焼くような暑さと、セミの声が反響している。今日は神在月先生のところで四度目のヘルプアシだ。駅から仕事場まで歩きながら、つらつら先生のことを考える。神在月先生と過ごす四度目の機会だ。私も先生も人見知りな性質(たち)だから、最低限の会話以外はほとんどしていない。もっと世間話とかできるようになりたい。まず一度目はあの初対面全裸の件があり、先生が委縮してしまったから淡々と仕事をしていくしかなかった。二度目は、私が何も考えずに「暑いですねえ」とカーディガンを脱ごうとしたら「あつ」まで声に出したところで先生が無言でエアコンの設定温度を下げた。下が薄い生地のノースリーブだったのが良くなかったのかもしれない。何も考えていなかったが、今度は私が目のやり場に困らせるところだったらしい。意識しすぎですよなんて言ったら先生が羞恥で死んじゃうんじゃないかと思って言えなかった。私のために下げてくれた温度を上げなおしてもらうわけにもいかず、大人しくカーディガンを着こんで、緊張感の漂う部屋で作業をした。
三度目は、ドアを開けたら女性用チャイナ服を着た先生に迎えられた。あまりにも先生が何ごともないように――むしろ三度目とあって少しは慣れてくれたのか、当社比ややフランクですらあった――振る舞うから、何か自分が並行世界に迷い込んだのかと思った。ところ構わず表示されるちょっといかがわしいバナー広告に出てくるような。パニックで特に反応できなかったので、神在月先生は普通に私に指示を出して作業に戻って行く。可愛くてちょっとセクシーなチャイナ服にありがちな、胸元に開いた穴から素肌が見えた。サイズが合っていないのか、座っている先生から原稿を受け取ったときに、胸元の穴から肌と服の裏地の間に隙間があることが分かった。丈は結構ぎりぎりだったのに。足の付け根が見えるか見えるかの際どさだが、足を組んでいない(開いてはいるけど私の位置からは見えない)から最後の砦は守られている。私よりも細くて白い、でもムダ毛や骨張り方が男の人のそれだと分かる足に視線が吸い寄せられるのを我慢しながら作業していた。
そしたら玄関のチャイムが鳴ったのだ。私の心臓は飛び跳ねる。宅急便でもクワバラさんでもその他の来客でも今の神在月先生を人前に出すのはまずいんじゃないか。いやクワバラさんはまずくないかもしれないが、女性用チャイナ服を着用した先生と一応女性である私が同じ空間にいるのはクワバラさん的にまずい、というかクワバラさんから見た私がまずいのではないか。
「私が出ます!」
神在月先生の前で初めて大きい声を出した。返事を待たず玄関に走っていき、ドアを開けたらクワバラさんだった。宅急便とかのほうがよかったと思いながら私は小声でクワバラさんに話しかける。
「神在月先生があの……女性用のチャイナ服着て仕事してるんですけど……」
怪訝な顔をして、神在月先生のほうへ向かって何か言おうとしたクワバラさんに、声を潜めるよう必死にジェスチャーする。
「わ、私は大丈夫なんですけど、ちょっと目のやり場に困るくらいで。でも最初に言いそびれちゃったから後から気付かせて気まずくなるのも申し訳ないので」
「いや、目のやり場に困るんだったらそれはアカンやろ」
さすが、面倒見の良さに定評がある(私のなかで)クワバラさんだ。正論すぎる。でもこっちの心情は正論とかけ離れたところにある。クワバラさんが先生のところに踏み入ろうとしたので、私はまた慌てて止める。
「違うんです、目のやり場に困るっていうのは別に悪い意味じゃなくて、いや変な意味でもな……くもないかもしれないんですけど。その」
耳と首の後ろが熱い。思い切り目をそらした私だが、クワバラさんの怪訝な視線が刺さるのを感じる。ややあってため息も降ってきた。
「難儀やねえ」
「あの、仕事に影響は絶対出さないので何卒……」
頭を下げた私にもう一度クワバラさんのため息が降ってくる。
「まぁ、神在月センセも大概人見知りやからな。ヘルプのアシさんでもあんまころころ変えるのはな……」
「ありがとうございます!」
深々とクワバラさんに頭を下げたところで、背後から渦中の神在月先生の声が聞こえてきた。玄関先で長話をしていたからさすがに気になったらしい。なんでもない、とクワバラさんは返事をしていつも通りの様子でずかずかと上がってくる。そのまま、たぶん通常営業そのままの調子で打ち合わせを進めていくクワバラさんはいかにも頼りがいのある社会人だった。ネームが行き詰っているのか、ウワーッ僕はもうだめだ! ウジ虫です! という叫びが時折聞こえたがそれにも肩をバンバン叩いて励ましていた。作業しながら私はそれを聞いて「さすがだなぁ」とクワバラさんへの尊敬の念を強める。そうしてその日は先生の格好に誰一人ツッコミを入れることなく終了した。
余談だが、あの日の直後のアイジャ飯は激辛中華料理回だった。そこで登場するキャラクターがチャイナ服の、くのいち中華アンドロイドだった。そのチャイナ服にはよく見覚えがあった。形も柄も、神在月先生が着ていたものほぼそのままだったからだ。これの参考にかぁ、と少しだけ納得をした。
それと、後日他の現場で会ったクワバラさんから「もうあんないきなり笑ってはいけない打ち合わせやるのはごめんやからな」としっかり釘を刺された。しかし神在月先生の仕事を、またちゃんと回してくれるクワバラさんには感謝だ。今まで真面目にやってきて良かった。ありがとう自分。
よし、と到着したドアの前で気合いを入れなおす。まずはしっかり仕事をしなければ。直射日光を浴びて空気と同じくらいぬるいチャイムを押す。反応がない。もう一度押す。やや待ってもう一度。
三度呼んでも反応がない。買い出しにでも行っているのだろうか。この暑いなか。
「まさか熱中症で倒れてるとかないよね……?」
私はやや逡巡したが、ドアノブをつかむ。これで開かなかったらクワバラさんに連絡しようと思ってのことだ。しかしドアはあっさりと開いた。冷たい空気が流れだしてきたので慌ててドアを閉めた。勝手に上がり込んでしまったが、部屋に電気が付いている。すいませんと一応断ってから長くない廊下を進む、と向かって右手側の部屋から出てきた誰かとぶつかりそうになった。
「う、わっ」
私は驚くと声が出なくなるタイプらしい。わ、のあと口から出たのは潰れたような音がかすかに出ただけだ。まぁ何か言ったところで神在月先生の絹を裂くような悲鳴にかき消されただろうけど。二回目だなぁ、と頭の片隅によぎった。先生の悲鳴を聞くのも、全裸の先生にバッティングするのも。今回はバスタオルがあったからまだ大事なところは隠れている。でも距離は今回のほうが近い。先生から知らない石鹸の匂いがはっきりと伝わってくる。いつもは後ろで結んでいる髪の毛が、濡れてぺたんと先生の顔の周りに貼りついている。
「いやあの一度ならず二度までもこんな貧弱なお見苦しい体を見せてしまってほんとごめんなさい死んで詫びます!」
先生は早口でもう一度ユニットバスへ戻っていく。扉が閉まる前に私は声をかけた。
「あの、そちらに戻ったら着替えがないんじゃないですか」
「ウワーーーーッ思慮すら足りない漫画家のもとにアシスタントに来ていただいてほんとにすいません!」
「気にしないでください!」
私、今までで一番神在月先生と仕事以外の会話をしている。こんなときでも嬉しくなってしまう自分の現金さを抑えながら私は努めて冷静な声色を作る。しかし体は私の努力を裏切るようだった。顔に冷たいものを感じたと思ったら、床に赤い液体が落ちているのが見えた。私はとっさに鼻を押さえる。うそでしょ。まさか先生の裸に興奮して鼻血を出したのか自分は。
突然黙った私を怪しんだのか。中途半端に開いた扉の隙間から先生の顔が斜めに出てきた。私の顔に血がついてるのを見て、先生の顔は対極に青ざめていく。男の人って血に耐性ないって聞くものなぁ。むしろ私は冷静になっていく。
「ああああ暑いですもんね、外。ほんとアシさんの健康にも気を使えないなんてぼかぁ漫画家どころか人間失格なのでは?」
「大丈夫です、鼻血出ただけなんで。ティッシュとか、もらえますか」
「エーンないですごめんなさい生活必需品すら切らしててごめんなさい」
洗ったばかりの先生の顔が脂汗とか涙とかでぐちゃぐちゃになっていく。ちゃんと拭いていないのか、髪の毛から雫が垂れて、これも廊下に落ちていく。赤と透明な水滴が床を汚している。
申し訳ない気持ちと可愛いなという気持ちが自分の中で戦っている。とにかく鼻血は止めないといけない。存在を思い出してハンカチを鼻にあてようとしたら、あっ! と先生が叫んで顔が引っ込んだ。そして腕だけが伸びてくる。その腕にはバスタオルが握られていた。
「こんなもんしかないんですけど……もしよければ……」
こんなに大きいタオル使っていいのだろうか。しかし背に腹は代えられないのでお礼を言って受け取る。きっと柔軟剤を使ってないのだろう、少しごわついたタオルに鼻を押しあてると、馴染みのない洗剤のにおいがした。とりあえずこれ以上先生の仕事場兼自宅を汚してしまう心配はない。というところで先生が全裸でユニットバスにいるままであることを思い出す。もう顔も腕も出ていないがきっとこちらを伺っているのだろう。神在月先生、と私は呼びかける。
「あの、私バスタオルで目隠ししてるので、その間に向こう戻って着替えちゃってください。後ろも向いてるので」
後ろを向いて、バスタオルを顔全体にあてる。扉の開くきしんだ音がして、ぺたぺたと足音が聞こえた。足音が遠ざかったから、さすがにバスタオルをずらす。鼻血も大体止まったようだ。これは弁償するか洗って返却するかしたほうがいいのだろうけど、バスタオルをわざわざ持ち帰るのも不自然な気がしている。床の鼻血は出番のなかったハンカチで拭った。ついでに水滴もふき取りながら、仕事にとりかかるのが遅れて申し訳ないなと反省をした。
バスタオルは結局五分くらい押し問答(弁償するしないで二分、洗濯をどちらがするかで三分)をしたあと、血は早く洗濯しなければならないのでと私が押し切って、仕事場の近所にあるコインランドリーに持っていくことにした。道だけ教えてもらい、バスタオル一枚だけで、お金を払って洗濯機を回すというある意味贅沢なことをする。節電のためか、昼でも薄暗いコインランドリーのなかでベンチに腰かける。型落ちの洗濯機の回転を見ながら考えるのはやはり先生のことだ。遅れを取り戻さないといけない焦りもある。しかしそれ以上に頭を占めるのだ。神在月先生の裸体とか反応とか作品とか声とかが。
アイジャ飯はもともと読んでいたから、面白い話を書く漫画家さんだということは知っていた。出会う前から好感度が高かったところにいきなりショッキングな遭遇をしたから脳が混乱して好きだと錯覚しているのかもしれない。先生には混乱させられっぱなしだ。だって全裸が二回とチャイナ服が一回。まともな服装を見た回数がぎりぎり勝っているけど。先生の全裸が反復記憶で脳に焼き付いてしまいそうだ。また鼻血が出ないように上を向いた。正しいのかは分からない。コインランドリーへの道をつっかえながら伝えてくる先生は、緊張していたのに言い回しが面白かった。最初の角を曲がって、と振り回す指にはインクで染まったペンだこがあった。全裸が焼き付いてしまわなくても頭の中は先生のことでいっぱいだ。
洗濯機が洗濯終了のアラームを鳴らす。立ち上がって大きく伸びをする。座り仕事だから腰や肩がバキボキ鳴った。誰もいないコインランドリーに私のよし! という掛け声が響く。好きでも嫌いでもとにかく仕事はきちんとこなさねばならない。
ちなみに先生があのタイミングでシャワーを浴びていたのは私への配慮と迫りくる〆切への現実逃避が理由だったので、戻ったあとはそこそこの修羅場で余計なことは考えずに済んだ。男女がひとつ屋根の下で一夜を共にするのはどうなのかといったってそうしなければ落ちる原稿があるので仕方ない。
「いやでも、だいぶ慣れてくれた気はするんですよ。なんか失礼な言い方になっちゃってますけど」
クワバラが電話しているのは、最近何度か神在月のヘルプアシに派遣している、そして神在月に想いを寄せているという彼女である。おう、とクワバラは適当な相槌を打つ。肯定も否定もしない。彼は両方から話を聞いているからである。神在月がヘルプアシの彼女に慣れてきているのは本当だ。クワバラにも編集としての責任があるので、それとなく彼女の働きぶりやらどう思ってるやらを毎回聞いているのだ。後者はおせっかいと野次馬も混ざっているが。
神在月曰く、仕事ぶりは「僕みたいなぺーぺーの漫画家にはもったいないくらい早くて丁寧で本当にありがたい」と手放しでほめている。そのあとに続くのは「汚いものを二度も見せてしまったのに動じずすごく真面目にやってくれてほんとに頭が上がりませんよ……」だ。神在月が知らないだけで本当は醜態を三度見せているが、それは言わぬが花だとクワバラは思っている。一度目であんなことになってしまったため、双方に気を遣うならそれきりにすべきだったのだ。ただ、メインは別の漫画雑誌のアシスタントをしている彼女の作業サイクルが、神在月の忙しさの波に丁度いいのだ。三度目で彼女から神在月に対する好意を聞かされたため、彼女のほうに配慮して遠ざける必要がないことが分かったわけだし。神在月は今のところ適当になだめられているので問題ないとクワバラは思っている。クワバラの心中を知らない彼女の話は続く。
「この前、作業が終わって帰ろうとしたら神在月先生が机で寝落ちてたんですよ。せっかく〆切明けなんだからちゃんとベッドで寝ればいいのに……安らかに寝てるのかなと思ったら眉間に皺寄ってましたし……」
「漫画家なんて放っておくとどんどん不摂生になっていくんやからアシの立場からも言ってやってや」
「アシスタントも大概似たようなものですよ。あと普通に寝顔見られてラッキーって思っちゃいましたし」
そこそこいい年をした野郎のくたびれた寝顔の何がそんなにありがたいのかクワバラには分からない。
「まぁまた頼むわ」
一応本心からの言葉を言って通話を切り上げた。いかに責任者とはいえ、他人の恋路に首を突っ込みすぎるとろくなことにならないのをクワバラはよく知っている。たとえ神在月が、自分に好意を抱く者の存在をまったく想定していないとしても。
雲の一片もない穏やかすぎる夜だった。吸血鬼の多い新横浜は夜でも結構騒がしいのだが、その日は虫の鳴き声だけが仕事場の周りで響いていた。今思えば嵐の前の静けさでしかなかったわけだが。
その時していたのは、いつものように指定されたコマに背景を書く作業だった。それなりに大きなコマだったので下書きの時点で一度見てもらおうと思い、私は先生の机に向かったのだ。今日の先生は裸でも女性用チャイナでもない。いつもの、ちょっとくたびれたシンプルな服装だ。
「神在月先生、今いいですか。ちょっと確認してほしくて」
「アッハイ! 拝見します!」
びくん! と肩を跳ねさせた先生のほうが慇懃な態度をとってくる。もう少し砕けてくれてもいいのに、というのは下心だろうか。とにもかくにも先生へ原稿を差し出す。それを先生が手にとった瞬間、バシュウウウと小さい穴から空気が勢いよく抜けるような音と、ファンタジックな色をした光が私の目を焼いた。思わず細めた目を、混乱の中開くとそこにあったのは少々血色の悪い肌色だった。
三度目の正直と言わんばかりにごまかしようもなく全裸の先生と、見えなかったですなんて言い逃れのできない距離で向かい合ってしまった。局部が机で隠されているとかそういう漫画の都合のいい構図みたいなこともない。私が立ち上がっていて先生が座っているからなんかもう大体視界に入っていた。唯一の救いとしては顔のあたりを見ていたので致命的な箇所は視界の隅程度で済んでいる。そして当の神在月先生は原稿を受け取った姿勢のままフリーズしていた。いつも焦ってたり泣いていたりどうにか笑顔を作ろうとしているような人の表情が抜け落ちていると少し怖い。私から何か反応をするタイミング(叫ぶとか)も逃して気まずい無言の時間が流れる。ややあって先生が真顔のまま口を開いた。
「責任はとります」
それは神在月先生と出会って初めて聞いた静かで真剣な声だった。せきにんはとります。短い一文なのにどういう意味だか取りかねている。どうしたって都合のいい意味が思考を侵食していく。お付き合いから結婚から育児から死に目までのありとあらゆる事象が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。先生は見るからにただ事じゃない状態だが私だって異常事態だ。とにもかくにも何か言わなければ。私は口を開く。
「ま、まずお友だちから始めませんか!」
私の言葉と同時に、昼でも夜でも閉められているカーテン越しでも分かるくらい外が明るく光った。ややあってズドゴオン、と何かが墜落した音もした。近い。雷だろうかと思ったが晴れていたしそれはない気がする。私は窓に駆け寄ってカーテンを開けた。すぐそこの道のど真ん中にクレーターができている。いかにも落ちたてほやほやの隕石ですと言わんばかりに煙も上がっていた。
「隕石が落ちたらしいです!」
よく考えたらまた先生のほうを向くのはまずい。だから私は外を見ながらそう声を張った。今のうちに服を着てくれないかな。
「隕石?」
神在月先生の声にわくわくした色が混じっているのがわかった。窓に寄ってくる先生はどうにかしたのだろう、服を着ていた。やや生乾きの臭いはするけど。
「もっと近くに見に行きます?」
「そ、そうだね。やっぱり本物の隕石ってなかなか見れないからね……〆切明日朝イチだけど……」
編集者が作家に伝える〆切は早めに伝えるもの・実際の予定・印刷所をギリギリまで待たせるものの三種類に分かれるという話は有名だと思うが、この朝イチの〆切はたぶん実際の予定もしくは印刷所をギリギリまで待たせているもののどちらかだ。良心的なアシスタントとしては止めるべきだろう。が、このまま作業に戻るのも何か気まずいし隕石に目を輝かせている神在月先生はかわいいし私も隕石は見たい。
「行きましょう!」
私と先生は意気揚々と部屋の扉を開けた。
しかし、私たちを遮るようにアパートの通路に人影が立っている。白い制服に身を包みマスクを着用したその男性は、ドラマで見たような手帳を掲げて私たちに話かけてきた。
「神奈川県警吸血鬼対策課だ」
そういえば、新横浜を擁する神奈川県警にはそういった比較的新設の部署があるというのを聞いたことがある。実際お目にかかるのは初めてだが。想定外の事態に硬直する私と対象的に先生はすばやくハンズアップする。
「ウワーーッわいせつ物を陳列したあげく原稿を放り出して隕石見に行こうとした愚かなゴミ虫です!殺してくれーーッ!」
先生の大声に私の肩がびくりと跳ねる。吸対の人もたじろいで、仕切りなおすように一つ咳払いをした。
「い、いや近辺で吸血鬼に関する事件がいくつかあったから巡回していたのだが……」
聞いたところによると、先生の服が消えたことと隕石が落ちたことはどちらも吸血鬼が絡むものだった。前者については、吸血鬼任意の対象の衣服を半径十km以内のどこかの地点に吹き飛ばす(寿限無みたいに長い名前だ)が友達との喧嘩で力を暴走させたらしい。どうやら幼い吸血鬼のようだ。他にも何人かの服が吹き飛ばされたり違う人に着せられていたりしたらしい。あとから話を聞いたクワバラさんはまぁ子どものしたことやし……と、遠い目をしていた。もうひとつのほうは吸血鬼君がエッチなことを考えると星が降るおじさん(こちらも名前が長い)の仕業だったらしい。近くにいる人がエッチなことを考えるのに反応して星を降らせるというムダにエネルギッシュな能力だ。多分対象の思いが強いほど被害が大きくなるタイプなんじゃないかと思うのだが、こっちについては心当たりがありすぎる。多分あの私の走馬灯みたいな妄想に反応したんじゃないだろうか。新横浜は変わった吸血鬼が多いと聞くが、イロモノ吸血鬼による最悪のピタゴラスイッチだ。もし流れ星のもとになった人まで突き止められていたら恥ずかしくて死んでいたが、幸いそこまで吸対のお兄さんは追及してこなかった。神在月先生は自分の服が消失したのが吸血鬼の仕業だと聞いて、前にもこんなことあった気がするな……とぼやいていた。
ちなみに、聞き取りやら何やらで、結局原稿が上がったのは翌夕方のことだった。
「神ちゃんの服吹っ飛ばしたあの吸血鬼おるやろ? 親御さんがお詫びに菓子折り持ってきたから取りに来(き)いや」
他の漫画家さんの現場で会ったクワバラさんが私にそう言った。
「い、いいんですかね……」
最後に会ったのがその服吹っ飛ばされ事件と隕石の落ちた夜だ。アシスタントとして仕事しているときは間が持つとか持たないとか変なことを考えなくてもいいがそうじゃないときに会いに行くのは初めてだ。それに変な勘違いをしたから一方的に気まずい。私のとんちんかんな答えは隕石のどさくさで無かったことになっているようだけど。そんなこと知らないクワバラさんは別にええやろ! と呆れた顔をした。
「むしろチャンスや、くらいに思わな。しばらく神ちゃんのアシは足りる予定やし」
うぐ、と私は呻く。たしかにこのまましばらく会わなかったら更に私が勝手に気まずくなるのは目に見えている。クワバラさんはたぶんちょっと面白がっている。
「行きますよ、行きますってば」
気張りや~、と茶化すようにクワバラさんが笑った。何を話そうか、何か差し入れでも買っていったほうがいいのか、ぐるぐる考えながら向かった。しかし私が行ったのは、ネームが上がるのが遅く後ろの工程が全部切羽詰まった状態の仕事場だった。人はこれを修羅場と呼ぶ。クワバラさんこれを知っていたんじゃないか。ほっとしたような、ちょっと恨めしいような気分でツヤベタを手伝った。
