吸死
今日の担当さんとの打ち合わせは、私の仕事場の近所にあるいつもの喫茶店ではなかった。出版社の近くにあるバトル・ノワールをあっちが指名してきたのだ。着いてみたら他の席もなんとなく似たような組み合わせだった。カタギじゃなさそうなスーツの人と、老若男女限定しない緩い恰好の人の組み合わせは大体担当編集と作家だと相場が決まっている。まぁこの辺りは他にも出版社がたくさんあるし、打ち合わせ多発店舗なのは納得がいくが、ただの打ち合わせにしては何となく空気がピリピリしている。
「今日、何かあるんですか?」
担当さんに訊くと、彼は言いにくそうに頬を掻いた。
「実は今夜は混沌の打ち合わせ総会でして……」
かくかくしかじか、と説明されたのはつまり編集者同士のメンツの張り合いが今から始まるという内容だった。通りで普段は持っていない投げやすそうなナイフをテーブルに置いているわけだ。
「それもっと丈夫そうな作家さん連れてきたほうが良かったんじゃないですか」
「本当は、筋肉ある次郎先生をお呼びするはずだったんですが、昨日の飲み会で牡蠣にあたったらしく……」
筋肉ある次郎先生といえば、自身も空手有段者で迫力のあるバトルシーンが有名なライトノベル作家だ。著者近影からその体格の良さが分かるというエピソードもあるが、牡蠣には勝てなかったらしい。そこでまだやっと専業になったようなぺーぺーの作家(私)が慌てて動員されたのだろうが、こんな出版社の面子を保つなんて重要そうな場所にいていいのだろうか。まぁ主役はほとんど編集者の皆さんなのだろうが。
落ち着かない担当さんを横目に私はメニューをめくる。するとどこかの出版社の名刺が挟まれていた。
「ちくしょうやられた!」
がた、と大きな音を立てて担当さんが立ち上がる。今日私は生きて帰れるのだろうか。せめて好きなものを頼もう、とケーキセットを注文した。
それから三十分、いたたまれない空気を緩和するためにケーキをつついていたらあっという間になくなってしまったしアイスティーもほとんど飲み切ってしまった。通りすがりにすっと置いていかれる名刺は担当さんが即投げ返す。名刺ってあんな手裏剣みたいに飛ばせるんだなぁ、といらない学びを得た。ところでいつまで居ればいいんだろう。
そう思ったところでにわかに近くのテーブルが騒がしくなった。さっきまでとは比べ物にならない険しい顔で担当さんが立ち上がった。ウォォォォ、という場所に似合わない雄たけびが聞こえてくる。そして人はピンチのとき周囲の動きがゆっくりに見えるというのは本当らしかった。まぁ見えたところで動けはしないのだが。私の頭上に、宙を舞う机が――
「大丈夫ですか?」
長い真っ黒がそれを遮った。担当さんが「オータム書店!恩に着ます!」と叫ぶ。どういたしましてと丁寧に答えながら、これまた丁寧に机を下ろしたその人もスーツなので編集者なのだろう。命の恩人に礼を言おうと私は彼の顔を見上げた。眼鏡の奥の、墨を流したような色の瞳と目が合った。私は子供の頃に読んだブラックホールの説明を思い出す(吸い込まれた物は出て来られはしません)。
からん、と氷の溶けた音がいやに大きく聞こえた。もしかしたらそれは、運命を左右する賽が振られた音だったのかもしれない。うまく回らない頭をどうにか動かして、きっと緊張でかさついた唇をどうにか動かした。でも絞り出した言葉はお礼ではない。
「あの、ロナ戦いつも読んでます」
「そうですか、ありがとうございます」
オータム書店の編集者らしき彼は、私をかばったときもおだやかな笑みを浮かべていたけれど、さらに笑みが深くなったような気がした。きっと私をかばうなんて当たり前のことで、それよりも自社の本を褒められる方に心を動かされるなんて編集者の鑑だ。今日この場でだけの出会いで終わらせるには惜しい、と思ったのは職業病なのか個人的な好奇心なのか、それとももっと別の興味関心なのかは自分でも分からなかった。
「機会があれば、御社でもお仕事させていただければと思います」
仕事の予定はありがたいことに向こう半年は埋まっている。でも工面すれば何とかならないこともない。そんな打算を脳内で素早く済ませ、私はそう頭を下げた。彼はちら、と私の担当さんのほうを見る。担当さんはお冷取りに行ってきますね、とこれ見よがしに席を立った。
「うちの大事な先生を助けていただきましたからねぇ」
独り言、という体のその言葉を聞くと、オータム書店の編集者さんは担当さんに礼を言ってどこからともなく取り出した名刺をこちらに差し出してきた。
「ぜひ、弊社でも書いて頂きたいです。詳細はまた連絡いたしますので」
「ありがとうございます!」
必要以上に丁重に受け取った名刺には「フクマ」と名前があった。フクマさん。脳内で名前を呼んでみる。細められた真っ黒な瞳に吸い込まれそうだと改めて思った。
「今日、何かあるんですか?」
担当さんに訊くと、彼は言いにくそうに頬を掻いた。
「実は今夜は混沌の打ち合わせ総会でして……」
かくかくしかじか、と説明されたのはつまり編集者同士のメンツの張り合いが今から始まるという内容だった。通りで普段は持っていない投げやすそうなナイフをテーブルに置いているわけだ。
「それもっと丈夫そうな作家さん連れてきたほうが良かったんじゃないですか」
「本当は、筋肉ある次郎先生をお呼びするはずだったんですが、昨日の飲み会で牡蠣にあたったらしく……」
筋肉ある次郎先生といえば、自身も空手有段者で迫力のあるバトルシーンが有名なライトノベル作家だ。著者近影からその体格の良さが分かるというエピソードもあるが、牡蠣には勝てなかったらしい。そこでまだやっと専業になったようなぺーぺーの作家(私)が慌てて動員されたのだろうが、こんな出版社の面子を保つなんて重要そうな場所にいていいのだろうか。まぁ主役はほとんど編集者の皆さんなのだろうが。
落ち着かない担当さんを横目に私はメニューをめくる。するとどこかの出版社の名刺が挟まれていた。
「ちくしょうやられた!」
がた、と大きな音を立てて担当さんが立ち上がる。今日私は生きて帰れるのだろうか。せめて好きなものを頼もう、とケーキセットを注文した。
それから三十分、いたたまれない空気を緩和するためにケーキをつついていたらあっという間になくなってしまったしアイスティーもほとんど飲み切ってしまった。通りすがりにすっと置いていかれる名刺は担当さんが即投げ返す。名刺ってあんな手裏剣みたいに飛ばせるんだなぁ、といらない学びを得た。ところでいつまで居ればいいんだろう。
そう思ったところでにわかに近くのテーブルが騒がしくなった。さっきまでとは比べ物にならない険しい顔で担当さんが立ち上がった。ウォォォォ、という場所に似合わない雄たけびが聞こえてくる。そして人はピンチのとき周囲の動きがゆっくりに見えるというのは本当らしかった。まぁ見えたところで動けはしないのだが。私の頭上に、宙を舞う机が――
「大丈夫ですか?」
長い真っ黒がそれを遮った。担当さんが「オータム書店!恩に着ます!」と叫ぶ。どういたしましてと丁寧に答えながら、これまた丁寧に机を下ろしたその人もスーツなので編集者なのだろう。命の恩人に礼を言おうと私は彼の顔を見上げた。眼鏡の奥の、墨を流したような色の瞳と目が合った。私は子供の頃に読んだブラックホールの説明を思い出す(吸い込まれた物は出て来られはしません)。
からん、と氷の溶けた音がいやに大きく聞こえた。もしかしたらそれは、運命を左右する賽が振られた音だったのかもしれない。うまく回らない頭をどうにか動かして、きっと緊張でかさついた唇をどうにか動かした。でも絞り出した言葉はお礼ではない。
「あの、ロナ戦いつも読んでます」
「そうですか、ありがとうございます」
オータム書店の編集者らしき彼は、私をかばったときもおだやかな笑みを浮かべていたけれど、さらに笑みが深くなったような気がした。きっと私をかばうなんて当たり前のことで、それよりも自社の本を褒められる方に心を動かされるなんて編集者の鑑だ。今日この場でだけの出会いで終わらせるには惜しい、と思ったのは職業病なのか個人的な好奇心なのか、それとももっと別の興味関心なのかは自分でも分からなかった。
「機会があれば、御社でもお仕事させていただければと思います」
仕事の予定はありがたいことに向こう半年は埋まっている。でも工面すれば何とかならないこともない。そんな打算を脳内で素早く済ませ、私はそう頭を下げた。彼はちら、と私の担当さんのほうを見る。担当さんはお冷取りに行ってきますね、とこれ見よがしに席を立った。
「うちの大事な先生を助けていただきましたからねぇ」
独り言、という体のその言葉を聞くと、オータム書店の編集者さんは担当さんに礼を言ってどこからともなく取り出した名刺をこちらに差し出してきた。
「ぜひ、弊社でも書いて頂きたいです。詳細はまた連絡いたしますので」
「ありがとうございます!」
必要以上に丁重に受け取った名刺には「フクマ」と名前があった。フクマさん。脳内で名前を呼んでみる。細められた真っ黒な瞳に吸い込まれそうだと改めて思った。
