その他

台所の暗がりで死んだ祖父の名前を呼ぶ声がした。知らない老人の声である。咄嗟に声を出さなかった自分を褒めてやりたい。喉が渇いて水を飲みに来ただけなのにどうしてこんな怖い思いをしなければならないのだ。しかし空き巣や強盗は別に、住んでいる(または住んでいた)人の名前を呼ぶ必要はないのだ。
「…………誰だ?」
迷った末、結局正直に問いかけてしまった。暗闇はしばらく沈黙する。外で強い風が吹いて、窓をがたがたと揺らしているのだけが聞こえた。
「そうか、あいつではないのか」
似ているから間違えたわい、と影が小さくぼやいた。自分は父親に似ていると昔からよく言われる。父親に似ているということは、祖父にも似ているということだ。
「わしはお前の爺さんの友人じゃ」
「それが本当だとして、こんな夜更けに何をしに来たんですか」
声だけしか聞こえない相手なのに、普通に会話をしてしまっている自分が不思議だった。怪しいことこの上ないのに、警戒する気には何故だかなれなかった。
「わしの忘れ物を、お前の爺さんが預かっていると噂で聞いたんじゃ」
「忘れ物……?」
祖父は少し前に亡くなっており、本人に確かめる術はなかった。また、父親ならともかく自分はそんな話を聞いたことがない。自分は馬鹿正直に知らないと答えた。声は残念そうに小さくため息をついて、そうかとだけ呟いた。それがあまりにも哀れに聞こえて、自分はつい安請け合いしてしまったのだ。
「あの、探してみます」

起きて、どう考えても人間以外の存在と約束じみたことをするのは良くなかったのではないかと少し後悔した。しかしもう言ってしまったものは仕方ない。また夜中の台所で突然話しかけられて肝を冷やすのはごめんだった。学校は休みであるが、二度寝をする気分にもなれずリビングへ行くと、同じく仕事が休みらしい父親がコーヒーを飲んでいた。父親の仕事は公園の管理で、不規則な休みであるが今日はたまたまカレンダー通りであるらしかった。湯を沸かしなおし、自分の分のコーヒーを淹れて向かいに座る。父親とはとくに共通の話題がないため最近差し向かいで話した覚えはなかったが、とにかく今は藁にもすがりたかった。
「あのさぁ、お爺ちゃんがお爺ちゃんの友達から忘れ物を預かったって話、知ってる?」
父親はううん、と首を捻る。しばらく考えたあと、関係あるかは分からんがと前置きをして話し始めた。
「父さんが働いている公園に、洞窟があるだろ。あそこを最初に整備したとき、誰かが使ったらしい茶器が出てきたんだよな」
きっと浮浪者が一時期住んでいた名残りだろう、と考えた地主はあまり深く考えず廃棄しようとしたらしい。それをすごい剣幕で止めたのが祖父だった。
「あんだけ親父が必死なのは、後にも先にも初めて見たな」
「その茶器って今どこにあるの?」
ん、と父親が指したのは、食器棚の一番上だった。

結局食器棚の奥の奥にしまわれていた茶器を引っ張り出すのに半日以上かかってしまった。古ぼけた茶器の入った、これまた古ぼけた箱を持って、無人の台所であの謎の声を待つ。
「坊主」
昨日と同じ声が夜の闇から聞こえた。
「それっぽいものは見つけました、けど」
声の聞こえるほうに、箱を差し出す。暗がりの中から、ほっそりとした手が出てきてそれを受け取った。
「確かに」
昨日よりも強い風が窓枠を激しく揺さぶった。それに気を取られているうちに、闇は完全に沈黙している。長い夢のようにも思えたが、箱は確かに手元になかったし食器棚の中も漁った分の配置が変わっていた。二杯目のコーヒーを淹れながら父親が話していた内容を思い出す。
「親父はよくあの公園の洞窟に行ってたよ。友達がいるとかで茶やら酒やらを持ってな。着いて行こうとしたら嫌がられたな」
まぁ、公園になる前のことだがな、と父親は付け加えた。あの洞窟へは、もっと小さい頃の遠足くらいでしか行ったことがない。訪ねてみたいような気もしたし、自分が今訪れても祖父と同じ景色は当然見られないのだという断絶も同時に感じられた。
7/12ページ
スキ