その他
「一人で森の奥に行っちゃだめだよ。まだお前は小さいんだから」
今更になって母の言葉が思い出されて、後悔で鼻がツンと痛んだ。涙で視界がぼやけそうになって、ごしごしと目をこする。母や父と手をつないで歩く森はいつも明るくて、怖いことなんて何一つないように思えた。けれど今は夕暮れも近く、少しずつ木々の作る影が色濃くなっていくようだ。いつもはさくさくと楽しい音をたてる落ち葉も、昨日の雨で気持ち悪く湿っている。気味が悪くざわざわと木々を揺らす風に体が冷えて、私はくしゃみをひとつした。自分から出た音なのにいやに響いて、心細さが増した。
「どうしたの」
急に背後から呼び掛けられて、びくりと肩が跳ねた。おそるおそる振り向くと、知らないお兄さんが立っていた。いつから私の後ろにいたのだろう。地面には厚く落ち葉が積もっているから足跡は付いていない。私が黙っていると、彼はしゃがんで目線を合わせてくれた。
「迷子?」
その声があんまりにも優しかったから、知らない大人への警戒心よりも誰かに見つけてもらえた安心のほうが勝ってしまった。止めようと歯を食いしばっても涙がぼろぼろと溢れてくる。せめて鼻水が口に入らないようにずび、とすすると何か布のようなものがあてがわれたのを感じた。
「ほら」
言われるままちーんと鼻をかむと優しい手つきでぬぐわれる。私が落ち着くのを待って、彼は私の手を引いて歩きだした。さっきまであんなに心細かった山道が、彼のあたたかい手と一緒なら何も怖くなくなった。知らない人なのに。彼は私の名前も聞かなかった。一人で森に入ったら危ないだろうという母のような注意もしなかった。ただ無言で歩いていくと、いつの間にか見知った場所に出た。村の入り口だ。
「もうここからは大丈夫だね」
うん、と頷いたら腹が大きな音で鳴った。安心したせいかもしれない。彼は少し笑って、夕飯には間に合うだろうと言った。
「ありがとう」
彼は私の頭を撫でた。そのとき強い風が吹いて私は思わず目をつぶった。
「おばあさんによろしくね」
彼の声が確かに聞こえたのに、目を開けるともう姿はなかった。夕飯を食べながら祖母にその話をすると、森にいるという神様の話をされた。けれどその神様は黒い大きな獣だという。私が会ったのは人間のお兄さんだった。
「人の姿をとって私たちと遊ぶこともあったのよ」
まるで本当に会ったことがあるような口調で、懐かしいわねえと祖母は微笑んだ。神様なんて物語の中だけの存在だと父は言っていた。そうじゃなければ森をカイタクするなんてできないとも。その言葉の意味が分かるのはもう少し大きくなってからだった。
今更になって母の言葉が思い出されて、後悔で鼻がツンと痛んだ。涙で視界がぼやけそうになって、ごしごしと目をこする。母や父と手をつないで歩く森はいつも明るくて、怖いことなんて何一つないように思えた。けれど今は夕暮れも近く、少しずつ木々の作る影が色濃くなっていくようだ。いつもはさくさくと楽しい音をたてる落ち葉も、昨日の雨で気持ち悪く湿っている。気味が悪くざわざわと木々を揺らす風に体が冷えて、私はくしゃみをひとつした。自分から出た音なのにいやに響いて、心細さが増した。
「どうしたの」
急に背後から呼び掛けられて、びくりと肩が跳ねた。おそるおそる振り向くと、知らないお兄さんが立っていた。いつから私の後ろにいたのだろう。地面には厚く落ち葉が積もっているから足跡は付いていない。私が黙っていると、彼はしゃがんで目線を合わせてくれた。
「迷子?」
その声があんまりにも優しかったから、知らない大人への警戒心よりも誰かに見つけてもらえた安心のほうが勝ってしまった。止めようと歯を食いしばっても涙がぼろぼろと溢れてくる。せめて鼻水が口に入らないようにずび、とすすると何か布のようなものがあてがわれたのを感じた。
「ほら」
言われるままちーんと鼻をかむと優しい手つきでぬぐわれる。私が落ち着くのを待って、彼は私の手を引いて歩きだした。さっきまであんなに心細かった山道が、彼のあたたかい手と一緒なら何も怖くなくなった。知らない人なのに。彼は私の名前も聞かなかった。一人で森に入ったら危ないだろうという母のような注意もしなかった。ただ無言で歩いていくと、いつの間にか見知った場所に出た。村の入り口だ。
「もうここからは大丈夫だね」
うん、と頷いたら腹が大きな音で鳴った。安心したせいかもしれない。彼は少し笑って、夕飯には間に合うだろうと言った。
「ありがとう」
彼は私の頭を撫でた。そのとき強い風が吹いて私は思わず目をつぶった。
「おばあさんによろしくね」
彼の声が確かに聞こえたのに、目を開けるともう姿はなかった。夕飯を食べながら祖母にその話をすると、森にいるという神様の話をされた。けれどその神様は黒い大きな獣だという。私が会ったのは人間のお兄さんだった。
「人の姿をとって私たちと遊ぶこともあったのよ」
まるで本当に会ったことがあるような口調で、懐かしいわねえと祖母は微笑んだ。神様なんて物語の中だけの存在だと父は言っていた。そうじゃなければ森をカイタクするなんてできないとも。その言葉の意味が分かるのはもう少し大きくなってからだった。
