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次の仕事の台本を読み込んでいた北斗は、聞こえていた話し声が途切れたので顔を上げた。プロデューサーがオンラインで出席していた何らかの打ち合わせが終わったらしい。もちろん台本には集中していたが、憎からず思っている人間の一挙一動に反応するなというのは酷な話だ。静かになった事務所には、ガラス越しの雨音もよく聞こえる。年季は入っているがよく磨かれた窓ガラスについた細かい水滴が、道路に車が通る度にライトを反射して輝いていた。北斗の視線を意に介さず、プロデューサーは片手でもう片方の手首を掴み、後ろ手で大きく伸びをする。元の体勢に戻って、プライベート用のスマートフォンを手に取った。画面が光っていたので、何らかの通知が来ているらしい。北斗たちアイドルは、プロデューサーのプライベート携帯の連絡先を知らない。以前訊いたときも、やんわりとかわされたのだ。それが自分たちアイドルを守るためだと分からない北斗ではなかった。しかし、ある種の寂しさを覚えるのは止められなかった。
ソファに座ったまま――一定の距離をとったまま――北斗はプロデューサーに話しかける。
「お友達から、ですか」
「えぇ、前の会社の同期からです。向こうは友人と思ってるか分かりませんが」
このプロデューサーはまだ二十代であり、北斗と大きく年が離れているわけではない。ただ、315プロダクションは二社目だと以前に話していたし、その前は芸能に全く関係のない業種だったらしい。
北斗も事務所の移籍を経験した身ではあるが、プロデューサーや大学の先輩が経験したような「新卒での就職」や「転職」は、彼にとってもちろん未知の出来事だった。同級生もぬかりない人間は色々と行動しているらしいが、まだ就職活動に対して呑気しているのが大半である。プロデューサーがプロデューサーになる前のことも、北斗は知りたかった。
「辞めても連絡をしてくれるのなら、友人といってもいいんじゃないですか」
北斗の答えに、ありがとうございますとプロデューサーは笑った。もちろん本心からの言葉であったが、その笑顔は北斗の心を温かくさせた。
「前の会社って、どんな感じだったんですか?」
「大したことないですよ。あんまり大きくない会社の事務方で……さっきの同期は営業なんですけど。つまらない話でしょ、こんなの。北斗さんのほうがよっぽど社会経験豊富でしょうし」
「そんなことないですよ。それに、プロデューサーのことはなんでも、知りたいですからね」
にこ、と笑みを浮かべた北斗の表情は、ファンなら直視できないくらい魅力的なものだ。そのことをプロデューサーも分かってはいるが、その笑顔が自分に向けられている意味までは意識が回っていない。このような魅力的なアイドルが自分のことを大事なビジネスパートナー以上に想っていることなど、プロデューサーは知る由もないのだ。手ごわいな、と北斗は思う。
返信し終えたのか、プロデューサーはスマートフォンの画面を閉じて、北斗の向こうにある窓の外を見た。
「今日天気予報雨でしたっけ!? 帰りたいのにな」
雨が降っていることに今初めて気が付いたらしい。実際、急な降雨であった。そのくせ雨脚は強く、すぐには止みそうにない。
「傘、ないんですか?」
「持ってきてないですね……」
どうしようかなあ、とプロデューサーは呟いた。北斗のカバンの中には、いつも折り畳み傘が入っている。しかし所詮は折り畳み傘の大きさであるので、二人で入ることは難しそうだ。事務所の入り口にある貸出用の傘は、珍しく一本しか残っていなかった。プロデューサーはまだ予備の傘へ考えが至ってないようだった。ハンドルに「315プロダクション備品」と青いテプラが巻かれた黒くて無骨な傘から視線を外し、北斗は自分のカバンの中に手を入れた。あっ、と上げた声は自然そのものだった。
「俺も傘、忘れたみたいです」
「北斗さんもですか。急な雨って困りますよね……」
そこでやっとプロデューサーは貸出用の傘に気が付いたようだった。
「北斗さん、あれ使ってください。大切なアイドルさんを濡らすわけにはいかないので」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、プロデューサーはどうするんです?」
「駅まで走ります」
迷わずそう言ったプロデューサーを、北斗は慌てて止めた。
「それなら駅まで、ご一緒しませんか。プロデューサーが俺たちのことを大事に思ってくれるのと同じくらい、俺たちだってあなたのことが大切なんです」
ひとつの傘に入る入らないの相談なんて、中高生みたいな駆け引きだ。もっとスマートな場面での口説き文句は百も浮かぶ北斗だが、こうしてプロデューサーを説得するのは嫌いではなかった。
「ありがとうございます。じゃあ駅までご一緒させてください」
じゃあ、さっさと帰りましょうか。そう言ってプロデューサーは帰り支度を始めた。北斗も台本をしまう。北斗が今度演じる役も、ヒロインへのアプローチで悩んでいた。「伊集院北斗」が演じるには少々奥手じゃないかという反応があるのは知っている。しかし、北斗本人はそんな屈託のある男を演じることが、あながち嫌ではないのだった。
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