ゲーム作品
春の雨というにはまだ早く、せっかく温くなり始めた空気を冷やすものだった。事務所の入っている雑居ビルは年季が入っているから、冷気をまともに通してしまう。数日ぶりに稼働している暖房のおかげで、窓は薄く結露していた。もふもふえんあたりが指で描いて遊んだであろうウサギやヒツジの線がうっすらと窓に残っている。時刻は19時に差し掛かるくらいだった。レッスン帰りに立ち寄った百々人とデスクワークをしているプロデューサーしか事務所にはいなかった。天気も悪く、時間が中途半端だからだ。たとえば、百々人と一緒にレッスンをしていた恭二は直帰するようだった。独り暮らしであれば、自分も彼のように直帰しただろうか、と百々人は考える。部屋には外の雨音と、時折プロデューサーがモニタに映された資料をスクロールするマウスの音だけが響いていた。百々人の自宅も今の事務所と同じくらい静かではあったが、居心地の良さでいえば天と地ほどの差があった。
集中しているときのプロデューサーは、百々人がすぐ後ろを通っても気が付かない。先ほどこっそり盗み見たところによると、この前のバレンタインデーのイベントに関する種々のデータを確認しているようだった。好評みたいですね、と自分の仕事ではないのにSNSでエゴサーチをしていた秀に教えてもらってはいたが、実際の数値もそう悪くはなさそうだったので百々人は少しだけほっとした。他のメンバーの実力もあって、出来が悪いわけがないのは理屈では分かっている。しかしデータとして可視化されたほうが、確固たるもののような気がするからだ。
きりのいいところまで確認し終えたプロデューサーは、目頭を揉みながら現在時刻と百々人がソファに座っていることを確認した。雨がやまないですね、という程度の世間話でも彼が嬉しそうにするのにプロデューサーはまだ慣れていない。
「百々人さん、傘持ってますか?」
百々人は鞄をごそごそとかきまわして、あ、と小さく声を上げた。困ったように眉を下げて、プロデューサーのほうを見る。プロデューサーも、手を止めて椅子ごと百々人の方を向いた。
「傘、忘れちゃった」
「予報よりも早く降り出しましたからね。共用の置き傘使いますか?」
事務所の入り口の傘立てには、自由に使っていいビニール傘――私物と混ざらないよう、持ち手のところにテプラで「事務所備品」と書かれている――が何本か刺さっていた。
「でも、しばらく事務所には来ないから……」
たしかに、明日以降はオフや長丁場の仕事が続くスケジュールではあった。別に百々人が傘を借りっぱなしにするような性格だとプロデューサーは思っていないが、遠慮の理由としては至極まっとうである。
「ぴぃちゃんは傘持ってきてる?」
「小さい折り畳みですけどね」
百々人としては、小さな折り畳みを二人で使うのでも構わなかったが、それを言う前にプロデューサーが「この勢いだと折り畳み傘だと少し厳しいかもしれませんね」と窓の外を見ながら呟いた。こういう時、アマミネくんくらい押しが強ければさっさと相合傘に持ち込めるのだろうか。百々人は考えてもしょうがないことを考える。目の前のアイドルが何の策をぐるぐると巡らせているか知りもしないプロデューサーは、次の提案をする。
「送りましょうか。今は誰も車使ってないので」
「でも、ぴぃちゃんはまだお仕事あるんでしょ」
特に未成年のアイドルに対して正直を信条としているプロデューサーは、こういうちょっとした問いかけにも稀にラグがある。勿論、しれっと「もう帰るつもりだったので、ついでですよ」と、返すこともあるが。その隙をついて、百々人は追撃する。
「もう少し事務所にいてもいいかな。雨ももう少し弱くなるかもしれないし」
口に出してから、以前よりも少しだけ気軽にそう言えたことに気が付いた。
「いいですよ。あと一時間くらいで終わらせるので」
雨、止めばいいですねとプロデューサーは呟いてまたモニターに視線を向けた。百々人は、小さな折り畳み傘ひとつに二人分入れるくらいの雨脚になればいいと思っている。プロデューサーが過剰に気を遣わないように、わざと残してあった数学の課題を広げた。ちょうど一時間もあれば余裕で終わるくらいの量だ。明日は晴れるらしいが、明後日もまた朝から雨が降るらしい。学校のロッカーに突っ込んだ折り畳み傘を、明日忘れずに回収しなければいけない。
集中しているときのプロデューサーは、百々人がすぐ後ろを通っても気が付かない。先ほどこっそり盗み見たところによると、この前のバレンタインデーのイベントに関する種々のデータを確認しているようだった。好評みたいですね、と自分の仕事ではないのにSNSでエゴサーチをしていた秀に教えてもらってはいたが、実際の数値もそう悪くはなさそうだったので百々人は少しだけほっとした。他のメンバーの実力もあって、出来が悪いわけがないのは理屈では分かっている。しかしデータとして可視化されたほうが、確固たるもののような気がするからだ。
きりのいいところまで確認し終えたプロデューサーは、目頭を揉みながら現在時刻と百々人がソファに座っていることを確認した。雨がやまないですね、という程度の世間話でも彼が嬉しそうにするのにプロデューサーはまだ慣れていない。
「百々人さん、傘持ってますか?」
百々人は鞄をごそごそとかきまわして、あ、と小さく声を上げた。困ったように眉を下げて、プロデューサーのほうを見る。プロデューサーも、手を止めて椅子ごと百々人の方を向いた。
「傘、忘れちゃった」
「予報よりも早く降り出しましたからね。共用の置き傘使いますか?」
事務所の入り口の傘立てには、自由に使っていいビニール傘――私物と混ざらないよう、持ち手のところにテプラで「事務所備品」と書かれている――が何本か刺さっていた。
「でも、しばらく事務所には来ないから……」
たしかに、明日以降はオフや長丁場の仕事が続くスケジュールではあった。別に百々人が傘を借りっぱなしにするような性格だとプロデューサーは思っていないが、遠慮の理由としては至極まっとうである。
「ぴぃちゃんは傘持ってきてる?」
「小さい折り畳みですけどね」
百々人としては、小さな折り畳みを二人で使うのでも構わなかったが、それを言う前にプロデューサーが「この勢いだと折り畳み傘だと少し厳しいかもしれませんね」と窓の外を見ながら呟いた。こういう時、アマミネくんくらい押しが強ければさっさと相合傘に持ち込めるのだろうか。百々人は考えてもしょうがないことを考える。目の前のアイドルが何の策をぐるぐると巡らせているか知りもしないプロデューサーは、次の提案をする。
「送りましょうか。今は誰も車使ってないので」
「でも、ぴぃちゃんはまだお仕事あるんでしょ」
特に未成年のアイドルに対して正直を信条としているプロデューサーは、こういうちょっとした問いかけにも稀にラグがある。勿論、しれっと「もう帰るつもりだったので、ついでですよ」と、返すこともあるが。その隙をついて、百々人は追撃する。
「もう少し事務所にいてもいいかな。雨ももう少し弱くなるかもしれないし」
口に出してから、以前よりも少しだけ気軽にそう言えたことに気が付いた。
「いいですよ。あと一時間くらいで終わらせるので」
雨、止めばいいですねとプロデューサーは呟いてまたモニターに視線を向けた。百々人は、小さな折り畳み傘ひとつに二人分入れるくらいの雨脚になればいいと思っている。プロデューサーが過剰に気を遣わないように、わざと残してあった数学の課題を広げた。ちょうど一時間もあれば余裕で終わるくらいの量だ。明日は晴れるらしいが、明後日もまた朝から雨が降るらしい。学校のロッカーに突っ込んだ折り畳み傘を、明日忘れずに回収しなければいけない。
