吸死
怒涛のゲラチェックを片付けたクワバラは、解放感と共に夜の繁華街に繰り出した。今日は同行者もいない気軽な道行きである。キャバクラでおねーちゃんと楽しく話そかな、と、彼は飲み屋が立ち並ぶ通りを足取り軽く歩いていく。すると前方のゴミ捨て場で何やら揉めているようだった。漏れ聞こえてくる会話を聞く限り酔っ払いの座り込みらしい。クワバラは横をそろりそろり通り抜けようとして、たっぷり五秒間静止した。ゴミ捨て場に転がっている酔っ払いの女が誰だか気が付いてしまったからだ。どうやら近隣店舗のスタッフと思しき青年が揺り動かしているが、彼女は動く気配がない。自分は今日はまだ酒も飲んでいないのに、とクワバラは大きくため息をついて、女に声をかけた。
「いい加減酒癖どうにかしいや」
彼の声に反応して、女がもぞもぞと目を開く。
「クワバラ先輩、どうしたんですこんなところで」
「そらこっちのセリフや。知らん店のあんちゃんに迷惑かけんなや」
「昨年くらいに行った覚えがあります」
女はクワバラの一年か二年程後輩である。酒の臭いが、女から強く感じられて、クワバラは顔をしかめた。同時に目をつけていたキャバクラへ行くことを諦める。彼女は酔っぱらいのくせにしっかりした足取りで立ち上がる。
「じゃあ飲みに行きましょうか、先輩」
クワバラは二回目のため息をつく。今度は後輩に聞かせるためだが、彼女はクワバラのため息なぞ公私ともに散々聞きなれていたので、何も反応しなかった。むしろ了承の意味に解釈して、手ごろな店がないかクワバラに質問してくる始末だ。彼は諦めて、歩きながら適当な店を探す。
「酒飲めませぇんみたいな顔してた頃はかわいかったのになぁ」
「そんなの最初の一か月くらいじゃないですか。今もかわいい後輩でしょ」
一か月とはつまり新入社員歓迎会までだ。それでも一年目の頃はまだここまで酷くなかった、とクワバラは回想する。酒が飲める新入社員が少ない年度で、その中で飛びぬけて酒豪だった彼女をクワバラは気に入って、(彼女の人脈作りも兼ねて)よく飲みに連れていったものだ。
選んだ居酒屋の席にどっかり座ったクワバラは、メニューを眺めている後輩の顔を眺める。顔の造形は悪くないのだ、中身の癖が強いだけで。
(俺の後輩、そんなんばっかりやな)
「なんです、今日はちゃんと帰りますよ。明日から担当作家と取材旅行なんで」
「取材旅行の前日にゴミ捨て場で寝んなや……」
「すいませーん、生二つ、あとエイヒレと冷やしトマトください」
「聞けや!」
クワバラに構わず、彼女はスマートフォンをいじり始める。その細い指がクワバラに触れてきた日のことを彼はよく覚えていない。きっと彼女もそうだろう。同じ部署にいたときのいつかの修羅場を乗り越えた日のことだ。部署のメンバーでの飲み会のあと、珍しく二次会が発生しなかった。もう少し飲みたいと手を挙げたのが彼女とクワバラだけだったのだ。ちゃんと二人で二次会をして、そのあとどっちから誘ったのかも覚えていないと言ったら彼女に怒られるだろうか。
「お疲れ様でーす」
そんなクワバラの心中など知らないし斟酌もしない彼女は、自分のビールジョッキをクワバラのジョッキにかちんとぶつける。一息にビールを飲みほした。クワバラも思考を塗りつぶすためにビールを流し込む。
「取材旅行ってどこに行くん?」
「宗谷岬です」
「なんでわざわざ……」
歴史ものなんですよ、とクワバラが知らない名前を彼女は挙げた。
「北の海は寂しくていいですよ」
そういえば前も同じことを彼女は言っていた。あれも青森だか北海道だかの土産を配りながらじゃなかったか。けれどその時の彼女も、ばくばくとエイヒレをむさぼる今も、後輩は寂しさとは無縁に見えた。
「寂しくなりたいんか」
彼女はエイヒレを飲み込んでクワバラの目を見る。
「寂しくなりたいっていうか、寂しくてもいいんだって安心するじゃないですか」
「寂しいなら寂しいって言えや」
彼女はいったんクワバラの言葉を無視して、通りがかった店員に二杯目を注文する。それからクワバラに向き合う。
「今日は帰るって言ったじゃないですか」
まだ酔いが回っていないクワバラの頭に、さらに冷や水が浴びせられたようだった。クワバラは自分とこの面倒くさい女に舌打ちをしたくなった。
「そういう意味ちゃうわ」
エイヒレは彼女にほぼ食い尽くされていたので、クワバラはスライスされたトマトをほぼ丸のみする。ぬるい果肉が胃に落ちていくのがわかった。大丈夫ですよ、と彼女は笑う。
「どうにもならないでしょ」
顔色にまったく出ないので、彼女が本当はどこまで酔っているのか、他人からは判別ができない。抽象的な問答になってきた、と思いながらクワバラも二杯目に頼んだサワーを飲む。「どうにも」というのがセックスを指しているのか、先輩後輩というには踏み込んでしまった自分達の関係を指しているのかクワバラには分からない。ただ、その断絶こそクワバラには寂しいと感じられた。
「いい加減酒癖どうにかしいや」
彼の声に反応して、女がもぞもぞと目を開く。
「クワバラ先輩、どうしたんですこんなところで」
「そらこっちのセリフや。知らん店のあんちゃんに迷惑かけんなや」
「昨年くらいに行った覚えがあります」
女はクワバラの一年か二年程後輩である。酒の臭いが、女から強く感じられて、クワバラは顔をしかめた。同時に目をつけていたキャバクラへ行くことを諦める。彼女は酔っぱらいのくせにしっかりした足取りで立ち上がる。
「じゃあ飲みに行きましょうか、先輩」
クワバラは二回目のため息をつく。今度は後輩に聞かせるためだが、彼女はクワバラのため息なぞ公私ともに散々聞きなれていたので、何も反応しなかった。むしろ了承の意味に解釈して、手ごろな店がないかクワバラに質問してくる始末だ。彼は諦めて、歩きながら適当な店を探す。
「酒飲めませぇんみたいな顔してた頃はかわいかったのになぁ」
「そんなの最初の一か月くらいじゃないですか。今もかわいい後輩でしょ」
一か月とはつまり新入社員歓迎会までだ。それでも一年目の頃はまだここまで酷くなかった、とクワバラは回想する。酒が飲める新入社員が少ない年度で、その中で飛びぬけて酒豪だった彼女をクワバラは気に入って、(彼女の人脈作りも兼ねて)よく飲みに連れていったものだ。
選んだ居酒屋の席にどっかり座ったクワバラは、メニューを眺めている後輩の顔を眺める。顔の造形は悪くないのだ、中身の癖が強いだけで。
(俺の後輩、そんなんばっかりやな)
「なんです、今日はちゃんと帰りますよ。明日から担当作家と取材旅行なんで」
「取材旅行の前日にゴミ捨て場で寝んなや……」
「すいませーん、生二つ、あとエイヒレと冷やしトマトください」
「聞けや!」
クワバラに構わず、彼女はスマートフォンをいじり始める。その細い指がクワバラに触れてきた日のことを彼はよく覚えていない。きっと彼女もそうだろう。同じ部署にいたときのいつかの修羅場を乗り越えた日のことだ。部署のメンバーでの飲み会のあと、珍しく二次会が発生しなかった。もう少し飲みたいと手を挙げたのが彼女とクワバラだけだったのだ。ちゃんと二人で二次会をして、そのあとどっちから誘ったのかも覚えていないと言ったら彼女に怒られるだろうか。
「お疲れ様でーす」
そんなクワバラの心中など知らないし斟酌もしない彼女は、自分のビールジョッキをクワバラのジョッキにかちんとぶつける。一息にビールを飲みほした。クワバラも思考を塗りつぶすためにビールを流し込む。
「取材旅行ってどこに行くん?」
「宗谷岬です」
「なんでわざわざ……」
歴史ものなんですよ、とクワバラが知らない名前を彼女は挙げた。
「北の海は寂しくていいですよ」
そういえば前も同じことを彼女は言っていた。あれも青森だか北海道だかの土産を配りながらじゃなかったか。けれどその時の彼女も、ばくばくとエイヒレをむさぼる今も、後輩は寂しさとは無縁に見えた。
「寂しくなりたいんか」
彼女はエイヒレを飲み込んでクワバラの目を見る。
「寂しくなりたいっていうか、寂しくてもいいんだって安心するじゃないですか」
「寂しいなら寂しいって言えや」
彼女はいったんクワバラの言葉を無視して、通りがかった店員に二杯目を注文する。それからクワバラに向き合う。
「今日は帰るって言ったじゃないですか」
まだ酔いが回っていないクワバラの頭に、さらに冷や水が浴びせられたようだった。クワバラは自分とこの面倒くさい女に舌打ちをしたくなった。
「そういう意味ちゃうわ」
エイヒレは彼女にほぼ食い尽くされていたので、クワバラはスライスされたトマトをほぼ丸のみする。ぬるい果肉が胃に落ちていくのがわかった。大丈夫ですよ、と彼女は笑う。
「どうにもならないでしょ」
顔色にまったく出ないので、彼女が本当はどこまで酔っているのか、他人からは判別ができない。抽象的な問答になってきた、と思いながらクワバラも二杯目に頼んだサワーを飲む。「どうにも」というのがセックスを指しているのか、先輩後輩というには踏み込んでしまった自分達の関係を指しているのかクワバラには分からない。ただ、その断絶こそクワバラには寂しいと感じられた。
