鋭角の夜が明けるまで

緊張を鎮めるために深呼吸をすると、すっかり冬めいた空気がイデアの肺を刺した。箒を握りしめて、イデアは中庭の物陰に立っている。放課後、部活へ行く生徒たちの波が収まるまで待ったから、もしかしたらもう監督生はいなくなっているかもしれない、とイデアは気が付く。予想した場所に監督生がいなければいないで安心するのだろうが、また日を改めて見に来てしまう自分が容易に思い浮かんだ、そうして何度も勝手に賭けをして緊張するのは嫌だ。まず彼女に確実に会えるような手はずを整えないのが、怯えて問題を先送りにしているだけなのだ。オルトに見に行ってもらえばいいのだが、それはそれで情けない気もしてやめた。きょろきょろと辺りを確認して、イデアは中庭へ踏み出す。すべてのきっかけとなった、監督生が落ちてきた木の下に駆け寄り、その梢を見上げる。ぶらりと投げ出された左足が目に入った。獣人の場合は尻尾も一緒に垂れている場合がほとんどであるが、確認できなかった。そもそもこんな季節に外で寝ている生徒が稀なのだ。
(いや、監督生氏、本当にいるんだけど)
好意を抱こうが、イデアにとって監督生は未だに訳の分からない存在だった。今ここで監督生が寝ている理由だって分からない。相変わらずオンボロ寮で寝れていなくて、他に行く場所もないからなのか、それとも自分に見つけてもらうことを期待してのことなのか。ぐ、とイデアは歯を食いしばる。飛行術の授業では横着してぶら下がっているが、監督生とのやりとりがどうなるか分からなかったので大人しく箒にまたがった。ふう、と吐き出した息と共にゆっくりと上昇する。伸びた枝に頭がぶつからないよう慎重に上昇して、監督生の顔が見える位置まで浮上した。ざわざわと魔力によって動いた空気が葉を揺らすが、監督生が起きる気配はなかった。そうであれば楽だったのに、とイデアは少し恨みがましくなる。
「か、監督生氏」
自分の声が今から緊張で震えているのが分かった。恐る恐る片手を伸ばしてそっと監督生の肩を叩く。意思を持って触れるのはこれが初めてであることをイデアはあえて考えないようにする。のろのろと監督生はみじろぎをして目を開けた。ややあって、イデアが目の前にいることに驚く。
「なんで」
「アッ起きた? 監督生氏起きたよね? 拙者もう降りていい? 姿勢保つの限界なんですけど」
監督生も降りてきてよ、とイデアはゆっくり降下して監督生の視界から消えた。彼女は、イデアから会いに来たのだと理解する。自分がそれを本当は望んでいたことも。急に体温が上がったせいで、吹く風が冷たく感じられた。イデアを追いかけるように、彼女は座っていた枝を握った。小さくでっぱった木の節などに器用に足をかけて、するすると監督生が降りてくるのを見てイデアは感心する。自分は少し箒で飛んだだけで腹筋と腿がつりそうなのに。オルトに木登り機能を実装する予定は無いので、ただ眺めて感心するだけだが。
危なげなく地面に降り立った監督生は、しゃがみ込んだままのイデアを見下ろす。どうしたものか、と考えたが結局その横に腰を下ろした。イデアは監督生と目を合わせず、膝を抱えて口を開く。
「……監督生氏がもし、元の世界に帰る日が来たらさぁ、僕は泣くと思うんだよね。監督生氏のオトモダチとかが良かったな! って爽やかにお祝いしてる横で拙者はそりゃあもう泣きわめいて、帰ってほしくないでちゅ~って駄々をこねると思うんだよね」
監督生の頭の中に、地面に転がってじたばたするイデアの姿が浮かぶ。それはさぞ迫力があるだろうなと監督生はぼんやり思う。と同時に嬉しいような、安心するような感情が胸にこみあげてくる。
「だ、だから……えぇと……監督生が気にしても、もうすでに遅いっていうか……というか後輩のおなごが自分のこと頼ってくれたらそりゃ好きになっちゃうでしょこちとら陰キャの童貞なんだから……」
言いたいことは沢山あるはずなのに、うまく伝えられない。それどころか言わなくても良いことまで口から飛び出てしまう。狼狽したイデアはいつもの癖でタブレットを取り出した。しかし言いたいことがまとまらないのは焦りや照れだけが原因ではないのだ。監督生が何に悩んでいるのか、どういう言葉を欲しているのかなんてイデアには分からないのだ。結局、数文字だけ打ち込んだ画面をぐいと監督生に突き出した。
『次はいつ来るの?』
タブレット越しに、イデアは今日初めてまともに監督生の顔を見た。彼女の目の下に隈があるのに気が付く。監督生はタブレットから目をそらした。相変わらず表情が読めないため、にわかにイデアの背中から冷や汗が吹き出す。そんな彼の心中など知らない監督生は、思いきったようにイデアのほうに身を乗り出した。
「イデア先輩がよければ、明日にでも」
彼女の瞳はもう涙を湛えてはいなかったし、虚無に染まってもいなかった。
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