鋭角の夜が明けるまで
「監督生さん、今度はいつ兄さんの部屋に来るの?」
水曜日の昼前は1年生と3年生の移動教室がぶつかるタイミングである。2学年分の人混みでざわめいてるはずの廊下に、その声ははっきりと響いた。イデアの「弟」としてこの学園に存在を許されているオルトも、それ以上にイレギュラーな存在の監督生も、否応なしに人目をひく存在だ。喧噪がやや穏やかなものになる。監督生はモーセの十戒のごとく勝手に引いていく先輩同輩の間をぬって、オルトとその後ろで固まるイデアの元へ駆けた。監督生のあとを慌てて付いていくのはエースとデュース、エースの肩にまとわりつくグリムである。二人と一匹とも、そもそもイグニハイドの寮長と自分たちの親友に接点があったことすら初耳である。監督生があまり目立ちたくないのは分かっていたが、どうしても野次馬を追い払う気になれず、監督生が心配だという動機が先立つものの、周囲と同じように彼らに注目してしまうのだった。
イデアはオルトの名前をか細い声で呼んだが、何を言っても墓穴を掘るような気がして後に続く言葉を発せなかった。そのイデアの視線を受けてもお構いなしに、オルトは監督生の前に兄を押しやる。「こんなにいい天気なんだよ?」なんてテストでもないのにやけに外へ連れ出したがると思ったが、これが狙いだったのかとイデアは今さら気がついた。タブレットのカメラで見ているときは、単に人が多い時間帯(だから出歩きたくない)としか認識していなかったのだ。兄が他人と交流を持つことが、オルトにとってどんなに嬉しいことかをイデアは分かっていなかった。イデアは諦めて監督生に向き合う。身長差が大きいので監督生はイデアを見上げた。きょどきょどと彼の目が泳いでいるが、監督生は構わずイデアに話しかける。
「前借りた問題集、助かりました。今度は魔法薬学の本借りたいんですけど」
「エッ、あぁ、わ、分かった。探しておくね……」
「いつ頃伺えばいいですか」
「え、と、あ、明日以降……なら」
「わかりました。じゃあ明日伺います」
うん、とイデアはどうにかうなずいた。注目を浴びて顔から火が出るようだったが、どうせほとんどが監督生目当てだと思い込むことによってどうにかほてりを収めようとする。イデアが取り乱したのは、恥ずかしさに加えて監督生があまりにもはきはきと嘘をついたからだったが、イデアが直に話すときにどもりがちなのはいつものことなので誰も不審に思わなかった。それに焦っていても、とっさに話を合わせるだけの知恵はあるのだ。
「お願いします」
監督生は深々と一礼して友人たちのところへ戻って行った。
「お前いつの間にイグニハイドの寮長の弱みまで握ったわけ?」
「弱みなんて握ってないよ。向こうが良くしてくれるだけで」
監督生がはぐらかしているのがイデアの耳にも聞こえたが、そもそも向かう方向が逆なのだ。すぐに復活した騒がしさでそれ以降は聞こえなかった。
(弱みらしきものを握っているのは、むしろ拙者のほうなのでは?)
監督生の周りの奴らは彼女が木の上なんかで寝ていることを知っているのだろうか。先ほど漏れ聞こえてきた会話から察するに、監督生が自分を頼ってきたということは知らないんじゃないだろうか。そこまでイデアの思考が及んだところで、オルトがふわふわと低く飛び回りながらイデアに話しかけてきた。
「兄さん、いつの間に監督生さんに問題集なんて貸したの?」
「方便だよ、方便。そんなことより、あっちにも迷惑かかるんだからあんまり外で監督生氏が部屋に来てることは言っちゃだめだ」
イデアは低く抑えた声でオルトにそう忠告したが、弟は首を傾げるだけだった。あとでもう一度釘を刺しておかねば、とイデアは思う。同クラスのケイトなんかにかぎつけられたら更にやっかいだ。
あの会話がどこまで方便なのかイデアには判断できなかった。しかし口裏を合わせろと言われたときのために、その夜彼は慌てて部屋中をひっくり返した。ゲームソフトや魔法工学の本の山を崩しては積み上げながらイデアは昼の監督生との遭遇を反芻する。これまで監督生と交わしたやりとりで一番長かったのではないだろうか。監督生が次来たとき、問題集のことを言い出さなかったらどうしようか。イデアはもう使わないのだから押し付ければいいのだが、自分にその勇気があるかはその時になってみないと分からない。そもそも監督生が言うようにこっちが勝手に「良くしている」だけなのだ。別に部屋に入れてやる義理も、問題集を探して貸してやる義理もない。だが、監督生の言葉とともに、自分の目の高さよりもずいぶん低い位置にある彼女のつむじが思い出された。小柄なことは知っていたが、立った状態で並んだことが今までなかったのだ。監督生がオルトとほとんど変わらない身長であることを、今日になってイデアは気が付いたのだ。
(……まぁ、もし本当に当てにされてたら困りますからな。なんせあっちは陽キャのひとり。圧倒的に社会的立場が上ゆえ)
そう自分に言い聞かせ、イデアは発掘作業を継続する。こんなことがたまにあるから日頃から片付けておけばいいのに、とオルトの小言をくらいながらもどうにか魔法薬学と魔法史の問題集を見つけたときには、タブレットの画面はAM2:00の文字を映し出していた。
水曜日の昼前は1年生と3年生の移動教室がぶつかるタイミングである。2学年分の人混みでざわめいてるはずの廊下に、その声ははっきりと響いた。イデアの「弟」としてこの学園に存在を許されているオルトも、それ以上にイレギュラーな存在の監督生も、否応なしに人目をひく存在だ。喧噪がやや穏やかなものになる。監督生はモーセの十戒のごとく勝手に引いていく先輩同輩の間をぬって、オルトとその後ろで固まるイデアの元へ駆けた。監督生のあとを慌てて付いていくのはエースとデュース、エースの肩にまとわりつくグリムである。二人と一匹とも、そもそもイグニハイドの寮長と自分たちの親友に接点があったことすら初耳である。監督生があまり目立ちたくないのは分かっていたが、どうしても野次馬を追い払う気になれず、監督生が心配だという動機が先立つものの、周囲と同じように彼らに注目してしまうのだった。
イデアはオルトの名前をか細い声で呼んだが、何を言っても墓穴を掘るような気がして後に続く言葉を発せなかった。そのイデアの視線を受けてもお構いなしに、オルトは監督生の前に兄を押しやる。「こんなにいい天気なんだよ?」なんてテストでもないのにやけに外へ連れ出したがると思ったが、これが狙いだったのかとイデアは今さら気がついた。タブレットのカメラで見ているときは、単に人が多い時間帯(だから出歩きたくない)としか認識していなかったのだ。兄が他人と交流を持つことが、オルトにとってどんなに嬉しいことかをイデアは分かっていなかった。イデアは諦めて監督生に向き合う。身長差が大きいので監督生はイデアを見上げた。きょどきょどと彼の目が泳いでいるが、監督生は構わずイデアに話しかける。
「前借りた問題集、助かりました。今度は魔法薬学の本借りたいんですけど」
「エッ、あぁ、わ、分かった。探しておくね……」
「いつ頃伺えばいいですか」
「え、と、あ、明日以降……なら」
「わかりました。じゃあ明日伺います」
うん、とイデアはどうにかうなずいた。注目を浴びて顔から火が出るようだったが、どうせほとんどが監督生目当てだと思い込むことによってどうにかほてりを収めようとする。イデアが取り乱したのは、恥ずかしさに加えて監督生があまりにもはきはきと嘘をついたからだったが、イデアが直に話すときにどもりがちなのはいつものことなので誰も不審に思わなかった。それに焦っていても、とっさに話を合わせるだけの知恵はあるのだ。
「お願いします」
監督生は深々と一礼して友人たちのところへ戻って行った。
「お前いつの間にイグニハイドの寮長の弱みまで握ったわけ?」
「弱みなんて握ってないよ。向こうが良くしてくれるだけで」
監督生がはぐらかしているのがイデアの耳にも聞こえたが、そもそも向かう方向が逆なのだ。すぐに復活した騒がしさでそれ以降は聞こえなかった。
(弱みらしきものを握っているのは、むしろ拙者のほうなのでは?)
監督生の周りの奴らは彼女が木の上なんかで寝ていることを知っているのだろうか。先ほど漏れ聞こえてきた会話から察するに、監督生が自分を頼ってきたということは知らないんじゃないだろうか。そこまでイデアの思考が及んだところで、オルトがふわふわと低く飛び回りながらイデアに話しかけてきた。
「兄さん、いつの間に監督生さんに問題集なんて貸したの?」
「方便だよ、方便。そんなことより、あっちにも迷惑かかるんだからあんまり外で監督生氏が部屋に来てることは言っちゃだめだ」
イデアは低く抑えた声でオルトにそう忠告したが、弟は首を傾げるだけだった。あとでもう一度釘を刺しておかねば、とイデアは思う。同クラスのケイトなんかにかぎつけられたら更にやっかいだ。
あの会話がどこまで方便なのかイデアには判断できなかった。しかし口裏を合わせろと言われたときのために、その夜彼は慌てて部屋中をひっくり返した。ゲームソフトや魔法工学の本の山を崩しては積み上げながらイデアは昼の監督生との遭遇を反芻する。これまで監督生と交わしたやりとりで一番長かったのではないだろうか。監督生が次来たとき、問題集のことを言い出さなかったらどうしようか。イデアはもう使わないのだから押し付ければいいのだが、自分にその勇気があるかはその時になってみないと分からない。そもそも監督生が言うようにこっちが勝手に「良くしている」だけなのだ。別に部屋に入れてやる義理も、問題集を探して貸してやる義理もない。だが、監督生の言葉とともに、自分の目の高さよりもずいぶん低い位置にある彼女のつむじが思い出された。小柄なことは知っていたが、立った状態で並んだことが今までなかったのだ。監督生がオルトとほとんど変わらない身長であることを、今日になってイデアは気が付いたのだ。
(……まぁ、もし本当に当てにされてたら困りますからな。なんせあっちは陽キャのひとり。圧倒的に社会的立場が上ゆえ)
そう自分に言い聞かせ、イデアは発掘作業を継続する。こんなことがたまにあるから日頃から片付けておけばいいのに、とオルトの小言をくらいながらもどうにか魔法薬学と魔法史の問題集を見つけたときには、タブレットの画面はAM2:00の文字を映し出していた。
