鋭角の夜が明けるまで

その日は魔法史の授業で小テストがあったのだ。絶対に出席しなければいけない授業をどうにか乗り切ったイデアは、ふらふらと中庭を歩いていた。最短ルートで寮に帰りたかったためだ。大股で進む彼が、中庭に植わっている木々の横を通り抜けようとしたときである。がさ、と頭上で音がしたので物音に敏感なイデアは反射的に上を向いた。かなり上のほうの枝に、またがっている人影があった。幹にもたれかかっているようだが、体勢を崩して落ちかかっている。
「は!?」
もうそこからは無我夢中である。ずるりと落ちてきた人間を受け止めるために必死で魔法陣を展開し、どうにか受け止めようとする。実際は支えきれずに尻餅をついたのだが。相手の体格がもう少しよかった場合それだけでは済まなかっただろう。その小柄な人間にイデアは見覚えがあった。なんといっても今年度の新入生の中で一番の有名人である。色々な寮でトラブルを起こしたり解決したりしているのでその名前はますます知れ渡っている。こんなことでもなければ自分から関わり合いになりたくない人種だ。早鐘のように鳴り響く心臓を抑えて、イデアは目を閉じたままの監督生を軽く揺さぶる。こんなに近い距離で他人に接するなんてほとんど初めてのことである。監督生からは寮のシャワー室に置いてある石鹸の匂いがした。甘い香りなんて感じなかったのでイデアは安堵する。
「か、監督生氏、大丈夫でござるか……?」
ぱち、と監督生は瞼を開く。ついで大きくあくびをひとつした。
「おはようございます、イデア先輩」
「いやおはようじゃなくて」
寝てたの? 木の上で? とイデアは監督生の奇行に怯える。陽キャの考えることは自分にはまったく分からない。監督生は起き抜けでも淡々と受け答えをする。
「最近、夜あんまり寝れてなくてですね。図書室で寝てたら怒られたし、教室はグリムとかがうるさいし」
「だからって中庭の木の上とか。サバナクロ―の奴らじゃないんだから。フツーに危ないんだが」
他人の顔を見て話すのが苦手なイデアだが、このときばかりはつい常識的なふるまいを優先してしまった。オルトにするように「年長として年下の相手にちゃんと注意をした」のだ。監督生は話相手の顔をまっすぐに見る質である。したがって、二人の視線が至近距離でぶつかった。先に目を逸らしたのは監督生のほうだった。
「いいじゃないですか、別にどうだって」
イデアの心臓が再び早い鼓動を刻みはじめる。それは緊張だけではない。この瞬間まで、イデアにとって監督生は自分と対極の人種であった。ボドゲ部に彼女が少しだけ見学に来た時も例外ではない。明るくて、人にまっすぐ向き合える、けして諦めない人間。ただ眩しかったその相手が今イデアの前で見せた表情は、どこか捨て鉢で、虚無的ですらあった。目を離した次の瞬間にはいなくなってしまうような、言ってしまえば死の気配すらまとっていた。
「あのさあ、監督生氏、拙者の部屋で寝たら?」
イデアの心臓が破裂せんばかりに暴れている。その時のイデア自身にもなぜそんな申し出をしたのか分からないのだ。すぐに彼の小心者の部分が発言を撤回しようとする。しかし監督生の回答のほうが早かった。
「いいんですか、ありがとうございます」
彼女は普段しないような微かな笑みを浮かべる。それは確かにイデアだけに向けられたものだった。オルトがいたら心拍数の増加を指摘されていたな、とイデアは変に冷静な頭の片隅で考える。しかし、もし仮にオルトが同伴していたら監督生は彼に受け止められていたため、こんなことにはならなかっただろう。秋の涼しい風が、イデアの火照った頬を冷やしていった。
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