柳静

「プラネタリウム、とっても素敵でした!蓮二さんのおススメにハズレなし、ですね」
 斜めに射しこむ午後の光がアイスティーに透ける。ちらりと確認した時刻は十四時二十分。科学館内のカフェへの入店時間も静がオーダーするメニューも、ほぼ予定通りだ。よしよし、と心の中で頷く。
 デートにおいて、相手が楽しんでくれる場所に出かけるのは当然のことだ。大抵の人が喜ぶ遊園地などを選ぶのは手堅い判断といえるだろう。だが、よりよい手を知っているのならセオリーにしがみつくなんて馬鹿馬鹿しい。この科学館はデータに基づいて柳蓮二が出した最適解だった。
 午前中は展示をゆっくり見て回って物理法則を利用した面白い装置に興味津々な彼女を眺めたりそれに解説をはさんだり、サイエンスショーを観たりと有意義な時間を過ごした。夏休み中で館内には親子連れが何組もいたが、連れられている子供のほとんどが大きくても小学生ぐらいだった。それも科学館を選んだ理由の一つである。静くらい素直で賢くないほとんどの中学生高校生は、休み期間中まで勉強かよとこういう施設を食わず嫌いする。つまり、同級生などに遭遇して好奇の目を向けられる恐れが少ないのだ。
 アイスティーをストローでゆっくりかき回しながら、さりげなく静のドリンクの残量をチェックする。この分なら予定より数分遅く退店の提案をすべきだろう。その後ショップに立ち寄って土産物を一緒に見て、十五時過ぎ頃科学館を出る。数駅電車に揺られて着く海浜公園を散歩して、共に夕日を見られたら大成功だ。ニコニコしながら飲み物を吸う彼女を眺めつつ、そっと柳は口角を上げた。

今日のデートが大成功で終わる確率は八十五パーセントはあった。少なくとも、静が夜空をモチーフにしたオリジナルデザインのボールペンを気に入って購入するところまではプランは完璧だった。プラネタリウムでフォーカスされていた夏の大三角形のものを買うという点まで、全部データ通りだったのだ。
「うわっ、すごい雨!」
 外に出た途端に襲い来る瀑布のような眺めと音。柳の思惑などお構いなしの、その夏一番のゲリラ雷雨だった。
 多少の夕立ぐらいなら織り込み済みで雨宿り先のあてもあったが、篠突く雨はそれすら押し流す勢いだ。これだけひどいと帰りの電車が止まる可能性もある。出入口近くで進退を迷っていた様子の来館者たちが続々と覚悟を決めて土砂降りの中に歩き出す中、しかし柳は呆然と突っ立っていた。
 何故だ。気象情報なら気にしすぎだと言われるほどチェックしたが、今朝まで積乱雲の気配はなかったはずだ。もちろん世の中に絶対なんてものはないが、どうしてよりにもよって今日この日に……。
「ひゃっ!!」
 水のカーテンの向こうに一瞬光が閃いて、数秒後に轟音が轟いた。思わずといった感じで静が袖を掴んできてはっと我に返る。かなり近くに落ちたようだ。速やかに前もって調べていた最寄り駅までの最短ルートを思い出し、彼女に顔を向ける。
「やむを得ないな。雨具は持っているか?」
「あ、はい」
「よし」
 癇癪を起こし続ける空をひと睨みし、柳は折り畳み傘を広げた。

 駅には五分足らずで到着したが、その五分足らずですっかり濡れ鼠になってしまった。折り畳み傘がなんの助けにもならないほど容赦ない雨だった。
 帰宅ラッシュの数時間前だが、柳らと同様に家路を急ぐ人々で車内は満員だった。湿気でじっとりと重い空気の中、壁際に立たせた静を周りから覆い隠すような位置取りにつく。痴漢対策として混んでいる時はいつもやっていることだが、今日は特に他の男の目に触れさせたくなかった。薄いトップスが濡れて透けそうになっているのだ。
 静の家まで送る頃には少しはマシになっているだろうか……。そう思いながら車窓の景色を見ていると、くしゅんくしゅん、とくしゃみがすぐ近くで聞こえた。
「寒いか」
「少しだけ……」
 心なしか静の唇が青い気がする。空調は控えめだが、濡れた体では少しの風でも体温がとられてしまう。電車を待つ間に出来る限りお互いの水気を拭きとりはしたものの、それではとても足りない。風邪をひかせないためにこの柳蓮二が出来る最善の行動は――。
「えっ!?」
 上がった驚きの声には耳を貸さない。出来る限り静の体全体をすっぽり包みこむように抱きしめる。自分と比べるとかなり小さな体はやはりだいぶ冷えていた。体温を分けられるようにぴったりと密着して離さない。
「少しは温かいだろう」
 そう言うと、こちらの胸にぐりぐりと顔を埋めてきた。動いたことで髪に隠れていた耳が赤く染まっているのが見えるようになる。
「私はバカじゃないから風邪ひきませんよ」
「それは迷信だ。赤也も去年の冬高熱で数日寝込んだぞ」
「切原君は勉強に興味ないだけですよ。レギュラーにバカな人はいません。私ずっとずっと見てきましたから。蓮二さんのこともずっとずーっと」
 分かっているさ。笑って髪を撫でる。静がちゃんと柳を見ていることに気づいて、それから柳の方も静を目で追うようになっていた。
 電車を降りて自宅へ向かう間も、車軸を流すような雨は弱まる気配がなかった。時折遠雷を聞きながら双方黙って先を急ぐ。静の家にはあっという間に着いてしまった。
「蓮二さん、科学館の後の予定が雨で流れてちょっとショックだったでしょ」
 後は別れるのみとなった時、不意に静がそう言った。図星だったので一瞬言葉を返せないでいると、静はさらに言葉を続ける。
「今日やりたかったこと、今日じゃなきゃ意味がなかったことかもしれないから無責任かもしれませんけど。今日ダメなら次とか、来年のデートでしましょう。私ずっと待てますよ。これからもずっと、蓮二さんのことだけ見てますから」
 だから大丈夫。そう言って静は微笑んだ。そのまま家のドアを開けようとしたのを思わず呼び止める。
「俺もだ。俺もお前のことだけ見ている。離さないぞ、覚悟しろ」
 言ってるそばから重すぎるのではないかと反省したが、当の静は嬉しそうな笑顔でその言葉に頷き家に入っていった。夢に片足を突っ込んだかのようなふわふわとした頭のまま、柳はゆっくりと踵を返し帰途につく。いつの間にか雨は少し弱くなっており、夜にはプラネタリウムで見たような明るい星の一つや二つぐらい見られそうだった。
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