深雪と花弁
狼の短い悲鳴が辺りに響く。その声に思わず顔を上げ、予想していた激痛どころかまったくの無傷でへたりこんでいる自分がいることに彩夏は戸惑った。
今にも襲いかかろうとしていた狼たちは、彩夏ではなく仲間の一匹の方を向いて混乱している。よく見ると、そいつの頭に小さな黒い猫が取りついているようだ。取りつかれたやつは吠えたり暴れて振り落とそうとするが、がっちりしがみつかれて顔をかきむしられている。
「バウッ!!」
さらに別の黒い影も藪から飛び出して、完全によそ見していた狼たちに体当たりした。不意打ちを食らったニ匹が雪の上に転がる。黒猫は乗っていたやつごと地面にぶつかる前に見事な跳躍をして、第二の乱入者の隣に着地した。遅いぞと言わんばかりの顔で黒い犬だか狼だかを見上げている。
「ガルル……」
受けた痛手よりコケにされた怒りが上回ったらしく、狼たちは唸りながら邪魔者たちを睨みつける。そして、獲物である彩夏そっちのけで乱闘が始まった。
犬が体当たりしたり噛みついたりして狼たちの連携を乱し、黒猫が容赦なく顔を引っ掻いて戦意を挫いていく。今のうちに逃げなければと思いながらも、腰が抜けたのか彩夏はまったく立ち上がれなかった。やがて狼たちが逃げ腰になってきたその時、視界の端に何か違うものが動いた。
新手の狼が二匹。群れのボスとその連れ合いだろうか。不甲斐ない下っ端には目もくれず、一番図体の大きな奴が彩夏をめがけて走ってくる。黒猫と犬はもう一匹に阻まれ、こちらに来るのが一瞬遅れた。
今度は目をつぶることさえ出来ない。やられる、という思いが頭をかすめたその時。
「――動きが悪すぎるよ!」
飛びかかってくる狼との間に、突然壁が現れた。何かがぶつかるような鈍い音と忌々しげな狼の唸り声が聞こえる。
「怪我はない?」
聞こえるはずのない声が壁の上から降ってくる。信じられない思いのまま、彩夏は何とか返事をした。
「ありま、せん……」
「よかった」
こちらに背を向け、彩夏をその広く力強い背中に隠すようにして狼と対峙しているので、彼の表情は伺えない。しかし纏う空気は、ついさっき彩夏の首を刎ねようとした野獣と同一とはとても思えなかった。
「ちょっと待ってて。すぐ終わらせる」
一体どういう風の吹き回しなのか。頭が混乱して動けない彩夏をよそに、野獣は軽やかに雪を蹴って狼たちに襲いかかった。
狼たちが舞い上がるように蹴散らされていく。柱のような腕のひと振りで二匹いっぺんに吹き飛ばされ、野獣の太ももに噛み付こうとした奴はかわされて逆に踏みつけられ、蹴飛ばされる。真っ白な吹雪の最中で躍動する獣たちの姿は黒い影のようで、一瞬一瞬が絵画みたいだ。
出番は終わったと言わんばかりの黒猫と犬がそばに来ていたことに気づいた時には、狼たちは雪の上に転がり弱々しく鳴くばかりだった。一、二……いや、足りない。七匹しかいない、もう一匹は?
もう終わりかと辺りを見回す野獣の背後から、一際大きい個体がゆらりと忍び寄る。それが下半身に力を入れた瞬間、彩夏は思わず叫んでいた。
「後ろ!危ない!」
まるでお芝居の大詰め、殺陣の締めくくりのようだった。矢のように飛んできた狼の頭目を、野獣は振り向きざまに叩き伏せる。八匹目は雪の中に落ちた後、昏倒したのか動かなくなった。
野獣が咆哮を上げる。木々の枝からどさどさと雪が落ちるほどの凄まじい雄叫びに狼たちは縮み上がり、我先にと森の奥へ消えていった。
今にも襲いかかろうとしていた狼たちは、彩夏ではなく仲間の一匹の方を向いて混乱している。よく見ると、そいつの頭に小さな黒い猫が取りついているようだ。取りつかれたやつは吠えたり暴れて振り落とそうとするが、がっちりしがみつかれて顔をかきむしられている。
「バウッ!!」
さらに別の黒い影も藪から飛び出して、完全によそ見していた狼たちに体当たりした。不意打ちを食らったニ匹が雪の上に転がる。黒猫は乗っていたやつごと地面にぶつかる前に見事な跳躍をして、第二の乱入者の隣に着地した。遅いぞと言わんばかりの顔で黒い犬だか狼だかを見上げている。
「ガルル……」
受けた痛手よりコケにされた怒りが上回ったらしく、狼たちは唸りながら邪魔者たちを睨みつける。そして、獲物である彩夏そっちのけで乱闘が始まった。
犬が体当たりしたり噛みついたりして狼たちの連携を乱し、黒猫が容赦なく顔を引っ掻いて戦意を挫いていく。今のうちに逃げなければと思いながらも、腰が抜けたのか彩夏はまったく立ち上がれなかった。やがて狼たちが逃げ腰になってきたその時、視界の端に何か違うものが動いた。
新手の狼が二匹。群れのボスとその連れ合いだろうか。不甲斐ない下っ端には目もくれず、一番図体の大きな奴が彩夏をめがけて走ってくる。黒猫と犬はもう一匹に阻まれ、こちらに来るのが一瞬遅れた。
今度は目をつぶることさえ出来ない。やられる、という思いが頭をかすめたその時。
「――動きが悪すぎるよ!」
飛びかかってくる狼との間に、突然壁が現れた。何かがぶつかるような鈍い音と忌々しげな狼の唸り声が聞こえる。
「怪我はない?」
聞こえるはずのない声が壁の上から降ってくる。信じられない思いのまま、彩夏は何とか返事をした。
「ありま、せん……」
「よかった」
こちらに背を向け、彩夏をその広く力強い背中に隠すようにして狼と対峙しているので、彼の表情は伺えない。しかし纏う空気は、ついさっき彩夏の首を刎ねようとした野獣と同一とはとても思えなかった。
「ちょっと待ってて。すぐ終わらせる」
一体どういう風の吹き回しなのか。頭が混乱して動けない彩夏をよそに、野獣は軽やかに雪を蹴って狼たちに襲いかかった。
狼たちが舞い上がるように蹴散らされていく。柱のような腕のひと振りで二匹いっぺんに吹き飛ばされ、野獣の太ももに噛み付こうとした奴はかわされて逆に踏みつけられ、蹴飛ばされる。真っ白な吹雪の最中で躍動する獣たちの姿は黒い影のようで、一瞬一瞬が絵画みたいだ。
出番は終わったと言わんばかりの黒猫と犬がそばに来ていたことに気づいた時には、狼たちは雪の上に転がり弱々しく鳴くばかりだった。一、二……いや、足りない。七匹しかいない、もう一匹は?
もう終わりかと辺りを見回す野獣の背後から、一際大きい個体がゆらりと忍び寄る。それが下半身に力を入れた瞬間、彩夏は思わず叫んでいた。
「後ろ!危ない!」
まるでお芝居の大詰め、殺陣の締めくくりのようだった。矢のように飛んできた狼の頭目を、野獣は振り向きざまに叩き伏せる。八匹目は雪の中に落ちた後、昏倒したのか動かなくなった。
野獣が咆哮を上げる。木々の枝からどさどさと雪が落ちるほどの凄まじい雄叫びに狼たちは縮み上がり、我先にと森の奥へ消えていった。