深雪と花弁

「離せ!」

「離さん! 頭を冷やせ精市!!」

 野獣の力はとんでもなく強い。 重い鋼で出来た甲冑でも、気を抜けばたやすく振りほどかれてしまうだろう。 だが真田は怯まず満身の力で幸村を押さえ続けた。 彩夏を殺させるわけには、幸村の手を汚させるわけにはいかなかったから。

「離さないと――」

 雷鳴のような恫喝を遮るように、フシューッ!!という音がした。 そこで幸村はさっき自分に飛びついた邪魔者に再び気を向ける。 丸太のような腕に絡みつく褐色の蛇は、普通ならこんな真冬は活動出来ないはずだ。 にもかかわらずそいつは、射殺すような視線を恐れず鎌首をもたげて威嚇した。

「お前、手塚のところの……!!」

「よせ幸村。 お前らしくもない」

 柳も部屋に入ってくる。 きっとここまで全速力で駆けつけただろうに、息一つ乱れていなかった。 無理もない。 今の彼は血の通わぬ箒なのだから。

「俺たちはみんな、辻本の行動力を甘く見ていたようだ。 現状を何とかするために、彼女はこの数日思い悩んでいたんだ。 自分が家に帰るために、この城の閉塞感を解消するために……八十三パーセントの確率で、お前のためにも」

「うるさい」

「うるさいくらいに忠言をするのも臣下の務めだからな。 お前が明らかに道を間違いかけているのなら、あらゆる手を尽くして止めるとも」

「黙れ! お前たちなんか、俺がその気になればどうにでも出来るんだぞ!!」

「精市! いい加減にせんか!」

 金属の篭手が野獣の頬を打つ。 今の幸村なら真田や柳のみならずこの城の全員、言葉通りどうにでもしてしまえるだろう。 折って砕いて潰して引きちぎってただのゴミになったのを暖炉の火にでもくべてしまえるだろう。 だが真田に迷いはなかった。 それが怖くてこいつと一緒にいられるか。

「そんなお前を見るために、俺たちがあの日あの薔薇に縋ったと思っているのか……!」

 兜の奥の視線がまっすぐ幸村に届く。 今の真田は甲冑そのものなのだから、兜の中は空っぽで眼差しを送る目なんかないはずなのに。

「俺たちは辻本だけの味方じゃないぞ、幸村」

 痛烈な真田の視線と対照的に、柳の口調は穏やかだ。

「今日までずっと、お前の味方でいたつもりだ。 見た目こそ変わってしまったが、お前が健康な体で生きていて日々言葉を交わせるだけでも嬉しい。 そして、病や呪いのような不幸がまたお前を苦しめることを恐れている。 例えば、取り返しのつかない後悔とかな」

 人間の足で一歩分、柳は幸村に歩み寄る。

「今のその激情に身を任せて辻本を殺し俺たちを壊して。 それでお前は本当に満足するか? それがお前のしたいことか?」

 依然真田に羽交い締めされたままの幸村は、その問いから逃げられなかった。
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