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黒い光

 このじめじめした“地下牢”に入れられた当初の記憶については、不自然で人工的な暗闇か人が吹き飛び肉塊になるところくらいしか覚えていない。舌を噛みきらないよう口は開いたまま固定され、涎を垂れ流し、暴れないよう鎖に繋がれ、無闇にゴミを増やさないよう目隠しを着けられていた頃の俺は、きっとこの上なく惨めで無様な姿だった筈だ。自ら死を望む猛獣を生殺しにしているような、そんな景色を見ながら俺の目に射抜かれ飛び散った者は何人を超えただろう。数えるのはもうとっくにやめた。それだけの人を殺して、殆どの場合鉛のような肉を口に押し込まれ、絞った泥水のような血を水の代わりに流し込まれ、咀嚼させられ、消化させられた。
 ……まさか自由に動き回り、青緑に濁ってはいるものの、世界を、生きているヒトをまた見られる未来が来るとは、その頃の荒みきった俺には想像もできなかった。
 
 目が覚めた。
 暗い、部屋だ。何も見えない。目の当たりを何かが覆っていて、俺はそれの輪郭をなぞった。
「取るな」
 近くから男の声。初老だろうか。厳しく、また疲れている声だった。
「包帯を取るな。……私をこれ以上手こずらせないでくれ」
 死にたくない、と医者は別の言葉で呟いた。俺に障らないよう配慮したのだろうか。残念ながら意味自体は分かってしまったが。
 ぼんやりした頭で考える。俺は何をやらかして真っ黒い世界を見ているんだ?何が起こったのだったか。記憶の糸を引きずり出そうとすると、頭のどこかで警鐘が鳴った。『今思い出す必要は無い』と。俺は大人しくその初老の男の指示を待った。
「そこに居てくれ。必要以上に動くんじゃない」
 予想通りで肩透かしの男からの指示。動こうにも目が利かないから下手に動けない。
 暫くすると、部屋から人の気配が消えた。あまりにもすっと消えたものだから、鍵を掛ける音がしたにも関わらず医者が相当静かに出て行ったのか、はたまた今までのことが全て俺の生み出した幻だったのかすら分からなくなった。幻だとしたら、俺は現在進行形で気が狂っているのかもしれない。
 確かめる術がないまま暫く部屋の外から聞こえる微かな機械音に耳を傾けていた。たまに混じる人の怒声と金属が打ちつけられる音。ここは間違いなく俺の今までを知る場所では無いことだけは分かった。そしてここが只の医療機関でないことも。医療機関でこんなピストン音や滑車の音、地に静かに響くでかい歯車が廻る音がしてたまるか。気づいたらそればかり気になって眠れやしない。
 暫くその五月蝿い沈黙をやり過ごしていると、誰かが部屋に戻ってきた。さっきと同じ医者だろう。薬品の匂いがする。
「君は、自分がどのような状態であるか理解しているかい」
 首を横に振る。包帯だって本当は取りたい。しかしそれをしてしまったら取り返しがつかないことになると頭の何処かが警鐘を鳴らし続けている。ただ、取り返しのつかないことが何であるかはまだ分からない。
 男の声は特に哀れみも、嘲りも含んでいなかった。ただ、「そうか」と呟いた。教えてくれるわけではなさそうだ。
 また暫くして、男が口を開いた。
「管理本部は君に、ここで働いてもらいたいそうだ」
「俺が……ですか」
「ああ」
 目を直ぐに使えない、それどころかこの先本当に視界が晴れることがあるのかすら分からないような奴に与えられる仕事とは何だろうか。
「そこで、決まりとして君に新たな名前が与えられた。仕事上の名前だ」
 仕事用の名前ということは、少なくとも綺麗な内容の仕事ではない。当たり前だ。視界が利かないのだから。男娼とか、そんなところだろうか。……仕方の無いことだとしても嫌悪感は拭えない。
 俺の懸念を汲み取ったのか、男は付け加えるように言った。
「身を売るような水商売なんかじゃない。考えようによってはもっと楽な仕事だ。君はただ、人を見ていればいいのだから」
 理解が出来ない。目が利かない奴が人を見ていればいい仕事?どういうことだ。
 男はお構い無しに続けた。
「ここでの、君の新たな名前はエゼクサオンだ」
「___は?」
「どうかしたかね、いい名前じゃないか」
 エゼクサオン。EXECUÇÃOの綴りで合っているならその意味は……
「俺に、人の処刑をしろと?」
 途端、男が立ち上がった。慌てたのか机にぶつかり物が落ちる音が響く。俺が狩人育ちだから、語学には疎いと此奴も上の奴らも考えていたのだろう。沸々と怒りが込みあげてくるのが自分でも分かった。
「どういうことだ。人を見ることもないから斧を振り下ろせるとでも?」
 ……言ってから気づく。此奴は「人を見ているだけでいい」と言った。
 男の「許してくれ、まだ死にたくない」という半ばとち狂ったような呟きが聞こえる。腰掛けていた寝台から立ち上がり、一歩踏み出すと男が慌てて床を這いつくばってそこらに転がったものを掻き分けながら逃げようとする音が聞こえた。
「説明しろ」
 男は黙り込んだ。また一歩踏み出した。
「説明を、俺にも理解出来るようにしろ」
 男は「死にたくない」と乾いた声で呟いた。
 話にならない。鬱陶しい目隠しに指を伸ばした。外してはならないという声は最早聞こえなかった。
 男が必死に制止する声が何故か遠く聞こえた。
 引きちぎるように布を取り、男の恐怖で引き攣った顔を見た刹那__

 
 
 無様な肉塊と血が部屋に撒き散らされた。
 男はいなくなっていた。何が起きたのか理解出来ずにただ、顔に飛んだ血を拭った。舐めてみたが別段美味しいわけでもなかった。


 ………あ。
「リーシャは」
 リーシャはどこにいったのだろう。確か丘に出掛けて、そこで機械竜に襲われかけて、それから……
 非常事態を報せるサイレンの音が鳴り響くのを、思考停止した脳と身体でぼんやり聴いていた。部屋の扉を蹴破って入ってきた奴も三人、目の前で赤く染まって吹き飛んだ。仲間の屍体を盾に俺を取り囲む様を、抵抗も何もせず遠い風景を見ているように傍観していた。
 後頭部に鈍い痛みを感じ、暗闇の中に意識が沈んでいっても、自分が何をしでかしたのかはまだ理解できなかった。


 次に目が覚めた時は動くことができなかった。腕を動かすと鎖の擦れる音がした。目隠しもきつく、手が自由だったとしても自分では取れなさそうだった。
「お目覚めですか」
 無機質な男の声。機械っぽい雑音がたまに混じる。どことなく自分に似ているような。
「……鎖を外せ」
「残念ながら私にはその権限がありません。まだ新しいリデルが完成していないのでそれまでの辛抱です」
 機械的な溜め息。そして訳の分からない言葉の羅列。新しい統率者の完成?
「その様子だとまだ彼から説明を受けていないようですね。説明する前に彼が死んだのだから無理もない」
 貴方を咎めるつもりはない、と俺に似た声は言った。
「……ここが何処で、お前が誰かくらいは知りたい」
「ここはシエロの中枢、アルコ=イリスです。貴方はカール丘陵地帯の外れで竜狩りをして生計をたてていたそうですが、この国の帝都とその宮塔の名前くらいはご存知でしょう。……私の名前は知らなくてもいい。きっとこれが最後だから」
 は、と薄笑いが漏れた。野蛮で粗暴だと自負してはいるが、改めてこう言われるとなかなか腹が立つ。それも自分に似た声で。
「馬鹿にされたもんだな。お偉いさんに仕えるお前ら並には勉学にも勤しんだつもりだったが」
「それは失敬。確かに、貴方はあの名前の意味をご存知のようでしたね」
 そうだ。あのとんでもない名前。何故あんな不名誉な名前なのか。
「何故、処刑なんて名前がついた?」
 おや、と男は驚いた風に言った。
「貴方は、自分が何をしでかしたが故に鎖で繋がれているのか、また私のような機械人形が世話役としてつけられているのかまだ理解しきれていないようですね」
「……」
「貴方は今日だけでも既に五人犠牲者を出した。一人は外科医師、三人は警備員、もう一人は気絶した貴方の安否を愚かにも瞳孔で測ろうとした救護員」
 頭の中の整理が追いつかない。俺は何もしていない。襲いかかってもいない。気がついたら人が血肉に変わっていた。それだけだ。
 そう、ただ傍観していただけだ。
「まさに処刑という名前は貴方にお似合いではないでしょうか」
 もう居ない男の言葉が蘇る。「人を見ているだけでいい」。その意味を掴みかけると脳が拒絶した。
「受け入れ難い事実でしょう。しかしいずれ受け入れなければならない時がきますよ、それもそう遠くない日に」
 慈悲もクソもない。見せかけの感情しか持てない機械だから仕方がない。血や肉、腹の中にあったモノの臭いが鼻の奥で燻っている。嗅ぎなれた臭いの筈だったそれも今では余所余所しい。
「それにしても貴方は強い。私ですら嫌悪感を覚える惨状だったのに、いや、既にあの時狂ってしまったのか」
「お前はもっと分かりやすく喋ることができないのか」
「分かりづらく喋らないと貴方は察してしまうでしょう?」
 何だこの空を掴む様な会話は。理解させたいのかさせたくないのか。
「兎にも角にも、貴方に与えられた仕事はそういうものですよ、エゼクサオン。……もう会議の始まる時刻ですね、お暇しますよ」
 金属の擦れるような機械音と硬い足音が遠くなる。鎖を引きちぎって追いかけてやろうかと思ったが、鎖は思っていたよりもずっと頑丈で、俺の腕を絡めて離さなかった。
「その名前は……嫌いだ」
 聴く者もいない台詞を独り、吐き捨てた。


 それから何日経っただろう。囚人か道具のように扱われるのにも慣れ始めた頃、部屋を移動することになった。視界が無い自分には部屋の広さも何もあったもんじゃないが、あちらの勝手な都合で移されることになったのだろう。仕事を与えられて食わせてもらっている立場から言えることではないが、少しくらい職業選択の自由とか、知る権利だとか配慮してくれても良かったのではないか。確かにこれまで人を襲い喰ってはきたがそれとこれとは話が違う。
 ……まだ忌まわしい仕事は回ってこない。このまま一生回ってこなければいい。
 その微かな希望が打ち砕かれるのも遠い先の話ではないことも、薄々分かっていたような気がする。
 鎖の錠前が外され、手が一瞬自由になった。腹いせに殴ってやろうかとも思ったが、それをするだけの体力は精神と共に既にすり減りきっていて無いに等しかった。後ろ手に手錠か何かをかけられ、そのまま立たされる。久しぶりに立ったせいかよろけそうになるが、誰かが腕を組んで支えてくれたお陰で倒れずに済んだ。
「エゼクサオン、移動だ。歩けるか」
「歩けなくても引きずっていくんだろ」
「軽口を叩くだけの気力は残っているようだな」
 初めて意識がある状態で部屋の外に出たかもしれない。油と金属の臭い、歯車やピストン、蒸気が噴き出す喧しさが一気に襲ってきた。半ば引きずられるように昇降機に乗った。ボタンとレバーを操作する音、扉の閉まる音、ワイヤーと滑車が擦れる音。人の怒声や様々な言語で繰り広げられるちぐはぐな会話が聞こえる。アルコ=イリス。意味は虹だったか。確かに音だけ聴いていればぐちゃぐちゃの色彩を放っているようにも思えなくもない。渾沌、坩堝。音に色があるというのはこれいかに。
 ……延々と昇降機に乗っていると気が狂いそうになる。狂いそうだと思えるだけましなのかもしれない。ワイヤーのきりきりする音を聴いていると、そのまま深淵にまで降りていってしまうような気がしてしまう。
 ようやく昇降機が停まった。また引きずられながら重く痺れた足で歩く。あの喧騒も遥か上空から囁き声くらいにしか聞こえなくなっていた。相当深い場所だ。かちかちと歯車を回す音。重たい扉の開く音。しんと静まり返った冷えた部屋の中に入れられ座らさせられると、手枷が一瞬外された。その代わり首に冷たいものが当たった。
「おい、何をしてる」
「犬っころには首輪がつきもん、だろ?」
 下卑た笑いと共に男が言った。首にぴったりと金属の輪が嵌められた。上手く首を動かせない。
「あが、っ」
 急に首に全体重が掛かった。首輪に繋がっていた鎖を思い切り引かれたのだと気づいた頃には、脳が揺れる気持ち悪さと気管が塞がる息苦しさで床に這いつくばって喘いでいた。男達の嘲笑が脳内で木霊して気持ち悪い。その後にも身体中を蹴られたりやたら触られたりしたが、まるで自分のことではないような感覚で、その間はほとんどぼんやりしていた気がする。ただ、鉛の塊が胸の底にずぶずぶ沈んでいくような心地だった。抵抗しようにも右も左も自分が立っているのか這いつくばっているのかすら分からなかった。
 一頻り俺の身体を弄んだ奴らは鎖で俺を縛ってから部屋を出ていった。ようやく感覚が戻ってきた。鼻からだらだら垂れ流している液体は鼻血だろう。口の中も自分の尖った歯のせいで傷だらけだ。欠けたり取れた歯を吐き出そうとしただけなのに、頭を少し動かすだけで気持ち悪くなって嘔吐いてしまう。ズボンの中もぐちゃぐちゃに濡れていて惨めなことこの上ない。水商売よりも相当酷いのではないか。何故こんな目に遭っているのか思い出そうにも、それを思い出すことを怖がる臆病な自分のせいで結局分からずじまいだった。
 俺は何故こんなところで生きているのだろう。リーシャは?彼女は何処へ行ってしまったのだろうか。守ると約束したのに、こんな状態じゃ守ろうにも守れやしない。みっともない姿を晒したくないなと考えているうちに意識は沈んでいった。


 目が覚めても、見慣れた暗闇なのも首回りの嫌な感じも、身体中の痛みも、何も変わらなかった。服もまだ替えてもらえてないのか自分の体液で臭う。きっと大して気絶した時間が長くはなかったのだ。そういうことにしておく。吊り上げられた腕に血が昇らなくて感覚が無い。腹の底から込み上げるものを我慢できずに吐き戻す。喉が酸で焼けて痛い。楽な姿勢になりたいが鎖はそれを許さなかった。
 暫く苦しみ悶えていると、扉が擦れながら開く音がした。漏れ聞こえる話し声が息を呑む音でぱたりと途絶えた。
「さあ、こいつがお前の相棒、アマネセルだ」
 呼ばれたことのない名前。この声は俺に首輪を嵌めた男の声だ。
 つかつかといやに小気味よく踵を鳴らしてこちらにやってくる。やめてくれ。来るな。見るな。俺に近づくんじゃない。
 男は俺の後ろに回った。多分前方にいる誰かはうんともすんとも言わない。言えないのだろう、こんな化け物を目の前にしているのだから。
 後頭部を引っ張られる。目隠しのベルトの革が擦れる音。緩んでいく頭部の拘束。それが意味するものは。
 逃げろと叫ぼうとしたが口に硬い棒か何かを押し込まれたせいでそれは嗚咽にしかならなかった。髪を掴まれ顔を上向きにさせられる。
 嗚呼。誰かも分からないのに。何も知らないのに。目隠しが外れて、閉じられない視界に暗い光が飛び込んできた。ちらりと細い手足と、怯えた幼い少年の顔が見えた気がした。
「又の名を、エゼクサオン」



 血肉が部屋中に散らばった。拒絶し続けていた事実がそこにあった。謝る隙さえ無かった。悼む余裕も無かった。
 目隠しをまたきつく着けられ、金属棒が口から抜かれた。服を替えられ身体を乱暴に拭かれている間、あの少年の最期の顔が脳裏にこびりついて離れなかった。
 一生、こうして暗闇と人の恐怖に歪んだ顔と赤黒い血肉を目に焼きつけて生きていくのか?
 こうやって《罪》の無い人達を玩具のように壊してばらばらにしていくのか?

 __死にたい。

 切実にその思いだけに縋って息を吐いていた。
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