金魚の接吻
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「はよ〜」
「はよ!」
「おはよう二人とも、朝練お疲れ様〜」
朝から元気ですなあ、なんて声を掛ければこれが元気に見えるか、と黒尾は席に着くなり机に突っ伏してしまった。
寝不足かー?遠慮なくバシバシ背を叩く夜久に黒尾は心底嫌という顔を少し上げた。
「だってお前……昨日の今日でハイ元気デスって登校できる程俺だってオコサマじゃないワケよ」
夜久と視線が合う。何を考えているか言わなくてもわかる。「あ〜……」だ。
「大体苗字だってねぇ……」
「え、私が何?」
なんかしたっけ、と黒尾を見遣る。もちろん昨日自分のした事を忘れた訳ではない、夜久にバレたら「相談しろっつったろ!」とそれはもう怒られることが目に見えているからだ。
「あ゛~~ッたく……!」
「いくら何でも苗字のせいにするのは八つ当たり過ぎるだろ……」
もう言い返すのも面倒だ、と言わんばかりにまた伏せて外界と己をシャットダウンする黒尾。また夜久と視線が合えば肩を竦めて各々席へ着いた。私としては不謹慎だがあの出来事を少しでも考えてくれたんだな、と頬が緩んでいた。
それから何となく、バレない程度に授業中黒尾を観察していた。多少眠そうにしてはいたが普段もそう変わらないので、授業も普通に受けているし昼休みも四人で集まり机を囲んだし思ったより大丈夫そうだった。
しかしそれは放課後、呆気なく崩れ落ちる。
あの三人と親しいこともあって私は、マネージャーが居ないバレー部へ気が向いた時手伝いに顔を出す。決まった時間に決まったことを成す拘束性が嫌な私は部活に所属せず、今更マネージャーを探す事が面倒と言う理由で募集を掛けない彼らとは所謂利害の一致でこの緩い関係を守っていた。
そんな気紛れで手伝いに来た今日、休憩時間にスクイズを洗いに表の水道へ出ていた。
「あ、苗字〜」
「黒尾、お疲れ様」
「この後のメニューなんだけどさ」
そう言って練習メニューの書かれたノートを開き私へ次の指示を告げてくる。
了解を伝えようと視線をノートからあげた瞬間。
「あ……」
校舎の影で、身を寄せ合う二人。
「ん?」
私達は見てしまった。
こっそり口付けを交わす、青山さんと野田の姿を。
「…………そういうコトだから」
耳馴染みのない低い声を零して、無表情のまま体育館へ踵を返す。
私は殆ど反射的に、その腕を掴んでいた。
「……何」
「れ、練習終わった後さ、」
色々な感情で濁った、その深い瞳を。
私の何かで薄めたい、そう思った。
「教室で、待ってるから。来てくれない?」
◇◆◇
メニューを一通り終え、自主練に移行した皆へ軽く挨拶して人の少なくなった校舎を進む。しんとした廊下に私の小走りする足音と心音だけが響いていた。
あの後、黒尾は普段と何も変わらない様子で練習へ打ち込んでいた。
それでもふと、表へ視線を泳がせては濁った瞳を伏せる。
その横顔を見る度、私が心臓を握り潰される様な切なさに侵された。決定的な瞬間を目の当たりにしたのは彼なのに。
ぼんやりとあの横顔を思い浮かべながら、教室へ足を踏み入れる。
もう日も落ちかけて赤く照らされた室内は、窓枠の大きな影を落としていた。
「苗字」
悶々と巡らせていた思考から、彼の一言で引き上げられる。
振り返り彼の顔を見上げると、あの時と同じように、暗い瞳で俯いていた。
「……ひどいかお。」
愛しい顔が悲しみに濁る様を見ていられなくなって、思わず一歩、距離を詰めてその頬に触れる。
予想外だったのか黒尾は少し肩を揺らすも、私の顔を見るなり眉を下げて小さく笑みを浮かべた。
「なんでお前までそんなカオしてんだよ……」
その時黒尾が何を考えていたのか、後にも先にも私はわからない。
それでも、彼の固い指先が確かに私の頬へ触れていた。その事実だけで体の底から沸騰してしまいそうな、泣き出してしまいそうな熱さが込み上げる。
「私も、同じだからだよ。」
どちらからともなく、私が保っていた距離が壊れる。
まるで金魚のような小さな口付けは、一瞬だったと思えない程唇へ熱を残していた。
「……お前も失恋したっつってたもんな。人肌恋しいなら互いに好都合、だよな?」
確認するみたいに呟いた彼は、そのまま私を腕の中へ閉じ込めた。
その温かさに触れた、その香りに包まれた。それでも、その心には近付けない。
そっと背に腕を回して一層彼の体温を感じると、鼻の奥がツンとした。
「お、オイオイ泣くなよ……」
いつの間にか頬に伝っていた雫を少し戸惑いながらも黒尾が親指で掬い、撫でる。
私の顔を覗き込んでいつものように——いや、いつもより少し力なく——意地悪に笑って、垂れた横髪が濡れないよう耳へ掛けて、柔らかく掌で頭を撫でてくれる。
その仕草ひとつひとつが、指先が、とびきり甘くて。甘く感じてしまって。
私は目の前の胸板へ逃げるように顔を押し付けた。
「あっコラ、濡れるだろーが」
「ねえ」
「……なんデスカ」
「今日みたいに、今後もこうやって、呼んでいい、?黒尾も、いつでも私の事、呼んでいいから。」
この熱を手放したくないなんて、そんな権利は私にないのに。
「……寂しんぼだなァ。」
「あんな顔してた黒尾に言われたくない」
「それこそ人のこと言えねえって。」
頭に乗った掌でくしゃり髪を掻き混ぜた黒尾は、あの子とよく似た私の黒髪に指を絡ませる。
「……いいぜ、でも無理な時は無理だからな」
「そんなの私が一番わかってるよ……」
「流石。俺らのコトを一番近くで見てただけあるねえ」
そう言って腕を弛めていつもの距離に戻った顔を見上げると、いつもの表情。
……そう、一番近くで見てたのは、私なんだよ。
教室に落ちた影が夜に溶ける瞬間、言えないその一言を一緒に溶かした。