透明人間の秘密(連載休止中のため未完)


「どうしたの?なにかあったの。几帳面なお前が、朝食の時間になっても起きて来ないんだもの」

扉の向こうから、アリーナの心配げな声がする。

「もしかして体の具合でも悪いの?昨日は夕食もあまり食べていなかったみたいだし……。体調が良くないのなら無理することはないわ。開けるわよ。いい?」

「だっ、駄目です!」

クリフトは間髪入れずに叫んだ。アリーナが一瞬黙った。

が、すぐにむっとした声が返ってきた。

「どうしてよ」

「そ、それはその……」

「体の具合が悪いならお医者様に診てもらうべきでしょう。宿の者に頼んで町医者を呼べばいいわ。ひとりでこもっていたって治るものも治らないじゃない」

「そ、そ、それはそうなのですが」

クリフトは焦って頭を抱えた。が、手がないので頭など抱えられはしない。実際にはなにも出ていない袖が両耳の横でもぞもぞと動いただけだ。

その様子を目にし、クリフトはまた動揺して「うわああっ」と叫んだ。アリーナが「クリフトったら!なんなの。どうしたの?」とドアを荒々しく叩く。

「もう、無理矢理にでも開けるわよ!」

「駄目です!」

クリフトは慌てふためき、とっさに自分でも思っても見なかったことを叫んだ。

「じ、じつは今……そうだ、服!服を着ていないのです」

アリーナはまた黙った。今度の沈黙はさっきよりずっと長かった。

「……服を?」

「恐れながら、恥を承知で申し上げます」

クリフトは必死で言い訳をひねり出した。

「不肖このクリフト、幼き日より一度でいいから、服を脱いで一糸まとわぬ姿で朝まで眠ってみたいという夢がありました。

神話の絵画にもあるように、元来神とは衣服をまとってはおりません。なににも飾られぬありのままの姿にこそ高き神性が宿るとも言います。

アリーナ様を始め、皆様の御厚意でひとり部屋を頂けたので、ならば思い切って積年の思いを叶えてみようと、昨夜ついに実行を」

「そ、それはよかったわね」

「そういうことですので、申しわけありませんが今は……」

「いいえ、それなら服を着るまで待つわ」

扉の向こうのアリーナはきっぱりと言った。

「ここで待っているから、早く着替えてちょうだい」

「いえ、せっかくですからもう少しこのままでいようかと」

「もう少しっていつまで?じゃあ、朝食はどうするの。みんな心配して待っているのよ。

一体お前は具合が悪いの、そうじゃないの?どっちなのかはっきりして」

アリーナの声に苛立ちが混じったかと思うと、ふと声が弱々しくなった。

「……もしかしてわたしと話すの、嫌?」

「姫様……ち、違います!」

「お前がこのところずっと悩んで、苦しみながら戦っているのを知ってるわ」

扉がぎし、と乾いた音を立てた。アリーナが身をもたせかけたようだった。

「でも、わたしには何もしてあげられない。肩を並べて共に進むことしか出来ない。

お前の様子がおかしいのに気づいていたのに声をかけもしなかったのは、なんて言葉をかけてあげればいいかわからなかったからなの。

わたしほど役に立たないあるじはいないわよね。お前はいつもわたしの相談に乗ってくれるのに。だからせめて疲れを癒してほしくて、みんなに宿でのひとり部屋を提案したわ。こんなことしたって何も解決しないのはわかっているけど、少しでも元気になってもらいたかった。

いつもなら戦いの後は笑顔で話しかけてくれるのに昨日はそれもなくて、わたし寂しかっ……、いっ、いえ」

クリフトの胸がぎゅっと縮むように痛んだ。

(姫様)

「とにかく、待っているからここを開けて。お願いよ。顔を見て話したいの」

(わたしも、お顔を拝見したい)

こみ上げる衝動のままに今すぐ扉を開けて、敬愛する彼女の足元に膝まづき、「ご無礼を働きまして大変申し訳ございません」と心から許しを請いたい。

だがどう言えばいいのだろう。どうすればいいというのだろう。話すもなにも、今のわたしにはご覧頂くための顔がないのだ。

「……申しわけありませんが、もうしばらくひとりでいたいのです」

クリフトが力無く答えると、しんと静寂が漂った。扉の向こうの空気が傷ついたように震えるのがわかった。

彼女が涙ぐんでいる。こんなことは初めてなのだ。幼い子供の頃から今まで、一度だってなかったのだ。自分がアリーナの命令を拒み、言うことを聞かなかったことなど。彼女の言葉に「駄目だ」と答えたことなど。

「わかったわ」

かすれた声が静けさの中にぽつんと落ちた。足音が響き、徐々に小さくなりやがて聞こえなくなった。

クリフトは唇を噛み、拳を握りしめようとして、そのどちらも出来ないことに気づいた。

今の自分には唇も膝もない。何度鏡を見ても、ないものはない。どうやらこれは夢ではない。

扉の向こうから漂う彼女の悲しみの名残と、常軌を逸した現実が生々しくクリフトの前に息づいていた。
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