透明人間の秘密(連載休止中のため未完)


まったく見覚えのない男が、出会いがしらに意味ありげにほほえむ。

「やあ、こんにちは。クリフトさん」

「え……?」

扉の前に立っている見知らぬ人物の口から自分の名前がごく自然と出たことに、クリフトはびっくりして二の句が継げずにいた。

「えーと、あの……」

そうか、彼はきっとこの宿の人間なのだ。自分が部屋を間違えてしまったので、わざわざ迎えに来たのだろう。

にしても、宿帳に名前を書いた覚えはなかったが。

「違いますよ」

「!」

思っただけでなにも言っていないのにあっさりと否定され、クリフトはますます仰天すると、男の顔を穴の開くほど見つめた。

(だ、誰だ?どこかで会ったことがあっただろうか)

「ん?なんですか、そんなにじーっと見て。わたしがあんまり色男の優男だから、目が離せなくなっちゃいましたか?」

男はにこ、と笑っておどけるように肩をすくめた。

白いシャツの襟元に朱赤の蝶ネクタイをあしらい、裾を折り曲げた青いズボンを革のサスペンダーで吊っている、サーカス団の座長のようないでたちの男だ。

眼鏡をかけ、口髭をぴんと伸ばしている。艶やかな黒髪を、香油ですべて後ろに撫でつけて流している。

頬の削げた輪郭には、お前のことはすべてわかっているというような、不思議に悟りきった表情が浮かんでいた。目鼻立ちの整った色男に見えるが、じっと見ているとひどく個性的な容貌にも見えてくる。どこの国の出身なのだろう。

クリフトより年上のようだが、ある瞬間には同い年くらいにも見える。だが次の瞬間にはぐっと年を取ったようにも見える。どうしてだろうか、目が合うたびころころと印象が変わるのだ。

身体全体から放たれる存在感が異様に濃い。そのくせ少しでも視線を離すと、どんな顔をしていたのかたちまち忘れてしまいそうだ。

見ているとなぜか胸がもやもやして来る。わけがわからない。

クリフトはくらりと眩暈を感じ、顔をそむけて指で両のまぶたを押さえた。

「むっ、失礼な」

「す、すみません」

クリフトはあわてて男に向き直った。

「ちょっと、急に気分がすぐれなくなってしまって」

「たいていの人間はわたしを見ると、そう言いますね」

男は気にとめていないようにほほえんだ。

「まあ、じきに慣れますよ。藁ぶき屋根の田舎村の農民が突然まばゆい黄金のエルドラードに連れて行かれれば、誰だってその輝きに最初は戸惑うものですからね」

なんなんだ、その例えは……と心中で突っ込みながら、クリフトは曖昧な笑みを浮かべると、「どうもすみませんでした。今、すぐに出ます」と男の隣をすり抜けて部屋を出ようとした。

だが男はさっと腕を伸ばしてクリフトの行く手をさえぎった。

「さっきも言ったでしょう。部屋を間違えたのではないと」

男は静かな調子で告げた。

「天空より導かれし唯一無二の神の子供、クリフト。あなたが今夜泊まる部屋はここです。

うっとうしく落ち込んだあなたのために、愛すべき仲間たちが自らのへそくりを奮発し、この豪華な特等室を取ってくれたのです。

どうです、調度品のひとつひとつまで手のかかった素晴らしい部屋じゃありませんか。ソファのびろうどのあざやかな色彩、打ちたての布団の純白のたおやかさ、燃える香木の甘く豊かな香り。

いかに切羽詰まって生きているとはいえ、人間はありふれた日常に潜むたぐいまれな美しさにもっと目を留めるべきだ。

仲間の優しい心遣いに感謝して、今夜はここでゆるりと休むがいいでしょう」

「あなたは誰ですか。なぜわたしのことを知っているのです」

クリフトは表情を険しくして男を見た。

「なぜ……わたしを、神の子供などと」

「呼び名は人の子の生涯に永劫ついて回る。まるで日の光にしがみついて決して離れない影のように」

口髭の男は歌うように言った。

「だが神の子供は貴くも人の子の身体を授かりながら、神の神たるさだめを負うを呪っている。げに愚かなり。

その身が人の子たることを、喉から手が出るほど羨む存在もあるというのに」

「一体、なにを言って……」

クリフトは口をつぐんだ。眼鏡の奥で光る男の瞳が、不意にとほうもなく大きくなったような気がしたのだ。

じっと見ていると辺りの景色が溶けてねじ曲がるような感覚が訪れ、苦しくなって急いで目を逸らす。

駄目だ。この男の目を長く見ていられない。

「大丈夫ですよ」

男はにっこりと笑った。

「わたしを本能的に恐れるということは、それだけあなたが鋭敏な感覚を持っているという証。ご自分の第六感の鋭さをどうぞ誇って下さい。

さあ、それよりいつまでこんな狭苦しい入口に突っ立っているつもりなのですか?今夜のあなたにはこんなにも素晴らしい一宿の栄誉が与えられているというのに。

早くわたしを部屋に招じ入れて、カウンターに並んだこの宿一番の赤葡萄酒をご馳走して下さらないと」

「あ、ちょっと」

戸惑うクリフトの脇をすり抜けるようにして男はさっさと部屋に入り、図々しくもベッドの真ん中に勢いよく腰かけてしまった。

「おお、これはいい。天上に住まう極楽鳥の羽根にも似て、なんとも柔らかで心地良い。

こんなベッドで手足を伸ばして眠ることが出来たら、さぞよい夢が見られるでしょうな」

「……あなたは、誰なんです?」

もはや咎める気も起こらず、ため息をつきながらクリフトはもう一度問うた。

「そのように親しげに接して下さるからには、きっとどこかでお会いしたことがあるのでしょうが、申し訳ありませんがわたしには覚えがありません。

せめて、お名前をお聞かせ願えませんか」

「名前……。そうですね」

男は首を傾げた。

「考えたことがありませんでしたな。なにせ、今の今まで誰かに個人的に呼ばれたことがなかったものですから。

では……」

男はふと辺りを見回し、ベッドの真正面の壁に掛けられた油彩の静物画に目をやると、左隅に書きつけられたサインをまじまじと見つめた。

「ふむ、これでどうでしょう」

絵に向かってうんうんと何度か頷くと、やがてクリフトの方を振り返って言った。

「わたしの名前はプサン。

プサンと呼んで下さい」
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