透明人間の秘密(連載休止中のため未完)


考えてもしょうがないことを突き詰めて考えてしまうのは、自分の悪い癖だ。

(もう、やめよう)

重苦しい気持ちを引きずったまま、クリフトは寝台から身を起こした。

辺りをあらためて見回すと、部屋の中は思いのほか広く、花のような甘い香りが漂っていることに気づく。

クリフトは目を見開いた。

(これは……)

高価な伽羅(きゃら)の香木が、惜しげもなく焚かれているのだ。床には精緻な刺繍入りの絨毯が敷かれ、朱赤色のびろうど貼りのソファに、大理石造りのテーブルが置かれている。

木櫛や香油など調度品の揃えられた鏡台の奥には、さまざまな酒瓶の並んだカウンターまである。大ぶりな紋様が描かれた陶器の花瓶に、鮮やかな橙色の薔薇の花が活けられている。

エンドールの城下町でもない、行軍の途中にたまたま見つけた辺境の宿屋で、これほど上質にあつらえられた部屋にお目にかかることはめったにない。おそらく、この宿一番の特等室なのではないだろうか。

(おかしいな)

クリフトはにわかにそわそわし始めた。

これはきっと、なにかの手違いがあったのだ。路銀の限られる旅のさなか、こんな豪華な部屋に泊まるなどあり得ない。しかも、ひとりで。

トルネコに言われるがままここに入ったが、おそらくひとつ隣の部屋と間違えてしまったのだろう。あわてて寝台から降りてシーツを整えると、クリフトは急ぎ部屋を出ようとした。

すると、ドアのちょうど真下の床に、一枚の羊皮紙がはらりと横たわっているのに気がついた。

(これは……手紙?なにか書いてある)

この左側に傾いた金釘流の、お世辞にも美しいとは言えない、だがほほえましい書き癖は。

(アリーナ様の字だ)

クリフトはしゃがみ込んで羊皮紙を手に取ると、食い入るように眺めた。


「クリフトへ


お疲れ様

いつもみんなの傷の回復や治療をしてくれて、ありがとう

今日はここでゆっくり休んで 

元気を出してね

どうか、そんなに自分を責めないで

わたしたちはみんなあなたの味方だよ


あなたが元気でいられるように、わたしも神様に祈ってる」


書き手の名前は記されていない。

最後の文章の一人称が複数形ではなく「わたし」になっているのは、意図なのか、それとも単なる書き間違えだろうか。

(……アリーナ様。

いや、アリーナ様だけじゃない。皆さん……)

クリフトは胸を打たれて、個性的な文字が踊る文面を長いあいだ見つめていた。

(なんてことだろう。やっぱり、わたしは愚かだ)

皆、死の魔法の穢れを貰うのを嫌がって、クリフトを避けたのではないのだ。

思い詰めているクリフトを気遣い、今宵だけは余計な気がねも遠慮もなく、ここでひとりくつろいで心と体をじっくり癒せ、とはからってくれたのだ。

金銭に余裕のない旅の中、たったひとりのためにこのような演出をするのがどれほど大変か、財布番の自分が一番よくわかる。恐らく、仲間たちで個人的に集めた金を負担してくれているのだろう。

皆、それぞれの目的があって貯めていたのだろうに、わたしなんかのために。そう思うと、喉元が苦しくなった。

(ありがとうございます。心から、感謝します。

……ありがとう)

まつ毛の先から熱いものがこぼれ落ちそうになって、クリフトはあわてて上を向いた。

どうして今の今まで、忘れていたのか。自分は恵まれている。厳しい戦いの日々の中でさえ、こうして感じることが出来る。自分に向けられた無償の優しさを。温かい労わりの心を。

(もう決して、皆さんの前で落ち込んだり、うじうじと悩んだりしません)

ザキでしか戦うことが出来ないのなら、今はそれでもいい。生と死を司る唯一無二の不気味な存在であるならば、それでもいい。

人はすべて、与えられるべきものを与えられて生きている。大いなる矛盾を抱えた半端な「わたし」を生き抜くことも、きっと神がお与えになった貴い試練なのだ。

クリフトは羊皮紙を大事そうに畳んで懐にしまうと、立ちあがった。

今から皆の部屋を回り、ひとりひとりに頭を下げて礼を言うべきだろうか。いや、こんな心憎い演出に対して、それはあまりに無粋だ。

かと言って、このまま何食わぬ顔をしてひとりだけ豪奢な部屋でくつろぐのも気が引ける。そもそもいかな理由があれ、臣下があるじより格上の部屋で休むなど許されるべきではない。

だが、そんなことを言ってこの温かい気遣いを拒もうものなら、それこそ無粋の極みというものだろう。仲間たちの洒落た優しさを素直に受け入れる、堅物なクリフトもそのくらいの機転は働くつもりだった。

だが、いや、しかし……とひとり煩悶(はんもん)していると、不意にこんこん、と扉がノックされた。

驚いて返事をする前に、勢いよく扉が開け放たれる。クリフトは言葉を失い、入って来た人間の顔を見つめた。

見知らぬ男がそこにいた。
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