キスの熱


「あ……その、ええと……」

言葉が出て来ない。

向かい合うクリフトの表情には驚きと戸惑いと、それから深い安堵が浮かんでいて、アリーナはすぐに、彼が自分を探していたのだということに気がついた。

泥のはねた革靴に、濡れてすっかり汚れた法衣の裾。

(もしかして、ずっと……?)

「ものすごい音がしたので、もしやと思いこちらに来てみたのですが」

呟きにまじる吐息に、抑え切れぬ喜びが滲んでいたので、アリーナは不意にわっと泣き出しそうになった。

「ご無事でよかった……」

「ぶ、無事に決まってるじゃない」

こぼれ落ちそうになる涙を隠すため、急いで背中を向ける。

クリフトは心配げに眉根を寄せて、やがて言葉を選ぶようにおずおずと尋ねた。

「その……失礼ながら、不躾にお伺いしますが……アリーナ様、何かおありになったのですか」

(大ありだわ!)

「何かって、何よ」

「こんな夜にお一人でお出かけになって、一体何をなさっているんです」

「別に」

アリーナはぶっきらぼうに言い捨てた。

やるせなさが心を刺し、激しい苛立ちに形を変える。

この暗がりの中、クリフトがたったひとりで探しに来てくれたという喜びはすぐに、それでも結局、彼は自分ではなくミネアを選んだのだという悲しみに押しのけられた。

「雨も上がったし、その辺をただ散歩していただけよ。

クリフトこそ何の用なの。わたしはもう少しひとりでいたいから、さっさと帰ってちょうだい」

「本当にそれだけですか」

「うるさいわね!他になにがあるっていうのよ。

わたしはひとりでいたいの!ほら、早く帰ってったら……」

「だったら何故」

不意にクリフトの腕が、肩を掴む。

ぐらりと視界がゆらいで、アリーナは思わず息を飲んだ。

「泣いているんですか?」


いつのまにか溢れ出して、頬を伝って流れ落ちていく涙。


身体を屈め、心配でならぬようにアリーナを覗き込んだクリフトは、こぼれる涙を見て、まるで自分にもあるじの感情が伝染したかのように、ひどく悲しそうな表情を浮かべた。

「一体何があったのです」

低い声が不安げに尋ねる。

「誰かに何か、嫌な事を言われましたか。それともどこかお体の具合が良くないのですか。

ほんの少しでいいから、このわたしにお話ししては頂けないでしょうか」

「お前のせいよ!」

アリーナはたまらず叫んだ。

涙が喉に突っ掛かり、まるで小さな子がひきつけたような嗚咽がもれる。

「え?」

予想もしていなかった言葉に、クリフトは瞳を見開いた。

「わ……わたし?」

「そうよ!」

もう止められなかった。

こらえにこらえて来た感情がついに堰を切り、津波のように勢いよく溢れ、今思いきり吐き出してしまわなければ、自分が壊れてしまいそうだった。

きっと鼻の頭は真っ赤だし、顔じゅう涙でぐちゃぐちゃだ。

(それでもいい)

(きっとこんなに泣くことなんて、もうないから)

(クリフトを失うより悲しいことなんて、わたしにはないから……!)

「おっ、お前が、お前がわたしのことを捨てて……、

ミ、ミ、ミネアと結ばれたりするからじゃないの!!」

一瞬何を言われたのか解らず、クリフトはその場に機械のように硬直した。

数十秒の時が過ぎても頭に意味が届かず、小さく口を開けて瞬きを繰り返し、首を傾げてみる。

だが投げられた言葉をどうしても理解することが出来ず、クリフトはやがて恐る恐る尋ねた。

「あ、あのう、姫様……。

おっしゃることがよく、解らないんですが」

「何度も言いたくないわ!!」

アリーナはついにぺたりとその場に座り込んで、幼い子供のように声を上げ、盛大に泣き始めてしまった。

クリフトは茫然とアリーナを見下ろした。

「そっ、そりゃわかってるわよ。クリフトだって、好きな女の人くらい出来て当たり前だって。

でも……でも、どうして今なの?!

せめて旅が終わるまではこっそり隠していて、わたしが城に戻ってから、晴れて堂々と仲良くすればよかったじゃない!

こんなの、こんなのひどいよ。

二人が仲睦まじく過ごすのを、これからずっと傍で見ていなきゃいけないなんて、わ、わたしには耐えられないもの!」

「な、何故わたしが、ミネアさんと仲良くするんですか?」

クリフトはすっかり混乱しながら、手を伸ばしてアリーナを助け起こそうとした。

だがばしっと乱暴に振り払われて驚き、おろおろと辺りを右往左往した末に、なんとか主人と視線を同じ高さにしようと、焦って自分もその場に膝を着いた。

「本当は解ってる」

アリーナは前髪まで涙で濡らして、しゃくり上げながら言った。

「小さな頃からずっと、無心に尽くしてくれたクリフトの幸せを、誰よりも祝福しなければいけないのは、このわたしなんだって。

でも駄目なの。

クリフトがわたし以外の誰かを見つめて、わたし以外の誰かの名を大切に呼ぶ。

そう考えただけで、身体全部がばらばらに弾けてしまいそうなの!

だっ、だからわたしは、お前におめでとうなんて言うことは出来ないのよ……!」


しゃがみ込んで無防備に泣きじゃくるアリーナを、困り果てて見つめながら、クリフトは次第に脈拍が早くなるのを感じて、動揺を鎮めるため何度も息を吸った。


これは一体、どういう意味なのだろう?


目の前の彼女の涙を拭い、答えを尋ねてみたいけれどそんな勇気もなくて、捨て猫のように泣き続けるアリーナを、クリフトは言葉をなくして見つめた。
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