キスの熱



いつも感じていた。

彼がやって来ると空気が和み、その場に居合わせた者達の心を、凪いだ湖面のように穏やかにしてくれる。

修業を積んだ神官の証である、ミトラと呼ばれる長い聖帽を外すと、クリフトは蒼い目を和らげ、ミネアに微笑みかけた。

「随分よさそうですね。本当によかった」

「クリフトさん!」

ミネアは思わず叫び、ベッドから降りようとした。

だがまだ平衡感覚を取り戻していない身体はふらつき、慌てたマーニャがすかさず腕を回して支えた。

「ちょっとミネア!まだ動いちゃだめじゃないの」

「アリーナさんは……アリーナさんはご一緒ですか?」

突然声を大きくしたミネアに、マーニャと勇者の少年は、戸惑うように顔を見合わせた。

「姫様?いいえ」

クリフトは眉をひそめた。

「アリーナ様は、こちらにいらっしゃらないのですか。ブライ様なら先程階下でお見掛けしましたが」

「お前の後を追って、墓場に行ったはずだ」

「わたしはお会いしておりません」

つい先ほど墓で、背後に感じた微かな気配を、クリフトは思い出した。

「危ないわよう、こんな夜にひとりきりだなんて」

マーニャが心配げな言葉とは裏腹に、のんびりとした口ぶりで言う。

「暗くなって現れる魔物はかなり手ごわいわ。

もちろん、アリーナちゃんもとっても強いけど、魔法が使えないから、もし怪我をしてしまったら回復出来ないもの」

「探して来ます!」

急いで出ていこうとしたクリフトを、ミネアは呼び止めた。

「クリフトさん!」

その時、こちらを振り返ったクリフトか浮かべていた表情は、まだ一縷の淡い望みを抱いていたミネアに、既に答えははっきり出ているのだと、思い知らせるのに十分だった。

動揺と不安と、強い焦燥の入り混じった瞳。

(まるで、大切な母親を見失った迷子の子供みたいだわ)

(クリフトさんの心の中には、アリーナさんしか住んでいない)

(これまでも、これからもずっと)

(わたしの入り込む隙なんて、最初からどこにもない……)

それは引っ込み思案で人付き合いの苦手なミネアにとって初めての、我を失うほど心を奪われてしまった恋であり、あまりに早過ぎるやるせない終末だった。

目眩のように押し寄せて来る悲しみを、唇を噛んで必死にやり過ごす。

「早く行ってあげて下さい」

励ますように作った笑顔は、少しだけぎこちなかったかもしれない。

(でもこれが、今のわたしの精一杯……)

「まだアリーナさんの気が、この辺りに漂っているのを感じます。

そう遠くには行っていないはず。……それから」

ミネアはベッドの脇に置かれていた、萌黄色の上衣を手に取ると、そっとクリフトに渡した。

「夜は冷えますから」

「ありがとう」

クリフトは丁寧に礼を言ったが、それはいかにも心ここにあらずと言った様子だった。

「行って参ります」

「おい、待て」

勇者の少年が呼び止めると、クリフトに歩み寄って小声で耳打ちする。

「その背中の傷は、魔物の仕業か」

「……はい、墓場で」

「呪いは何者かの罠か」

「は。犯人はおそらく……」

ひそやかに囁かれた名前に、少年は微かに片頬を歪めた。

「それなら尚更、下手に騒ぎ立てる訳にはいかない。

悪いが後の始末はクリフト、お前ひとりに任せる」

「承知しました」

「それと、余計なお世話かもしれねえけど」

少年は早口で告げた。

「アリーナ、様子がおかしかったぞ。お前ら何かあったのか」

「え?」

クリフトは意外なことを言われたように、少年を見つめ返した。

「何かって……」

「俺には、泣いてるように見えた」

困惑するクリフトの肩を、少年はとんと軽く押した。

「よく解らないが、ちゃんと仲直りして来い。

いくら万人に優しい神官様だって、たったひとりの恋人を泣かせるのはまずいだろ」

クリフトの頬がさっと赤くなった。

「ア、アリーナ様は大切な主君で、恋人などではありませんが……、とにかく行って来ます!」

慌ただしく走り去っていくクリフトの後ろ姿を、ミネアはぼんやりと見つめていた。

(恋をして、初めてキスをして、その同じ日にこんなふうに振られちゃうなんて)

(しかもどちらも、当の本人に全くその自覚はないなんて)

「罪作りな男ねぇ……」

傍らで呟かれた声に驚くと、それはマーニャが発したものだった。

「あんなにいつも姫様姫様って、馬鹿の一つ覚えみたいに追い回してるくせに、当の姫様が誰を好きなのかには、全然気づいてないなんてさ。

ほーんと、鈍臭いにもほどがあるわ」

最もらしく腕を組むと、マーニャは顔をしかめて大袈裟に首を振った。

「ミネア、いくら顔がよくて優しくても、あんな鈍感で融通の効かない男はだめよ。

あんたにはもっといい男がいるわ。これから姉さんが、必ず見つけてあげるから、安心するのよ!

……だからぁ、元気出して」

「わたしは元気よ」

ミネアは微笑んだ。

「それにクリフトさんは、つまらない男の人なんかじゃない」

(きっとあんな美しい魂を持った人には、もう会えないだろう)

(でも彼のその魂も、アリーナさんがいたからこそ美しいままなんだわ)

(わたしは、アリーナさんのことを好きでいるクリフトさんに、恋していたんだ)


痛みはきっとしばらくは癒えないし、傷はすぐには塞がらない。


でもそう遠くないうちに、必ずちゃんと笑えるようになるはず。


「それより」

勇者の少年がくるりと振り返ると、意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「ミネア、お前さっきはどうしてあんな奇天烈な格好してたんだ。

お前もマーニャの影響を受けて、踊りにでも目覚めたのか」

ミネアとマーニャははっと思い出したように、同時に顔を強張らせた。

「……そうだわ、姉さん……」

「い、いやあね、もう着替えたんだからいいじゃないの……。

色っぽいカッコして寝込んでたら、朴念仁のクリフトも喜ぶかなと思ったのよ。

やあだ、ミネアちゃんったら怖い顔、あはは、は、は……」


その直後、二人の娘の甲高い怒声と悲鳴が、広い部屋中にけたたましく響き渡った。

扉をぱたんと閉めて廊下に出た勇者の少年は、指先で頬を掻いて、妙に楽しげに肩をすくめた。


「……ま、仲良くやれよな。みんな」
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