キスの熱



(エホバ、ああエホバよ………。


あなたは憐れみと慈しみに富み、怒ること真に遅く、愛と深き真実とに満ちる神。


愛ある親切を幾千代までも保ち、全ての咎と違犯と罪とを赦すことが出来る者)


「これはお前のことね、クリフト」

「えっ、な、何をおっしゃいます」

まだ幼い頃、サントハイムの教会の一室で、樫の木で作られた文机に着き、聖書を読みながら神妙な顔で呟く小さなアリーナに、少年クリフトは仰天して顔を赤らめたものだった。

「そのような素晴らしい人格を備え、神の教えを体現出来る者にいつかは必ずなりたいと考えてはいますが、わたしなど到底まだまだ」

「そうかなぁ。いつも誰に対しても優しいし、全然怒らないし、クリフトって神様の子供って感じがわたしはするけどな」

「か、神の」

耳まで真っ赤に染めて絶句した後、クリフトはおずおずとはにかんだ。

「もちろん、いつもそうありたいと志してはいます。

でもわたしは神ではなく、感情を備えた人の子。

悲しむ時は悲しみ、怒るべき時は怒る、そんな豊かな心を持つ人間でいたいとも思っていますから」

「クリフトが、怒ったりするの?どんなときに?」

「それは」

あなたが傷つけられた時。

そう言おうとして、幼いクリフトは再びアケビの実のように顔を真っ赤にした。

「なあに」

「い、い、いえ!」

大きく首を振り、慌てて口許にきゅっと力を入れて引き締める。

「わたしの大切な誰かが、不当な苦しみを負わされた時です。

わたしはその人を助け、守るために、ためらいなく怒れる人間でありたいと思っています」

アリーナは首を傾げた。

「でもそれ、右の頬をぶたれたら左も差し出せっていう神様の赦しの教えとは、少し違うんじゃないのかしら」

「……」

いつも居眠りばかりし、聖書を破っては紙飛行機にして飛ばしているくせに、この少女は時折妙に鋭いところを突くなと感心しながら、クリフトは肩をすくめた。



「姫様のおっしゃる通りです。


だからわたしは神の子供、失格かな」







「クリフト、クリフトぉ?!どこなの?」

「どうしたの、マーニャ」

宿の二階を、場違いなほど色っぽい踊り子の服を着たマーニャが、血相を変えて駆け回っている。

「あ、アリーナちゃん!クリフト、クリフト知らない?」

「クリフトなら、わたしより先に戻ったはずだけど」

アリーナは眉をひそめた。

「なにかあったの?」

「ミネアが、ミネアが」

マーニャは泣き出しそうに叫んだ。

「さっき少しだけ部屋を覗いたら、ひどく震えてて、あんまり息もしていないみたいなの。

移る病だから誰も近づけるなってクリフトには言われてるし、一体どうすればいいの?

ねえ、ミネアはどうなっちゃうの?!」

「落ち着いて、マーニャ」

日ごろの底抜けな明るさは影をひそめ、すすり泣いているマーニャに、アリーナは思いがけずミネアの病状が重いことを知り、唇を噛み締めた。

(クリフト、薬草を取りにでも行ったのかしら)

人一倍責任感の強い彼が、病気のミネアを放ってどこかに出掛けたとは考えにくい。

「ミネア、どうかミネアを助けて。ミネアがいないと、あたし……!」

「どうした、騒がしいな」

その時、物憂げで冷たい声と共に、階段をきしませてやって来たのは、

エメラルド色の冷たい瞳。

もしも精霊が人の形を取ればかくやあらんと言うような、並み外れて美しい容姿。

ここにいるアリーナやマーニャ、そして全ての仲間達が彼を助け、彼を支えるために集った、世界を救うという運命を負う、天空の血を引く勇者の少年だった。

「二人はここで待ってろ。俺が様子を見てくる」

アリーナが理由を話すと、緑の目をした少年は黙ってしばらく考えていたが、やがて感情のこもらない声で言い、ためらいなくミネアが眠る部屋に入ろうとした。

「ま、待って。近付くと移るかもしれないのよ!」

「俺は、半分人間じゃない。お前らとは血の組成が違うから大丈夫だ。多分な」

振り向きもせずに言うと、少年はすたすたと部屋に入った。

ベッドの傍に屈み込み、苦しげに横たわるミネアを凝視する。

「息はしてる。痙攣は……どうやらおさまったみたいだ。

熱が高くてひきつけたんだ。マーニャ、着替えを持って来てくれるか」

「ミ、ミネアは大丈夫なのね?死なないわよね?ねえ!?」

「俺は医者じゃない。クリフトのように薬の心得もない」

少年はにべもなく言い捨てた。

「けど、どうもおかしい。アイオア熱には詳しくないが、普通二、三日は菌が身体に潜むものだろう。

この症状はまるで病と言うより……」

言いかけて口をつぐみ、マーニャが着替えを取りにその場を離れたのを見届けてから、アリーナを振り返る。

「アリーナ。お前は確か、姉妹の父親の墓を掃除したと言ったな。

その時ミネアは、どんなふうに毒の付いた葉を触ったんだ?」

「ごめんなさい。じつはわたしはよく見ていないの」

アリーナは申し訳なさそうに言った。

「マーニャが庭園の裏の泉で、魔性の抜けたスライムの子供を見つけて、あんまりかわいくて一緒に遊んでいたから。

わたしは庭園の草抜きと掃除をしたけど、お墓を磨いて水を撒いたのは、ミネアひとりよ」

「これは病じゃない。呪いだ。なにものかがミネアに怨みの呪詛をかけている」

「な……」

アリーナは絶句した。

「どうして……そんなことを」

「さあな」

少年は顎をしゃくって、アリーナにこちらに来るように示した。

「見ろ、ミネアの首。呪詛の刻印がある。魔物の仕業かどうか解らないが、ずいぶんと手が込んだやり口だ。

このまま呪いが解けなければ、ミネアは命にかかわるだろう。

クリフトはそれに気付いて、出掛けたんじゃないのか」

「お、お墓に……?」

アリーナは横たわるミネアを見つめながら、言葉とは全く別の思いにとらわれていた。

レースのあしらわれた艶やかな夜着。胸元は大きく開き、美しい素肌がなまめかしくさらされている。

(病気なのにこんな格好で、クリフトとふたりきりで)

ベッドの端に置かれている萌黄色の上衣は、いつもクリフトが羽織っているものだ。

(どうして……?)

「おい、アリーナ」

「えっ……」

我に返ると、勇者の少年のエメラルドのような美しい目が、訝しげにアリーナをじっと見つめていた。
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