キスの熱


「はぁい、お待たせ。持って来たわよう」

甲高い声と共に扉が開き、真新しい生成りの綿のローブを抱えて、何故か妙に楽しげな様子でマーニャが部屋に入って来た。

「じゃあここに置いとくわね。後はよろしく!」

「ち、ちょっと待って!」

クリフトは慌てて呼び止めた。

「わたしは外に出ていますから、ミネアさんの着替えを手伝ってあげて下さいませんか。

早く温かくしないと、また熱が上がってしまう」

「あら、移るから近づかない方がいいって言ってたのはクリフトじゃないの。

アリーナちゃんには黙っといてあげるから、ここは役得だと思って、あんたが着替えさせてあげなさいよ」

「マーニャさん!」

クリフトに睨まれ、マーニャは肩をすくめた。

「やーだ、怖い顔。冗談の通じない奴ねえ」

「……今は冗談を言っている場合ではないんですよ」

この揃って見た目は極めて美しいが、中身はことごとく正反対の姉妹の、姉の方はどうにも苦手だ。

部屋を出て後ろ手に扉を閉めると、頭痛を感じてクリフトはため息をついた。

姉妹が幼い頃から、エドガン一家とは懇意にして来たという宿屋のあるじの心づくしで、ニ階の南端にある一等客室を開けてもらい、即席の病室として使わせてもらうことになった。

ミネアには疎外感を感じさせてしまうかもしれないが、皆への感染を防ぐためには、このくらい距離をとっておいた方がいいだろう。

(ノゲシ、ヨモギ、ハリエニシダにエンジュの葉)

懐から粉末状にした薬草が入った瓶を取り出し、中身を確かめながら呟く。

(このまま飲むには、少し苦すぎるな。蜂蜜を足してみようか。

ノゲシは苦味が強いうえに喉越しが悪くて、子供の頃からアリーナ様も、風邪を引いて飲むたびにむせて泣いてしまったものだったし)

ぎこちない笑顔を作り、足早に自分の前から立ち去っていった、もう十年以上も想い続けている少女の硬い表情が脳裏に浮かんだ。

(アリーナ様、ご気分を害されてしまったのだろうか)

(まさか、自惚れすぎだ。わたしなどにアリーナ様が、それほど思いを掛けられるはずがない)

余計なことは考えず、今自分が果たすべき責務は、身体の弱い仲間であるミネアをしっかりと看護することだ。

マーニャが部屋を出て行くのを見届けると、クリフトは扉を開け、普段は賓客専用として使われている天蓋付きベッドにそっと近付いた。

「ミネアさん、薬です」

打ち立ての布団の中心に横たわるミネアを目にしたとたん、さっと青ざめる。

(マーニャさんの仕業だ……!)

眠っているミネアが身につけていたのは、簡素な綿のローブなどではなく、胸元の大きく開いた、マーニャがよく好んで着る薄絹のドレス型の夜着だった。

細い首から続く汗の滲んだ鎖骨。

なめらかな胸元は女らしく隆起し、長く艶やかな髪が風に舞い散る花びらのように広がっている。

クリフトは慌てて目を逸らし、ベッドに背を向けた。

「クリ……フト、さん……?」

「し、失礼致しました!」

クリフトは顔を真っ赤にし、裏返った声で叫んだ。

「く、く、薬をですね、飲まないと」

「あり……がと、ございま……」

か細い声が、ふつりと途切れる。

クリフトは唇を噛み締めてしばらく悩んだが、やがて意を決してベッドの方へ振り返った。

褐色の額には無数の玉のような汗が浮かび、苦しげな呼吸のたびにひゅうひゅうと、建て付けの悪い窓から漏れる隙間風のような音がする。

瞬間、動揺した心が静まり、クリフトはすっと表情を引き締めた。

「ミネアさん、失礼します」

切れ長の蒼い目に、何物にもためらわぬ深い献身の光が浮かぶ。

それがどんなに自分を魅力的に見せているのか全く気づかぬまま、クリフトはベッドに近づくとミネアを抱き起こし、十字架の刺繍が入った萌黄色の上衣を脱いで、胸元にそっと掛けた。

「あ……」

「お加減はいかがですか。薬を飲みましょう。少しの間だけ、起き上がっていられますか」

ぼやけた意識の中で、安心させるように落ち着いた、少し低めの柔らかい声が響く。

ミネアは焦点の合わぬ目で、両肩を抱いて身体を支えてくれている彼の、日差しを浴びた海のような蒼い眼差しをぼんやりと見上げた。

(クリフトさん……?)

(これは、夢かしら)

寄せ合う身体から漂う、甘く香しい白檀の香り。

(いい匂い……)

(祈りのたびに焚く、お香とろうそくの匂い。

クリフトさんが毎日、神様に厳粛な祈りを捧げている証)

なんて綺麗な目をした人なのだろうと、初めて見た時からずっと思っていた。

常ならざる世界を見、声なき者の声を聞く感覚を備えた自分だからこそ解る、神への揺るぎない信仰に満ち、磨き抜いた水晶のように澄んだ彼の魂の色。

すらりと背の高い身体つきや、絵から抜け出して来たように整った顔立ちにも、華やかで胸が弾む魅力を感じたのも確かだったが、

どんなに見た目が麗しくても、その中に潜む心までが同じように綺麗なわけではないということも、姉と女二人きりで旅を続けて来たなかで、嫌というほど思い知っていた。

(こんな人を見たのは、初めてだった)

海と同じ色をした静かで優しい瞳。

彼の目には、全てを慈しみ護る大地の神ルビスが住んでいる。

(だから叶わないと解っていても、こんなにも惹かれて……)

切なさに胸が締め付けられた途端、視界に闇が降り、ミネアは再び意識を失い、細い首をがくりと折ってクリフトにもたれた。

「ミネアさん!」

クリフトは青ざめた。

(おかしいな。ただのアイオア熱にしては、進行が早過ぎる)

(この長雨だ。もしかしたら何か、他の毒にも感染しているのかもしれない)

(とにかく、薬を)

クリフトはミネアの身体をベッドに横たえると、傍らのテーブルから水差しと銀の匙を手に取った。

薬草の瓶の蓋を開け、ひとさじ分を掬い取り、その上に水差しから数滴の水を垂らす。

「ミネアさん、薬です。飲んで下さい」

だが匙をあてがってもミネアの喉は動かず、小さく開いた唇の端から、流し込もうとした深緑色の液体は全て力無くこぼれ落ちてしまった。

このまま解毒剤を飲まなければ、弱い身体は危険な状態に陥るだろう。

クリフトは食い入るように、ミネアの血の気の失せた顔を見つめていた。

貧しくて医院で治療を受けられない年寄りや子供達が、サントハイムの教会には数多く運ばれて来る。

自分で薬を飲む事も出来ないほど弱った者達に、医療従事者としてやむを得ず施すやり方があった。

クリフト自身もこれまで、何度となくその方法で子供達を救った。大切な命を助けるためになんの迷いもなかった。

「ミネアさん。ミネアさん!」

クリフトはミネアの肩をそっと押して呼び掛けた。

しかしミネアは荒い息を漏らすばかりで、全く返事をしない。

眉間に苦しげな皺が寄せられるのを見て、ついにクリフトの心は決まった。

薬草の粉を水で溶き、自らの口に含む。

横たわるミネアに覆いかぶさると、クリフトはそっと頭を抱え上げ、わずかにためらったが、やがて目を閉じて、眠るミネアと深々と唇を重ねた。
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