雪花



ロザリーは蒼き塔の最上階の窓から身を乗り出し、眼下に広がる景色を見つめた。

空気が甘く薫る。生まれたての鳥の雛の羽根でくすぐられるような、やわらかなぬくもりが頬を撫でる。

外の世界は、もうすっかり春だ。

森から雪は消え、深緑色の若葉が萌え、庭園には色とりどりの七色の花が咲き乱れていた。

(ロザリー様、そのようにお体をお出しになってはいけません)

恋人ピサロとよりも長い時間を共に過ごし、いつしか深い親愛の情を抱いていた緑金色の甲冑の騎士の、困ったような声が耳元で響いた。

(あまり窓から身をお乗り出しになると、下へと落ちてしまいます)

「大丈夫よ。落ちたりなんてしないわ、騎士様。

でも、いつもわたしのことを心配してくれてありが……」

振り返ったロザリーの顔から、ほほえみが消えた。

後ろには、誰も立っていない。

緑金色の甲冑の騎士はもういないのだ。

(いつ、帰って来るのかしら)

ロザリーはため息をつき、再び窓の外へ瞳を向けた。

(ピサロ様に任された大切なお仕事は、とても長くかかるのかしら。

騎士様も、ピサロ様も……わたしのそばにいてほしい人は、みんないなくなってしまう)

そして、ピサロ様は魔族の王として、恐ろしい野望のためにその身を犠牲にしようとしている。

ロザリーは幾十日か前に前触れもなくここへやって来た、奇妙ないでたちの人間の一団を思った。

片耳に蒼いピアスを嵌め、緑色の不思議な瞳をしたうつくしい少年と、彼を中心として佇む七人の仲間たち。

みな、激しい戦いを終えたばかりのようにひどく疲弊した表情を浮かべていたが、そのまなざしは研磨し抜かれた宝石のように決然と澄んでいた。

精霊エルフである自分を映したとたん、少年の瞳に浮かんだ深い驚きと戸惑いが、ロザリーはひどく気にかかった。

まさか、彼にはエルフに仲の良い友人でもいるのだろうか。人間がエルフと共存するなど決して考えられないことだが、あれは確かに自分と誰かを重ね合わせている目だった。

引き結ばれていた唇をきつく噛み、時間をかけて動揺を収めると、緑の目をした少年はロザリーを穴が開くほど見つめ、平淡な声でぽつりと呟いた。



「ちゃんと、届いたぞ」と。





途端に、ロザリーの瞳からルビーの涙があふれた。

(祈りが、届いた)

翼を持たず、蒼き塔から出ることも出来ず、あのお方を救うためになにひとつ行動することが出来ない自分の、たったひとつの最後の望み。

わたしの祈りは届いたのだ。

喜びと希望が堰を切ってあふれた瞬間、なぜか心は恐ろしいほど静まり返り、自分でも思いもよらなかった言葉が、凛とした響きを携えてロザリーの口を突いて出た。


「どうか、お願いです。


あの方を……デスピサロを、止めて下さい。





たとえそれが、あの方の命を奪うことになろうとも」









ピサロ様。


いとしい、いとしいピサロ様。


こんなことを口にしたわたしを、もしかして貴方はお怒りになるでしょうか?


いいえ、きっとお怒りにはならない。


わたしにはわかる。貴方はいつもどこかで、死という誘惑に惹かれていた。


己れを邪悪だと偽る必要もない、王としての野望に追い立てられる必要もない、凪いだ海のようにただそこに横たわる、しずかで穏やかな死に。


でも、安心なさって下さいね、ピサロ様。


もしも貴方が死へと旅立たねばならないのなら、わたしは必ず供をします。


貴方とわたしは、いつも一緒。生きてそう出来なかったのだから、体という重いかせを失くしたその時こそ、わたしは籠から放たれて、いつでもあなたのそばにいる。


そして、もうひとつだけ祈りが届くなら、ピサロ様。


それでもわたしはやっぱり、貴方と生きていたいのです。


貴方とわたし、窓辺で寄り添いながら見たのは、冬の終わりに咲いては消える、つめたい雪花なんかじゃない。






あなたがわたしに注いでくれた愛はいつだって、消えてなお咲くあたたかい命の花だったから。 

  





だから、どうか野望を捨てて、わたしと。










(ロザリー)




その時、ロザリーははっと顔を上げた。

「ピサロ様……?」

ロザリーは窓から身を乗り出して辺りを見回し、体を翻してもどかしげに階段へと駆けだした。

寝台の隅に丸くなっていた蒼いスライムが、仰天して飛び上がった。

「ロザリーちゃん!どこへ行くの?ここから出ちゃ駄目だよ!」

「ピサロ様が来るわ」

ロザリーはうわごとのように囁いた。

「ピサロ様が来て下さる。ピサロ様が今、ここへ向かっているの」

「ロザリーちゃん!だめ!だめ!外はだめ!」

スライムは必死になってロザリーにしがみついた。

「外に出てはだめ!ロザリーちゃん、消えちゃうよ。籠から出ると、全部だめになっちゃうよ。

きれいな花は、摘まれちゃうんだ。ロザリーちゃん、雪みたいに溶けて消えちゃうよ……!」

「ピサロ様に会いたいの。わたしが、自分の足で一番にお迎えしたいの。

光の下で。自由な外の世界で」

ロザリーはほほえんで、スライムをそっと押しのけた。

「だってピサロ様は、花がうつくしいことも、光が温かいことも御存じだもの。

とても、お優しいお方なの。きれいな名前を下さったの。

わたしのことを、愛して下さるの」

「ロザリーちゃん!!」

ロザリーは制止も聞かず、階段を駆け下りて蒼き塔の扉を開けた。

闇が裂け、眩しい黄金の色彩が辺りに立ち込める。

およそ幾年かぶりに浴びる太陽の陽射しが、彼女の体をあえかな光で包み込んだ。

ロザリーは空を見上げた。

遠くで、銀色のまぼろしが「いい子にしていたか?」とほほえんだような気がした。





ピサロ様、あなたは闇を照らす輝ける月。




貴方と見つめる未来が生でも、死でも、わたしはこんなにも愛している。







「へへへ……、やっと出て来やがった。

おい。そこのエルフの女」

その時、棍棒と鞭を手にした男達が、うすら笑いを浮かべながら後ろから近付いて来た。



ロザリーは振り返った。









(ロザリー)



時空を超え、地底の闇から地上の光の世界へと、ピサロは駆け続けた。

体が軽い。

愛する者のところへ向かう今この時、自分は誰でもない、ただひとつのそこにある命だった。

ピサロの紫色の瞳に、空から降り注ぐ太陽の光が静かに溜まり始めた。


(ロザリー)


ピサロは走った。


森が割れ、視界が開ける。





懐かしいあの蒼き塔へは、もうすぐたどり着く。








~To be continued in「DRAGON QUESTⅣ chapter six」~





-FIN-


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