雪花




やがて、時が過ぎた。



季節は移ろい、太陽が空を巡る時間は日ごとに長さを増し、ロザリーヒルを覆うあれほど深かった雪も溶けて消えた。

土を押しのけて芽吹く若葉に、大地は緑黄色を帯び始め、大気に甘い花の香りが混じり始めた。

冬の終わりの幾日かだけ咲いた雪花を、ピサロがロザリーと共に見ることはなかった。

「人間を滅ぼすことに決めた」と告げたあの日以来、ピサロはロザリーヒルを訪れていない。冬は二度訪れて去り、もう一年以上にもなる。

人間は、未だ滅びてはいない。

風の便りに、正体不明の複数の人間の一団が世界各地に出没し、行く先々で魔族を討伐していると聞いた。

だが、天空の勇者は既に死んだはずだ。ピサロ様にとっての脅威は、もうこの世界には存在しない。気をつけておかなければならないのは、むしろエビルプリーストら臣下の反逆だろう。

魔族の王都デスパレスは遠い。

この東の大陸の辺境でひっそりとロザリーを守護して暮らす緑金色の甲冑の騎士には、軍の中枢で何が起こっているのかも、ピサロが来ない限り把握しようもない。

ロザリーはあれ以来、一度もピサロのことを口にしなかった。

なにごともなかったかのように明るいほほえみを浮かべ、これまでと変わらず、蒼き塔の最上階で静かに暮らしている。

寂しいとも、会いたいとも言わず、涙も見せず気丈に振る舞い続ける彼女に、姿を現さなくなったピサロのことをどう思っているのか、尋ねることは出来なかった。

ただ、知りたかった。

ピサロ様は今どこで、なにをなさっているのだろうか。

あれほど欲しいと渇望した「究極の力」を、既に手に入れられたのだろうか。

あの銀色の月のようなおうつくしいお姿は、力を手に入れるため古代秘術に食い荒らされ、地獄の帝王と同じく、もはや目を覆う異形と化してしまったのだろうか。

緑金色の甲冑の騎士は、蒼き塔の窓辺の寝台を見た。

ロザリーが身を丸め、眠っている。

この所、夜になると彼女は窓を開け、膝まづき、なにかに憑かれたように一心に祈り続けている。

囁くような祈りの文句が、なんと言っているのかはわからない。ただ時折、「届いて」という言葉がかすかに聞こえることもあった。

彼女は祈りを誰に届けたいのだろう。

ピサロが来なくなってから、食事の量もぐんと減り、今にも消えうせそうなほど痩せ細ってしまった。

青白い顔で懸命にほほえむのを見ていると、自分にはどうすることも出来ないと解っているからこそ、胸がちぎれそうに痛む。

(そうだ。花を摘んで来よう。

お目覚めになられた時、傍らに花があれば御気分が慰められるだろう)

緑金色の甲冑の騎士はそっと階段を降り、ロザリーヒルの外へ出た。

降り注ぐ春の陽射しがまぶしい。

魔族は本来、太陽の光を嫌う。基本的に草原よりも暗い山岳部に潜み、夜間に力を増す。魔物の中でも相当に力のある部類ではないと、こうして直射する陽光に長く身をあてるのはつらい。

だが、緑金色の騎士は不思議とそれを感じなかった。

(むしろ、心地良い。どうしたことだろう)

きよき精霊エルフとこれほど長いあいだ共に過ごすことによって、自身の体から少しずつ闇の属性である魔性が抜け始めていることに、彼は気付かない。

「おにいちゃん。きれいなヨロイのおにいちゃん。こんにちは」

その時、足元でなにか柔らかいものがころころと揺れて、緑金色の甲冑の騎士は思わず「うわっ」と飛びすさった。

「怖がらないでよぅ。ぼく、悪いスライムじゃないよー」

「ス、スライム……?」

緑金色の甲冑の騎士は、草むらから飛び出した蒼い塊を見つめた。

「スライムが、どうしてこのような所にいるのだ」

「春が来たから、遊びに来たんだよ」

小さな蒼いスライムは、「花の楽園、ロザリーヒルへ。ぷるぷる!」と叫び、丸い目を輝かせて嬉しそうに緑金色の甲冑の騎士の周りを跳びはねた。

「おにいちゃんは知らないの?ぼく以外にも、ここにはたくさんのまものが遊びに来ているよ。

ここに来ると、まものの悪い心が体から消えて、楽しい気持ちがいっぱいあふれて来るんだ。

ぼく、お友達がほしいの。優しいひとと仲良くなりたいな。いじめられるのはいやだよ」

「……友達、か」

緑金色の甲冑の騎士はその場にしゃがみ込んで、分厚い小手で覆われた手のひらに蒼いスライムを乗せた。

「お前と同じように、すごく友達が欲しいと思っている人を、わたしも知っている」

「ほんと?ほんと?じゃあぼくを連れてって、その人のところへ!その人はなんて名前なの?」

「ロザリー様だ」

「ロザリーちゃん!なんてきれいな名前なんだろう。この楽園と、おんなじ名前!」

スライムは緑金色の甲冑の騎士の手のひらで跳びはねた。

「ぼく、その子のお友達になる!その子は、ぼくをいじめたりしないよね?優しいひとだよね?」

「ああ。世界で一番、お優しいお方だ」

「素敵!素敵!ロザリーちゃんがお友達。ヨロイのおにいちゃんもぼくのお友達!」

スライムは、はっとして跳びはねるのを止めた。

「……あ、でも……」

「どうした」

「う、うん」

スライムは気まり悪そうにうつむいた。

「あのね……ぼく、ここに遊びに来るうちに、体の中の悪い心が雪みたいに消えてなくなったんだ。

代わりに少しだけ、未来が見えるようになったの」

緑金色の甲冑の騎士は、兜の面頬の奥の瞳を見開いた。

「それは、すごいな」

「えへへー、でしょ、でしょう!」

蒼いスライムは得意そうに、頭のてっぺんの愛らしい突起をひらひらと左右に動かした。

「それでね、それでね。今ぱぁっと見えちゃったんだけど」

スライムは褒められた嬉しさのあまり、なんでもないことのように明るく叫んだ。

「ヨロイのおにいちゃん、もうすぐ死んじゃうよ」

緑金色の甲冑の騎士は黙った。

「……そうか」

「さあ、早く!早く!連れてって。ロザリーちゃんのところへ、ぼくを連れてって!」

「ああ」

騎士の重厚な小手から鎧の肩先へひょいと乗せられ、蒼いスライムは喜びに有頂天になった。

「わーい、わーい!友達が出来た。ぼく、ロザリーちゃんと一緒に遊ぶんだ!」

「あまり、騒ぎすぎてはいけないぞ」

緑金色の甲冑の騎士は苦笑した。

「ロザリー様がびっくりなさってしまう」

「うん!ねえ、ヨロイのおにいちゃん、ここは素晴らしいところだね。

花がたくさん咲いてる。ここに遊びに来ると、みんなの心も花が咲いたみたいにきれいになる。とっても素敵な所だね!」

「ああ」

緑金色の甲冑の騎士は、空を見上げた。


太陽の陽射しが、体を覆い尽くす鎧をきらめかせる。




「ここは素晴らしいところだ。

花が咲く。季節が巡る。



闇が、光に変わる。




ロザリーヒル。ここは、素晴らしいところだよ」
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