雪花



血の匂いにまみれたあるじを、涙で瞳を真っ赤にしたロザリーから遠ざけるように、隣室の扉を素早く閉めて掛け金を下ろす。

緑金色の甲冑の騎士はピサロの体を両腕で支え、すぐさま真鍮造りの椅子に座らせた。

「不調法な部屋で、申し訳ありません。日頃使わぬこの部屋には、座り心地のよい椅子がなく。

只今すぐに、毛布をお持ち致します」

「余計な斟酌(しんしゃく)は要らぬ」

傷の痛みをこらえていたのか、椅子に腰を下ろすと、ピサロは眉を歪めて小さく息を吐いた。

その様子を緑金色の騎士は、兜の面頬の奥で光るまなざしで注意深く見つめた。

「傷を拝見します。失礼、お許しくださいませ」

漆黒の上衣に手を掛けようとすると、ピサロがわずかに身を引く。

「わたしに、触るな」

「では、このまま長く苦しまれますか」

緑金色の甲冑の騎士は、穏やかな声で言った。

「岩の如く忍耐強い貴方様のこと、痛みを表にお出しになろうとなさいませんが、この手傷でそのお顔色。

御身に、毒を受けておられるのではありませんか。時間が経ち、身体に回れば回るほどお苦しみも増しましょう。なぜ、すぐにキアリーの解毒魔法を施さなかったのです」

「わたしは魔族だ。人間の調合した毒ごときで、命を落とすことなどない。

この毒をわたしに喰らわせた剣の使い手が、こう言った。

我れは竜の神のさだめし天空の勇者なる御子に、光栄にも師範として剣を教授した者。

魔物よ、邪悪に生きることしか出来ぬ貴様らは畜生以下の外道だ。憎む価値すらない。我れら勇者の守り人は、それゆえ黄泉でも貴様を恨むことはないぞ。安心しろ、外道、と。

わたしは外道なのだろう。

ならば、外道として人間が死に至る苦しみをひとめ味わってみるのも、悪くないと思ったのだ」

「意趣の悪いお戯れはお止め下さい。

傷を検分、治療致します。少々痛みますが、お許しを」

緑金色の甲冑の騎士は、傍の戸棚から薬壺と蒸留酒の瓶を取り出して足元に置き、ピサロの首に巻き付いた漆黒のマントの紐を外した。

肩先の膨らんだ上衣の裾を左右に解き、床に膝をついて、王の引き締まった腰を縛る緋色の絹布をためらいなくほどく。

赤と黒の衣が床にするりと落ち、白樺の幹のような、はっとするほどうつくしい魔族の王の裸身があらわになった。

ピサロナイトの分厚い小手が、王の胸と背、ひとつひとつの無事を確かめるように慎重に触れる。

肩先の傷に強い蒸留酒がかけられ、ぱくりと割れた傷口が白く泡立ったが、ピサロは眉ひとすじ動かさず、触るな、とももう言わなかった。

「肩に毒傷、胸に痣、下衣には裂き傷がふたつ」

緑金色の甲冑の騎士は、ひそかに驚きを覚えて言った。

「ピサロ様ほどのお方がこれほどのご不覚、いかがなさいましたか」

「天空の勇者を殺した」

赤黒く変色した打ち身に膏薬を塗りこまれながら、ピサロは何の感慨もない声で言った。

緑金色の騎士は一瞬手を止めたが、動揺を見せぬようにふたたび治療を続けた。

「……ではこの傷は、勇者との立ち合いで」

「いや、これはすべて勇者の剣の師範と名乗った男の手だ。

山奥の集落の村人どもは、いついかなる時も外敵あらば戦うと覚悟を決めていたのか、我ら魔族軍を発見すると、あわてふためくことなく武器を手に取り、即座に抗戦体制を取った。

だが、所詮職業戦士ではないただの人間だ。

あれは戦とも呼べぬ……、一方的な虐殺だった。

その中で唯一、戦士らしく真っ向からわたしに剣を向けたのが、勇者の剣の師範を名乗る男だ。

鷹のようにらんらんと眼光をみなぎらせ、わたしに斬りかかって来た。恐らく、勇者を逃がすため時間を稼ごうとしたのだろう。

だが当の勇者の少年は、まるで殺されるのを待っているかのように自らわたしの前に現れ、両手を広げて棒立ちになった。

ここで死ぬことが、己れの崇高な役目だとでもいうように……、唇にはほほえみさえ浮かんでいた。

あの目……、わたしを心から憐れむような、あの少年の透明な目」

何かを思い出したのか、それまで冷静を保っていたピサロの唇から低い呻き声が洩れた。

「天空の勇者は、間違いなくわたしの目の前で死んだ。

忌まわしき予言はこれによって完全に破綻し、地獄の帝王の復活は果たされ、竜の神の思惑むなしく人間は滅びる。

なのに、なぜだ。

なぜあの少年は、死に際であのようにほほえんだのだ。


これこそが自分のやるべきことだというかのように、まだ子供に過ぎぬ天空の勇者は、身を折り曲げて大地へ倒れながら、ひどく幸せそうに笑った」



ピサロの裸の肩がぐらりと揺れ、瞳に狂おしげな光が浮かんだ。

「ピサロ様!」

「影の騎士よ。わたしは、魔族の王として真実正しいことをしたのか。

予言の未来は、本当にこれで失われたのか。

山奥の集落は塵と焼き払われ、大地は瘴気で毒の沼と化し、もはや一滴の命さえ存在しておらぬ。

ならばなぜ、勇者は笑ったのだ。

血に濡れた剣で己れを屠ろうとするわたしを、天空の勇者は、まるで哀れな子供をたしなめるかのようにまっすぐに見つめ、ほほえんだ。


あれは許しのほほえみだった。


今まさに死にゆくさなかにあって、己れの命を奪う者を心から許していた。


なぜだ。なぜ、そのようなことが出来る。

目の前で起こる全てを許す、そのようなことが出来る者など、わたしは、わ、わたしは……」

「ピサロ様、お気を確かに……!」

影の騎士はピサロの体を揺さぶった。

「ピサロ様!しっかりなさって下さい。ここはもう、山奥の村ではありません!」

だがピサロの体は恐慌に襲われたように反り、紫の瞳はに虚無に囚われたかのように、空に向かって大きく見開かれた。

緑金色の騎士が必死に自分を揺さぶっている、目の前の映像が溶けはじめ、彼の回りを吹き上げるようなまぼろしの炎が包み込んだ。
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