雪花


しかし、それはただの錯覚だった。

煙のように突如現れたピサロの体躯は、いつもの緋色の絹布と黒衣に包まれており、彫像のような白皙には一滴の血飛沫もついていなかった。

だがどれほど入念に付着した穢れを落とそうとも、皮膚の肌理(きめ)の隅々まで浸み込んだ臭気を、一度や二度洗ったくらいで落とすことは出来ない。

ピサロの全身からは、まるで血の海に頭まで浸かって来たかのような強烈な鮮血の匂いが漂い、表情のない顔は紙のように白く、漆黒の王衣は恨みを飲んだ亡者の念を鎧とまとわせているかのようだった。

これほどの臭気、ほんの一人、二人の命を手にかけた程度で身体に浸みつくわけがない。

ロザリーヒルの狭い小部屋にあっというまに立ち込めた、鉄を腐らせたような血の匂いそのものが、ピサロが恐らくたったいま犯して来たばかりの、いずこかの地での凄絶な殺戮の証明だった。

「ロザリー」

ピサロの唇から、音の狂った弦楽器のような声が洩れた。

「無事で、いたか。

いい子にしていたか。

何も、怖いことは起きなかったか」

「……わ、わたしには、なにも」

「そうか」

表情の抜けおちたピサロの唇に、かすかにふっと安堵のほほえみがくゆった。

「よかった」

そのとたん、ロザリーの瞳からふたたび涙があふれた。

足をよろめかせながらピサロに駆け寄ると、ロザリーは棒立ちになったまま微動だにしないピサロの体に、しがみつくように抱きついた。

「ピサロ様!ピサロ様……!

どうして、どうして……!

どうしてこんな、こんな……!!」

「ロザリー様!」

我れに返った緑金色の甲冑の騎士が、ロザリーとピサロの間に身を割り入れるようにして、動かないあるじの右肩を抱えた。

「ロザリー様、落ちついて下さい。ピサロ様は、お怪我をなさっていらっしゃるようです」

ロザリーがはっと身をすくめ、怯えた瞳でピサロを見上げる。

「ピサロ様……?」

「肩先を切っただけだ。怪我などと大袈裟なものではない」

「回復魔法を施しますか」

「要らぬ。無用な治癒魔法は身の修復力を弱める」

「では、只今すぐにお手当を。

ロザリー様。血の穢れを見ますので、ピサロ様とわたしはこれよりいったん隣室へ移らさせて頂きます。

ピサロ様はお強いお方です。どうぞ、お案じなさいませぬように。では失礼致します」

行動の機微をわきまえた賢臣らしく、緑金色の甲冑の騎士は迅速な挙措でピサロの身を支えると、隣室へ消えた。

ロザリーは扉の前にしばし立ちすくんでいたが、邪魔をしてはならぬと思いなおし、よろよろと小部屋の東端の窓辺に戻った。

(……ピサロ様)

窓の向こうで、雪が降り続けている。

白く染まる雪景色を傍らに、目を開けているのも辛いほど部屋一帯を埋め尽くす、濃密な血の匂い。

今すぐこの窓を押し開け、寒さに研がれた外気を部屋に入れてしまえば、ピサロが持ち込んだこの匂いはたちどころに消えるだろう。

だがロザリーには、なぜかそうすることが出来なかった。

まるで魂を抜き取られた蝋人形のように生気がなく、空虚に青ざめたピサロの顔。

ロザリーの無事を真っ先に確かめると、彼はがらんどうの紫色の瞳を細め、静かにほほえんだ。

その身を燃え盛る火焔に投じられる処刑の時を前にした、心澄んだ罪人のようなあのほほえみ。

彼が罪人だというなら、一体どこでなんのために、どのような罪を犯して来たというのか。

ロザリーは、胸にあてた自分の掌が小刻みに震えているのに気付いた。

手だけではない。肩も、足も、今にも壊れてしまいそうにどうしようもなくがたがたと震えている。

(ピサロ様を、止めなければ)

このままでは、ピサロ様は底なしの落とし穴に身も心も飲み込まれてしまう。

名前すら持たなかった天涯孤独なエルフの自分を救い、守り、やがて愛してくれた若き魔族の王。

闇の海に沈む夜光貝のように、心にひっそりと眠らせているうつくしいもののかけらを、この世でたったひとり、わたしだけに見せてくれる。

魔族と精霊エルフが結ばれるなど、光と闇が同じ場所にあることが出来ないように、決して叶わぬ愚かな望みなのかもしれない。

けれど、それでも。

(それでも、わたしは)

結ばれなくても構わない。

ピサロ様をお救いしたい。

もしもピサロ様が闇へ落ちて行こうとするのならば、わたしはなんとしても、それを止めなければならない。

あのお方は、ほんとうはまぶしい光の温かさをこそ求めておられるのだから。


だって、あんなにも優しい瞳で、わたしが歌う花の名をたどたどしく繰り返してくれた。


「花の名前とは、ずいぶんややこしいものが多いのだな。舌を噛みそうだ」と顔をしかめ、わたしを抱き寄せて笑ってくれた。


麝香のかおる広い胸にほほをうずめ、「わたしは、ピサロ様を愛しています」と、初めて言葉にしたあの時。


ピサロ様の白いお顔は、どうしてよいかわからぬように一瞬戸惑ってこわばり、それからわたしの大好きな桜の花と同じ色に変わった。


あのお優しいお方を、愛という言葉の意味を知っているあのお方を、わたしは救わなければならない。



たとえ、それがどんな結末を迎えることになろうとも。




ロザリーはその場に膝まづき、窓から見下ろす景色を包む雪に向かって、静かに両手を組み合わせた。


なにも出来ない。


でも、願い続ける。


祈り続ける。


届きますように。




わたしの願いが、祈りが、この雪の向こうで生きる誰かの心に、届きますように。




ピサロ様のお心を闇から数い出してくれる光に、どうかこの想いが届きますように。
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