透明人間の秘密(連載休止中のため未完)


透明になったクリフトが宿屋の廊下を脱兎のごとく走り去って行ったほんの数十秒後、今度は部屋を出たアリーナが、クリフトがひと晩すごした特等室に向かって歩いて来た。

この時、ふたりが鉢合わせしなかったのは奇跡だと言ってもよい。勿論、仮に会ったとしてもアリーナには何も見えない。

だが、今現在一糸まとわぬ姿でいるクリフトは、もし前方からアリーナがやって来るのを認めたならば、恐らくまともに平常心を保つことは出来なかっただろう。ふたりが会わずに済んだのは、ある意味で神の計らいだったのだ。

「クリフト。わたしよ。

何度もごめんなさい。今、話せるかしら」

数時間前ノックした扉をもう一度ためらいがちに拳の裏で叩きながら、アリーナは言った。

「時間は取らないから、少しだけ話がしたいの。開けてくれる?」

だが返事はない。アリーナはしばらく黙って、続けた。

「……まだ、ひとりでいたいの?」

返事はない。

じわっと涙がこみ上げるのを頬に力を入れてこらえ、アリーナはもう一度「すぐに終わる話だから、お願いよ。開けて」と言った。言いながら、たまらなく情けない気持ちになった。

馬鹿なアリーナ。こんなことくらいで、どうして泣くの。わたしはいつからこんなに愚かな泣き虫になってしまったの。

武術大会で強敵に痛恨の一撃を喰らっても、魔物がひしめく洞窟で迷子になっても、涙なんて一滴も出なかった。逆境はつねに、わたしという演者が活躍出来る格好の舞台だった。困難が目前に立ちふさがるほど、嬉しくなった。わたしはこれを乗り越えるに値する人間だと、自らの強さを誇らしく思った。

なのに、なのに。

クリフトがなにげなく放った「ひとりでいたいのです」という言葉に、わたしはおかしいくらい打ちのめされている。たったそれだけのひとことに、心が悲鳴を上げている。

それはなぜか。

きっと一生聞かないと思っていた言葉だったから。

クリフトはいつなん時なりともわたしから離れることなく、常にわたしを守り、わたしを愛する。

当たり前のようにそう信じきっていたからだ。

「返事くらいしてくれたっていいでしょ」

目の端から涙があふれ落ちて来るのをこらえることが出来ず、ついにはらはらと泣きながらアリーナは怒りの声を上げた。悲しみながら怒ることが出来る、都合のよい自分がひどく滑稽だった。

「どうして何も言わないの。話したくないなら話したくないって、ひとりがいいならひとりがいいって言えばいいじゃない。だんまりなんて最低よ。

お前、子供の頃は姫様はわがままにお育ちですとか、甘やかされていらっしゃるのですとか、よく言ってたわよね。どうして大人になったらなにひとつわたしを責めなくなったの?貴女様はそのままでいいのですよ、なんていつも物分かりのいい男ぶって。

今だってそう言えばいいじゃない。思ったことをはっきり言えばいいじゃない。なによ、ひとりでいたいだなんて遠まわしに。お前の本音はそうじゃないでしょ。

もういい加減、わたしの子守は疲れたから離れたいって、はっきりそう言えばいいじゃないの!」

ひと息に叫ぶと、アリーナは腕でぐいと涙を拭った。

自分で言った言葉の愚かさに、胸が焼けるようだった。ああ、なぜわたしはこうなのだろう。これじゃかまってくれ、あやしてくれと駄々をこねる小さな赤ん坊と同じだ。

はっきり言えばいいと叫びながら、心の底ではそうじゃないという否定の言葉をなにより待ち望んでいる。そうではないのです。わたしはこれからもあなたのそばにいたいのです、と言ってほしくてたまらない。

子供の頃、アリーナが機嫌を損ねてふんとそっぽをむくたび、笑顔のクリフトが体を折り曲げるようにして顔を覗き込んでくれた。わたしの一挙手一投足は、いつもその延長線上にある。大人になっても何も変わっていない。

クリフトはわたしに絶対に優しくしなくては駄目。彼は常に、どんなわたしをも受け入れなくてはならない。

そして彼はこれまで十年以上もの間、その役目を忠実に遂行してくれた。

この、甘え。この依存心。

きっとこれが、マーニャの言う「アリーナがクリフトを縛っている」ということなのだ。

「……ごめんなさい」

アリーナは力無く言った。

「本当ね。全部わたしのせいね。どうして気づかなかったのかしら。

いえ、気づいていたけれど、認めることが出来なかったの。だってそうすると、わたしにとってとても苦しい答えに辿り着くんだもの」

今までの自分がどれほどクリフトと言うひとりの人間を振り回し、思うがままにしていたか。

出会った頃からずっと、わたしの存在こそがクリフトをがんじがらめに縛っていたのだ。

「でもね、わたし」

アリーナはぽつりと呟いた。

「それでもお前が必要なの」

沈黙が辺りを満たす。

「これまでのわたしのやり方は、もしかしたら間違っていたかもしれないけれど、この気持ちにだけは少しも嘘はないわ。

お前にそばにいて欲しかった。他の人なんて誰ひとりいらなかった。これまでも、これからも……だって小さな頃からずっと、

わ、わたし、お前のことが……」

言いかけて、アリーナはふと言葉を途切れさせた。

「……クリフト?」

顔を上げ、なにかを確かめるように片耳をぴたりと扉につけると、眉をひそめる。

「そこにいるの?」

返事はない。アリーナはみるみる表情を引き締め、扉の把手を力任せに掴んだ。

「ごめんなさい。ちょっと乱暴だけど、開けさせてもらうわね」

把手を掴んだまま右にひねり上げながら、もう片方の拳で正面から鋭い一撃をくわえる。がん!という音と共に、金属製の鍵が見事に一瞬で折れ曲がる。

アリーナは扉をひと思いに押し開けた。

「クリフト!」

(いない)

豪華な家具の並んだ部屋の中には、誰もいない。気配すらない。唖然として周囲を見回し、床に視線をやったアリーナの顔が険しくなった。

部屋のちょうど真ん中あたりに、服が落ちている。萌黄色の法衣に長袖の白いチュニカ、橙色のストール。クリフトの神官服だ。

畳まれることもなく脱いだままの状態で放置されたそれを手に取ると、まだわずかにぬくもりをたたえていた。教会で焚かれる香油と同じ、白檀のかぐわしい香りが立ち昇る。だがその持ち主の姿はそこにはない。

「これは……どういうことなの?クリフト……」

アリーナは困惑しきって、物言わぬ神の子供の衣装を見つめた。
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