安らぎのささやき
夜は静かで、時折、啼(な)く。
それはうたた寝する鳥たちの呟き。風に揺れる木の葉のざわめき。絶え間なく流れる小川の水のせせらぎ。
月の光が霜のよう。青くつめたくてどこまでもつめたくて、なのに不思議とほのかにあたたかい。
「……う、あ……」
隣であなたがうなされ始めたから、わたしはいつもそうしているように震える手のひらに手のひらを重ね合わせ、額に浮かぶ汗の粒にそっとくちづけた。
ふるさとを突然襲った恐ろしい惨劇と、孤独に苛まれる過去を背負わされてしまった彼。時がどれほど経とうとも、心の傷は完全には癒えない。記憶も消えはしない。
どんなに忘れようと懸命に試みても、意地悪な夢の妖精は数ヶ月に一度のサイクルで、こうしてあなたを悪夢へ引き込もうとしてくる。
「ねえ」
まどろみの切れ間にいざない役の光る真珠を落とし込むように、ささやく。
「ねえ、わたしたち、明日は何をしようか」
あなたはなにも答えない。眉間に苦しげな皺が寄り、長い睫毛にふちどられたまぶたは硬く閉じられ、意識は夢にからめとられてわたしを映さない。
「東の森の奥でやっと咲いた、白いサクラソウを一緒に見に行きましょう。
のんびり散歩して、おいしい空気をたっぷり吸って。木彫りのお仕事は一日くらいお休みしたっていいでしょ?
お昼ごはん、あなたは何を食べたいのかな」
あなたはなにも答えない。けれど、痛みを堪えるようにこわばった肩が、かすかに揺れたようにも見えた。
「わたしがシチューを作るから、あなたはサラダを用意してね。そうだわ、バターがもうすぐなくなっちゃうの。お天気のいい日に一緒にブランカの城下街に買い物に行きたいな。
その時はわたし、好きな本を一冊だけ買ってもいいでしょう?」
あなたはなにも答えない。
けれど、尖ったおとがいがわななき、かすかに頷いたようにも見えた。
「あなたも本が大好きだものね。じゃあ、あなたも一冊。一冊ずつ、ふたりで本を買いましょう。
そうすれば一度にふたつも本が読めるわ。自分のぶんを読み終えたら、取りかえっこしてまた読んで」
あなたはなにも答えない。
「わたしが選んだ本、あなたもちゃんと読んでね。
今度はなるべく字が多いものにするから、わたしの欲しがる本はいつも絵だらけで、同じようなやつばかりで面白くないって、もう言わないでよ」
「……ふ」
あなたはなにか答えようとした。
けれど夢うつつの薄もやの中で震えるだけのそれは、形のある言葉にならず、ただ珊瑚色の唇が柔らかくほほえみの形に持ち上げられた。
「あー、笑った」
前髪を優しくかき上げてあげると、額の汗がゆるやかに引いてゆく。
頑なに心を緊縛していた闇色の紐が、さざ波が引くようにするするほどけてゆく。
「さあ、もう一度眠って。ゆっくりと、やすらかに。わたしはここにいるよ。
おやすみなさい」
おやすみ、シンシア
あなたはもう一度眠りのしじまへ帰る。重ね合わせた手のひらは畳んだ蝶の羽根のように、朝が来るまで決して離れることはない。
わたしも身を寄せるように、サフラン色のベッドの海に体を横たえた。傍らのまろやかな寝息を伴奏に、やがてうとうとし始める。
きっとこのままふたりとも、朝日が昇るまでぐっすり眠ってしまうだろう。
夜は啼くけれど、朝は啼かない。暁の明星が輝く頃、この世のすべては安らぎの幸福を手放さぬようじっと息をひそめているのだから。
悪戯な宵待ち月があなたを闇へとさらってゆこうとするたび、わたしは何度でもこうささやいて引きとめる。
(ねえ、わたしたち、明日はなにをしようか)
その時はまた、黙ってほほえんでほしい。きれいな瞳を閉じたまま、仕方なさそうに笑ってほしい。
幾度も繰り返す明日への約束が黄金色の揺りかごとなってあなたを守り、はるか千夜一夜の夢への道しるべになりますように。
―FIN―
1/1ページ