子守りをやってみよう



キメラの翼を大空へ向けて高く投げ、身体が時空のうねりに包みこまれる。

これまでも何度か経験した瞬間移動は、行き同様シンシアの華奢な身体を翻弄し、胃の底からひっくり返されるような心地悪さに、唇から思わず呻き声がこぼれた。

「キメラの翼やルーラなんて、旅の扉の気持ち悪さに比べたらなんてことないわよ」とアリーナは笑っていたが、旅の扉どころか馬車にも乗ったことがないシンシアには、この身体の内側を粘土のようにこねまわされる心地悪さはどうにも耐えがたい。

歩くことも走ることもなく、身ひとつで時空かなたまで超える移動魔法は、やはり身体になにがしかの悪影響をもたらすのだろう。

生まれたばかりの赤ん坊を敢えてサントハイムへ連れて来なかったのは、そのせいもある。だがシンシアには、本当は別の目的があった。

(あの子に、もっと赤ちゃんと仲良くなって欲しい)

たったひとりの幼馴染であり、いとしくてならない夫であり、またかけがえのない己れの半身でもある天空の勇者の少年は、これまで経験した激動の生のためか、

どうやら「命」と親密に接することに無意識な怖れを抱いているらしく、赤ん坊が生まれてこのかた、シンシアに頼まれない限りほとんど自分から手を触れようとしない。

ふたりの間に誕生した小さな命に、おっかなびっくりの興味と愛情はあるようで、シンシアがあやしていると傍らでしげしげと見つめはするものの、「抱いてみる?」と聞くと途端に困惑した表情を浮かべ、「いや、いい」とそっぽを向いてしまう。

彼が決して生まれたばかりの息子の世話を嫌がっているのではなく、ただどうしていいのか解らず戸惑っているのだということが解るからこそ、シンシアもそれ以上強く勧めることはしなかったが、このままではいけないのではないか、という懸念もあった。

だから思いきってふたりだけにしてみる、という荒療治に出たのだ。

でも実際にそうやってみると、意外なほど不安を感じていない自分に気付いた。

(あの子なら、きっと大丈夫)

クリフトさんも言った通り、あの子は命の貴さを知っている。

意地っ張りで頑固だから、なかなか人前で本音のままに行動しようとしないけれど、本当は誰よりも聡明で感情豊かで、愛する者に対して自分がやらなければならないことは何かを理解している。

きっと今頃、どきどきしながら赤ちゃんを胸に抱いて、誰も見ていないのをいいことにこっそり「俺が、とーさんだぞ」なんて、ほっぺにキスでもしているのかもしれない。

ほほえみにシンシアが頬をほころばせた瞬間、キメラの翼が繋げたサントハイムと山奥の村との異空間がぱたんと閉じた。

はるか遠い距離を悠々と越え、シンシアの身体はもう勇者の少年と二人で暮らす家の台所にあった。

「ただいま」

いらえはない。

家の中はうす暗く、水を張ったような静寂が降りていて、窓の外から差し込むオレンジ色の西日が夕暮れの訪れを静かに告げている。

「今、帰ったよ。遅くなってごめんなさい。

………に、………、

どこにいるの?」

シンシアは歩みながら勇者の少年の名前と、彼とふたりでつけた小さな息子の名前を交互に呼んだ。

全く語感が違うのに、どこか似ているように響くふたりの名を呼ぶのが、シンシアは好きだ。

なにか、とてもよいものを口にしているような気がする。神の加護を受けた幸福の魔法の言葉のような。

沈黙を分け入って歩みを進めると、奥の寝室の扉がわずかに開いている。

そこから鈴のようにかすかな声が洩れていることに気づき、シンシアは近づこうとしてふと傍らのテーブルに目をやり、驚いた。

(哺乳瓶が割れてる!)

急いで掃除したのか椅子は引かれたままで、無惨に割れた硝子の破片が乱暴に屑籠に入れられていた。テーブルはなぜか半分だけ、雪を散らしたように真っ白な粉ミルクの絨毯で覆われている。

掃除をしていたところを、赤ん坊に泣かれて中断したのかもしれない。使いかけのほうきもちりとりも壁にもたせかけたままで、ミルク缶に至っては蓋も閉まっていなかった。

シンシアは扉の隙間に寄り、そっと部屋を覗き込んだ。

そこに、彼女の家族はいた。

ベッドの真ん中で、赤子が眠っている。

その隣で自分の腕を手枕にして横たわり、翡翠の宝玉のようにうつくしい夫が目を閉じてしずかに歌をうたっていた。

懐かしい、柔らかなメロディ。それは小さな頃、シンシアと少年が遊び疲れて午睡を取る時いつも、うとうとするふたりの頭を撫でながら母親が歌ってくれた子守り歌だ。



ねんねんころりよ いざ眠れ

神の息吹をしとねに まどろむいとしごよ


おまえが望む 喜びを迎えよう 

おまえが恐れる 悲しみを払おう 

いとしごよ おまえがいれば

わたしは 父なる神になる

わたしは 母なる神になる

ああ 昔 わたしも小さないとしごだった


ねんねんころりよ いざ眠れ

いとしごよ このまどろみを 神の息吹をしとねに




「……お帰り」

少年は歌うのを止めて顔を上げ、扉の傍らに立つシンシアを夢から醒めたような瞳で見つめた。

「ただいま」

「もう帰ったのか。早かったな」

「そう?思ってたより遅くなっちゃったんだよ。ごめんね。今日一日、本当にありがとう」

「クリフトとアリーナ、元気だったか」

「うん、とっても。次はぜひあなたも一緒にって」

「そうか。こっちは……、今さっきやっと寝たばかりだ」

赤ん坊から身体を離すと、少年は音を立てないようにすばやくベッドからすべり降りた。

「ミルクを二回飲んで、汚れた服も着替えた。

何度かぐずって泣いたけど、歌をうたってやると不思議と泣きやむんだ。だから、仕方なく……」

「なつかしい歌だね」

言い訳めいた言葉を続けようとした勇者の少年は、シンシアがほほえむと口をつぐんだ。

小さな両手を握りこぶしの形に丸め、ぐっすり眠っている赤ん坊を見やると、自分もまだ眠りのふちにいるように辺りを見まわす。

「もう日が暮れそうだ。全然気づかなかった。

赤ん坊と一緒にいると、どうしてだかわからないけどすごく眠くなる。何度もつられてうつらうつらした」

「赤ちゃんはまだ、星の海からこの世界に来たばかりで、さびしがりやの夢魔にいつも魂を引っ張られているの。

だから起きたばかりの時は、感謝を込めて抱っこしてあげないといけないのよ。

ここへ来てくれて、ありがとうって。おなかがすいたり泣いたり、生きることはとても大変なことばかりなのに、それでもわたしたちのところへ来てくれてありがとうって」

「ああ」

勇者の少年は素直に頷いた。

「必ずそうする」

「そういえば、哺乳瓶が割れてたみたいだけど、怪我をしなかった?」

「大丈夫だ。ちゃんと片付けなくて……、ごめん」

「いいよ。予備はまだ何本もあるし、それに粉ミルクも哺乳瓶も、わたしがいる時は使わないもの」

「……」

その言葉が意味することに気付くと、勇者の少年はすこし顔を赤らめて目を逸らし、やがて言った。

「子守りは、難しかった。

お前が風邪をひいて寝込んだ時と違って、掃除も洗濯も全然出来なかった。

赤ん坊はすぐ泣くし、どうして泣くのかわけがわかんねえし、頭に来て怒鳴ったって何も解決しない。

子供が生まれるのは、嬉しいことだ。ひとりじゃなくなるってことだ。でも、ひとりじゃなくなるってことは、自由もなくなるってことだ。

自分のしたいことをしたいようには出来ない。嬉しいのと同じくらい、わからないことや……、多分むしゃくしゃすることも増える。

でもそれは、ずっとは続かない。期間限定の幸せな不自由だ」

シンシアは勇者の少年にそっと寄り添った。

少年はシンシアを抱き寄せ、頭にことんと頬を乗せた。

「今までなんにも手伝わなくて、ごめんな」

「そんなことないよ」

「きっと、今日一日であいつは俺のことを覚えたはずだ」

「この人がお父さんだって?」

「多分な」

勇者の少年の声はいささか自信なさげに響いた。

「やっぱり、たった一日一緒にいたくらいじゃ無理か」

「大丈夫。わたしにもあなたにも、覚えてもらうための時間はきっとたくさんあるわ」

「シンシア」

「なあに」

「……俺」

シンシアの頭の上で、無愛想な夫のくぐもった声がぼそっと呟いた。

「子供が好きだ。

お前のことも好きだ。

家族が、出来て嬉しい」

シンシアは目を見開き、新米夫の顔を見上げた。


「……じゃあ、もっともっと……、

たくさん作る?」


羞恥を隠そうと精一杯引き結ばれた唇と、あどけなくほほえんだ唇が真珠貝のように重なりあおうとした時、


お、ぎゃああああ

あ、にゃああああ


とろけるような甘い愛の空気からはじき出されまいとしてか、寝ていたはずの赤ん坊が突然火のついたように泣きだした。

勇者の少年はあからさまに顔をしかめ、シンシアは楽しそうに顔じゅうに笑顔を広げると、赤ん坊を抱きあげながら夫に向かって悪戯そうな、諭すような言葉を手渡した。

「わたしたち、小さな不自由の代わりに、時折訪れる自由のめくるめくような幸せを知るのよ。

家族が出来ると、毎日がいろんな幸せのお勉強。


だから続きはあとで、……ね!」



-FIN-


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