少女は、眠りのことのはに追われ


ひとたびは魂となったはずなのに、神の奇跡か気まぐれか、再び体という入れ物に戻ることが出来ていつのまにかもう幾月が過ぎた。

同時に、あの花畑で眠らなくなってからも。

黒い瘴気を吸い込んだ山奥の村の大地は、平和と共に常磐色を取り戻し、色とりどりの花も昔と同じようにあふれんばかりに咲き乱れていたけれど、それでもエルフとして並外れた嗅覚を持つ自分には、わかってしまうのだ。

土と土のすきまに染み込んだ、消えない酸の毒の匂い。

焼け焦げて灰となって散り失せた、今はもう形なきいとしい命たちのかけらの匂い。

かつての惨劇の疼きをまだ拭いきれていないこの村で再び暮らすということは、胸を引き裂いたあの苦しみも悲しみもすべて動かしがたい事実だったのだと、回復と引きかえに記憶を平手打ちして、痛みをわざわざ確認するようなもの。

でも、離れている間天空の勇者と呼ばれていた幼馴染の少年が「また、ここで暮らす」と言った時、エルフの少女に異存の言葉はひとつも浮かばなかった。

彼の想いは自分の想い。

彼がそれを選ぶのなら、自分が選ぶ道もまた、必ず同じ方向へと伸びて行く。

「……シンシア」

ベッドの上のサフラン色の毛布とシーツの白波が、金色の朝陽を受けてゆらゆらさざめく。

傍らでうつぶせていた人の形が緩慢に動き、とろりと眠たげな緑色の瞳がこちらを見た。

「シンシア。

……シンシア?」

駄目、いらえは返さない。

目を開けて見つめ返してもあげない。

ふとした悪戯心であわてて作ったたぬき寝入りは、決して上手とは言えないのだが、神経質なくせに意外と鈍感なところのある彼には、不思議と通用してしまう。

「シンシア。なあ、シンシア」

繰り返す声。

徐々に不安が滲みはじめる。

わざと返事をしないなんて、ほんとうは少し酷だ。

少女の名前を呼んで存在の有無をちゃんと確かめないと、彼の一日は決して始まらないということを、知っているから。

今日もちゃんと生きて、自分の隣にいるのかを。

自分の大切な半身は、もう二度と失われたりしないのかを。

しらんぷりは五回が限度、それ以上だと顔色を変えて揺さぶり始めるから、少女はううんと伸びをして、いかにも今目が覚めたというように、ゆっくりと瞳を開いて少年を見つめ返した。

「おはよう」

「……おはよ」

彫像のような美しい白皙に、みるみる広がる安堵。

合わせた視線に微笑みが混じる。

あまりに美しすぎる容姿を持つと、女神の嫉妬を買ってしまい、代償として生涯不幸に見舞われるのだとなにかの本に書いてあった。

だとすれば、この子はその例外の一人目になる人間だ。

奇跡によって再び与えられた命のすべてを賭けて、自分が必ず例外にしてみせる。

「もう、起きる?」

「ああ」

緑の目をした少年は丸めた拳で瞼をこすり、子供っぽい仕草で頷いた。

「腹が減って、目が覚めた。なんか食いたい」

ついさっき不安に襲われたことなどおくびにも出さず、ほほえんで大仰なため息をつく。

「自分でも呆れるよな。夕べもあんなに飯を食ったのに。

どうしてだかこの頃、やたらと腹が減ってしょうがないんだ」

「身体が元気を取り戻そうとしてるんだよ」

少女はそっと少年の頬に触れた。

「旅をしてるあいだ、ろくに食事を取らなかったんでしょう。

顔色も悪かったし、あなた、まるで獲物を探せない真冬の狼みたいに痩せてたわ」

「ちゃんと食ってたさ」

少年はいささか自信なげに否定した。

「戦うのに必要な力のぶんだけは、無理矢理。

出された物を綺麗に片付けないと、口うるさいバドランドの髭の王宮戦士がそりゃあおっかない顔して怒るんだ。

食べよ!勇者殿。どんな厳しい稽古より、食が全ての強さの源となるのだぞ!

……って、な」

もうすでに終えたあの旅の頃の追憶を辿ると、少年の緑の瞳に日だまりのような懐かしさが満ちる。

自分が傍らにいないあいだに彼がかけがえのない仲間を得たということは、言い知れないほどの喜びと、奇妙な一抹の寂しさをエルフの少女にもたらした。

「でも、お前には負けるけどな」

たぬき寝入りには気付かないくせに、横顔に混じった寂寥の影には敏感に気付く。

少年はすばやく少女を抱き寄せ、どんなに長い旅を共にしようとも、仲間たちの誰にも見せることのなかった無防備に柔らかい笑顔を向けた。

「ライアンより誰より、俺にはいちばん、お前がおっかないんだ」

「あら、どうして?わたし、あなたのことを怒ったりなんてしないわよ」

「怒らないけど、いつも見てる」

緑の目をした少年は微笑んで、立てた親指で自分の胸をとんとんと叩いた。

「お前は、もうひとりの俺だ。離れても、そばにいなくてもいつでもここにいた。

自分の中のもうひとりの自分に見られてたら、嫌でもちゃんとしないわけにはいかない」

「まあ、ほんとうにちゃんとしてたのかしら?」

少女はわざと怖い顔を作って、少年を覗き込んだ。

「わたしがいない間、仲間のみんなに毎日おはようやおやすみの挨拶をして、感謝の心や好きの気持ちをきちんと言葉にしていた?

いつもみたいにむっつり黙って、さあな、べつに、ばかり言ってなかった?」

「そ……」

図星を刺され、かつて勇者と呼ばれた少年はさっと赤くなった。

「……たまには、そういう時もあったけど」

「あなたはとても優しいけれど、どうしても言葉が足りないから。

ねえ、知ってる?思ったことはちゃんと形にしないと、相手にとっては思っていないのと同じになってしまうんだよ」

「わかってるよ」

拗ねたように口を尖らせて、少年は少女を包む腕に力を込めた。

「自分以外の誰かに、いつ気持ちが伝えられなくなる日が来るかもわからない。そんなのよくわかってる。

だから今は、お前にだってなんでも言うようにしてるだろ」

「なんでもって、なにを?」

「そうだな……、例えば」

緑の目の少年はしばらく考えてから言った。

「お前の料理はずいぶん美味くなったけど、キッシュにアオインゲンを入れるのはどうしても止めて欲しいとか」

「それ、なんでもじゃなくてただの好き嫌いのわがままじゃない」

「雨の日に納屋で木彫りを作ってる間、出来ればずっと横にいて欲しいとか」

「あそこがじめじめ薄暗くて、ひとりでいると寂しいからでしょ」

「それから……腹は、減ったけど」

すずやかな低い声がふと音を下げる。

白樺の枝のようなしなやかな指が伸びて、エルフの少女の髪をかきわけた。

額にキスと、少しくぐもってかすれたためらいがちな囁き。


「やっぱり起きるのはやめて、このままもう少しこうして……、


お前と一緒に眠っていたい、とか」






花畑で眠らなくなって、もう幾月が過ぎた。

けれど大丈夫。

甘く柔らかな花の香りや、肌をくすぐる黄金色の新芽よりも、確かなぬくもりで眠りの精を誘ってくれるいとおしい寝床を見つけたから。

いつかすべてが幸せの記憶に変わる。

「な、シンシア」

「なあに?」

「明日もあさっても、こうして……」


一緒に眠ろう。


いつまででも、朝が来たって眠ろう。


少女は頷いて、再びやって来た淡い夢のはざまに身を委ね、同じ形で自分を包む愛しくてならない緑色の光に手を差しのべた。

大丈夫、今度こそずっと、ずっと傍にいるよ。

おはようもおやすみも、いつも一番に贈る人。



あなたが、わたしの花畑。





―FIN―



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